第14話 ルカ様と、勇者
今も、そしてかつてもこの大陸は人や人型の種族たちが争い犇めき合う場所だった。それはもう、北海の小さな島にまで二本足の我が物顔で闊歩する生き物が占めていたくらいさ。だがそれは、突然現れた魔物によって一変した。二足歩行の獣たちはあっという間に蹂躙され、大陸の僅かな場所へと追いやられ始めた。魔族の中にも二足歩行で人型のものは在ったが、言葉は通じなかった。通じたとして、意味があったかどうか。傲慢な人類は家畜のように追い立てられて初めて、国だの民族だの種族だのを越えて協力することを決めた。ありとあらゆる手段が講じられ、ありとあらゆる種族の秘儀が開示されることを、わたくしは喜んでいたのだよ。知識欲などと呼ばわるのも汚らわしい、邪悪で純粋で無慈悲で無遠慮で無分別な好奇心とやらでね。
スヴァンくん。人は人を殺す。富み満ち足りても、貧困に喘ぎ追い詰められても、それぞれの理由で同族を殺す。人とは残酷な生き物だ。そうして心が何も感じなくなった時、残酷なことはもはや普通であり必然になる。だからわたくしは、意味など考えずにただ、魔物を倒すため、己の好奇心を満たすため、勇者召喚の魔法を発動した。
――召喚された勇者は、まだ十六かそこらの子供だったよ。幼く、そして美しい目をしていた。わたくしは何度も、見知らぬ場所へ呼び出されて怯えるあの瞳を思い出す。苦く、苦しい、わたくしの罪がそこに映る。
それでもわたくしは、美談という嘘で彼を騙してその綺麗な手へ剣を握らせて言ったんだ。我らのために魔王を倒せ、と。それがあなたの役目である、と。
オリトは素直な優しい子でね。疲弊して傷ついて荒んだ目をした人々を前に、それを断れる子ではなかったのが災いした。戸惑いながらも剣を取ったオリトはわたくしたちの期待以上に勇敢だった。人々は大陸を、国を、尊厳を取り戻し始めた。代わりにオリトが疲弊し、削れ、壊れて行っていることに気づかなかった。
ああ。
ぼくには想像ができてしまった。まだ高校一年生になるかならないかの、日本で平和に育った少年が、耐えられるだろうか。大義名分があろうが、それが見知らぬ世界の見知らぬ人たちを救う道だろうが、いつ死ぬとも知れぬ、いつ終わるとも分からない戦いに身を置き続けることに、慣れるだろうか。
「それは魔王の根城に迫ったある日のことだった。野営だなんていえないほどにお粗末な、座ったまま泥のように眠るつかの間の休息を取っていた。わたくしは彼の隣に座っていて。小さな啜り泣きに気付いた。『お父さん、お母さん、帰りたい』繰り返す言葉に初めて、わたくしは己が犯した罪を理解したんだ」
正直誰も、魔王を倒したあと彼をどうするかなんて考えていなかった。だって、禁書には勇者召喚の方法しか書かれていなかったからね。けれど彼は、魔王を倒したら帰れるんじゃないかと、それだけを支えにここまで進んで来たのだろう。
その時になって初めて、わたくしはわたくしの行いの意味を知ったんだ。頭を後ろから思いきり殴られたような、それでいて悪夢から覚めたような気分だった。
勇者召喚。それは呼び出される方からすれば、ただ運の悪い生贄として捕らえられ、恐ろしい敵の前へ放り出されただけの身勝手で理不尽な。
結論から言うとね、わたくしは魔王の元へ辿り着くまでの短い間でオリトを元の世界へ帰す魔法を構築した。たくさんの魔物の命と、魔王の膨大な魔力を糧に逆召喚ができないかと考えたんだ。
魔法は発動した。無事に、かどうかは分からない。オリトが元の世界に戻れたかどうか、わたくしには確かめる術がない。
「好奇心からわたくしは彼から色々な話を聞いた。オリトはいつも、わたくしの質問に一所懸命答えてくれてね。だから君と過ごして確信したんだ。スヴァンくん。君は、オリトと同じ世界から、来たのではないかい?」
「……!」
ああ。ルクレーシャスさんの「理由」。それはルクレーシャスさんの後悔であり、懺悔であり、贖罪であり。
「けれどオリトとは違って、君はこの世界の人として生まれたように見える」
ルクレーシャスさんは立ち上がり、ぼくの足元へ跪いた。両手をルクレーシャスさんの手で包み込まれ、瞳を覗き込まれた。
「それでも、元の世界に戻りたい? わたくしにできることは、あるかい?」
「……、っ……」
ぼくの涙腺は壊れてしまったようだ。だばーっ、としょっぱい水分が頬を流れる。何かが決壊してしまったかのように涙が止まらない。
「ぼく、は……っ、勇者さまと違って、あちらでは、死んでいるので……っもう……っ、もどれ、ないんですけど……っ」
ずず、と鼻水を啜る。考えるより先に言葉が口から転がり出た。
「だすげてほしい、です……っ」
ああ、そうだ。ぼくはこの世界に生まれてからずっと、誰かに助けてほしかった。頼ってもいいと思える、頼っていいと言ってくれる、頼れる誰かに、安心していいよと言ってほしかったんだ。ずっと。
「助けるよ。君は何も遠慮することはない。わたくしは、わたくしの身勝手な贖罪という自己満足のために君を見捨てられないでいるだけなんだから、図々しいくらいに利用していいんだ」
「うえええええぇん」
みっともなく泣きながら、手を広げたルクレーシャスさんの胸へ飛び込む。ルクレーシャスさんの首に縋りながら、頭が空っぽになるくらいに声を上げて泣いた。肉体の年齢に精神が引きずられているのだろうか。思っていたよりぼくの心は、疲れてしまっていたようだ。
結局、ぼくはそのまま泣きつかれて眠ってしまったようだった。夜中に一度、目が覚めるとぼくは自分のベッドで寝ていた。ベッドの端にルチ様が座っていて、ぼくの頭を撫でてくれたことを覚えている。朝、起きたら目が腫れていてベッテが濡れたタオルで目を冷やしてくれた。そういえば、コモンルームにはフレートもベッテもラルクも居たんだった。ぼくとルクレーシャスさんの話をどう、受け止めたのだろう。けれどベッテもフレートもラルクもいつも通りだった。ラルクは「おはよう」と声をかけると、ぼくの頭を撫でてくれた。お兄さんぶっているのが少しおかしくてくすぐったくて、笑ってしまった。
「スヴェンはまだ五才なんだから、あまりがんばらなくていいぞ」
何言ってんだよ、君だってまだ七歳だろと思ったけど、代わりにまた少し目からしょっぱい水が出た。
「おはよう、スヴァンくん」
「おはようございます……」
消え入りたいくらい恥ずかしいけど、まぁやっちゃったもんは仕方ない。朝食後、コモンルームでルクレーシャスさんに向かい合う。つもり、でソファに座ったんだけど、ぼくはルクレーシャスさんの膝に抱え上げられた。もう徹底的に甘やかすことに決めたらしい。
「えっと……色々お話しなくちゃいけないことがあるんですけど、とりあえずぼく、元の世界に戻るんじゃなくてこの世界でどうにか生きて行こうと思ってるんです。それにひょっとしたら、本物のスヴァンテ・フリュクレフとぼくが入れ替わっていて元に戻るという可能性もあるんじゃないかと思っていて。本物のスヴァンテ・フリュクレフが戻って来ても困らないように、環境を整えておいてあげたいんです」
「うん」
「だから、そのためにルカ様に助けてもらいたくて色々お手伝いお願いしたいと思っています」
「うん」
「それと、実はぼく、元の世界で二十五歳まで生きていた記憶があるので本当は中身も合わせると三十歳です……」
「うん? うん。まぁ、三十歳なんてわたくしからしたらひよっこだよ。雛鳥だね」
「うう~ん、そう、かなぁ……」
「でもまぁ、これで君が異様に賢い理由が分かりました。でもわたくしから見れば全然子供なので子供扱いします。大体さぁ、ヴェンだってわたくしから見ればまだ三十ちょっとしか生きていない小賢しいガキなのに、『自分以上に小賢しい子供がいるのですがベステル・ヘクセ様はご興味があると思います』とか抜かしたんだよ。君のこと。ヴェンが子供扱いなんだから、君なんて赤ちゃんだよ、赤ちゃん。いいね?」
「はい……」
けれどぼくは見逃さなかった。ぼくが中身は三十歳だと言った瞬間、フレートが微かに複雑な表情を浮かべたことを。そうだよね、見た目が五歳の主が実は中身は自分と年がそう違わないとか困惑しかない。いつもなら静かに控えているベッテが、ぼくへ向け一歩進み出た。
「ベッテは今まで通りにお坊ちゃまをこのベッテの子として接しさせていただきとう存じます。スヴァンテ様がベッテのお乳を吸っていたのは、まだほんの四年前でございますもの」
「あのう、ものすごく複雑な気持ちなので、お乳吸ってたとかもう言わないでほしい、です……」
中身二十五歳成人男子でおっぽい吸ってたとか犯罪だからねッ! 体は赤ちゃんだったから生きるために仕方ないとはいえ、犯罪臭が! 半端ないからッ!
「いいえ、申し上げます。ベッテにとって、お坊ちゃまはお坊ちゃまで、ベッテのかわいいウサギさんですので」
ひええ、恥ずかしいからやめてほしい。珍しくフレートが僅かに声を上げて笑った。
「懐かしゅうございますね。ラルクと共にベッテの胸に抱かれてウサギさん、こぐまさん、とあやされておりましたのが、まるで昨日のことのようでございます」
「どうしてぼくは兎で、ラルクはこぐまなの?」
「スヴァンテ様は生まれた時から大変に大人しく愛らしいお子様でしたが、ラルクは生まれた時から力の強い子でしたので」
いつでもぴんと背筋を伸ばしたフレートを見つめる。ぼくはとても恵まれている。だって、ぼくを守ろうと慈しんでくれた人たちはちゃんと居てくれる。ねぇ、本当なら今ここに居たはずの君。君にもそのことが、伝わるといいのに。
「いつもありがとう。これからもよろしくお願いしたいんだけど、フリュクレフ公爵令嬢の元へ戻りたい時は遠慮せず言ってね、フレート」
「……!」
フレートはフリュクレフ公爵令嬢の執事だ。本当はフリュクレフ公爵家へ戻りたいのではないだろうか。それは、ずっと考えていたことだった。
「……スヴァンテ様。私が皇王陛下にスヴァンテ様を皇室で預かっていただきたいと、願い出たのです」
それはフレートが考えた、生まれたばかりで両親のどちらにも引き取りを拒否されたぼくを守る精いっぱいの方法だったのだろう。フレートは少し、身を屈めた。いつも完璧に感情を隠した執事は、何かを懐かしむように、視線を落とした。
「その際に、シーヴ様には二度と公爵家に戻るなと申しつけられております」
手を胸に当て、きっちりと腰を折ったフレートの正しく撫でつけられたつむじを目路へ入れる。主に逆らってまでぼくを守ってくれたフレートは、一体何を想うのだろう。今、ここに居るのは生まれたばかりで何もかもを失ったぼくを、見捨てることができずについて来てくれた人たちだ。
ルクレーシャスさんの膝に抱えられたまま、手を伸ばす。完璧な執事は目を丸くし、それから初めて見せるはにかんだ笑みでぼくの手を取った。
「じゃあ、もうぼくの傍から離してあげませんので覚悟してください」
にっこり笑って顔を傾ける。フレートはくしゃりと顔を歪めた。笑顔は失敗したのに、それはとても優しい表情だった。
「承知いたしました、スヴァンテ様」
「うふふ」
顔を合わせて微笑みを交わす。握手するように手を揺らすと、軽く握り返された。
「とりあえず、君の前世の知識は強みだからこれからは隠さずどんどん出して行こう。いいね?」
「はい」
「じゃあ早速、ヴェンにわたくしが君の後見人になるって話をして手続きを済ませて来るよ」
「あ、待ってください」
「ん?」
立ち上がろうとするルクレーシャスさんを制止する。再びソファへ腰を下ろしたルクレーシャスさんを仰ぐ。この人、結構思い立ったら即行動の人だ。
「建物が既にある土地を買ったとしても、離宮を離れるのは少なくとも一年は先になりますよね。土地だけを買ったとしたら、そこへ屋敷を建てなければなりませんし、屋敷を住める環境にするために人も雇わなくてはなりません。後見人の手続きをするのも、できるだけ離宮を離れる直前に行ってほしいのです」
「ヴェンが悪知恵で妨害するのを防ぐため、かな?」
「はい。なるべく騙し討ちみたいな感じで、事前に対策を講じることのできないタイミングにしたいです。それまでは、とにかく大人しくお金を稼ぐことに集中したいと思います。なので、まず先に孤児院を作ることにします」
「タウンハウスの方も、孤児院を建てていると勘違いさせられる、ということだね?」
「はい」
「そちらの名義もスタンレイ様にお願いするおつもりでしょうか」
フレートが確認のための質問を口にした。ぼくは小さく何度も頷いた。
「そうだね、そうしてもらえるとありがたいです。名前も『ルクレーシャス・スタンレイ記念孤児院』とかにしましょう。法的、政治的にはルカ様のお力で守っていただいて、物理的にはルチ様の魔法で守っていただきます」
「戦争中であろうと、わたくしの名義の土地には攻撃してはならないことになっているからね。幾度かはフレートと一緒にパトリッツィ商会と離宮を行ったり来たりかな?」
「ええ。お願いします。例えルクレーシャスさんの名義にするにしても、タウンハウスは貴族の居住区画に造ることになりますよね。だからタウンハウスも、貴族籍を持つ子供の孤児院として申請します。実際、タウンハウスの敷地に貴族籍を持つ子供の孤児院も建てます」
「君は本当に知恵が回るね。他の誰でもない、君が貴族籍を持つ子供の孤児院を建てると言えば、誰もが納得せざるを得ない」
「小賢しいのですよ」
孤児院の視察をする体で、タウンハウスの準備を進めてもらって、なるべく皇王には秘密で事を済ませたい。皇王は皇室の利益とぼくの人生を天秤にかけたのなら、非情だろうとぼくの人生を壊す選択を冷静にするだろう。そういう意味でも、しばらくジークフリードの訪問は遠慮願いたい。ジークフリードが来なければ、バルタザールが離宮へ来る理由もないのだから。
「スヴァンくんはしばらく、体調不良ということにしよう。ヴェンに伝わるのを防ぐためだ。それでいいかな?」
ルクレーシャスさんの提案に一同が頷く。もうね、知るもんか。ぼくをここまで育ててくれたお礼は、丁重にあのバカ両親がするべきだ。ぼく、まだ五歳だもん。
「ではぼくはこの冬、自室にこもることにします」
「そうだね。鍵星の部屋にはフローエ卿は近づかないから、ヴェンへ何か漏れることもなくなるだろう。フローエ卿にはいくつか幻影魔法をかけておくよ」
魔法をかけなくてもフローエ卿ならぼくの部屋どころか、ぼくにも近付かないと思うな。ルチ様に膝抱っこされているぼくを見てから、ぼくに近づかなくなったから。ほんとフローエ卿は皇王に忠実なのか違うのか分からない。
「かしこまりました」
「承知しました」
ベッテとフレートも頭を下げる。ラルクはいつも通りでいいだろう。あれでなかなかちゃんと空気の読める七歳児だし、癒し枠なのであのままでいてほしい。
「夕餉の準備をしてまいります」
コモンルームを出て行くベッテと入れ違いで、ルチ様が入って来た。ぼくの目には藍色の帳が薄く降りたように見えるけど、他の人には見えてないだなんてもったいないな。とっても綺麗なのに。
「ルチ様」
抱え上げてもらおうとしたら、するりと近付いて来たルチ様にルクレーシャスさんの膝から奪うように抱き上げられた。すり、と頬ずりされる。ルクレーシャスさんが一つ大きなため息を吐いて、向かいのソファへ移動する。
「ご寵愛が過ぎないかい?」
「うーん。あはは……」
覚えず見惚れてしまうほどの笑みを浮かべたルチ様に体ごと揺らされて、ぼくは苦笑いをした。
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