第12話 張氷月から神渡り月の初め

 もうこれいっそ、諜報活動なんじゃないかと考えた方が納得できる。

 今日も今日とてぼくへ魔法理論や魔法陣式展開学について質問しているバルタザールを見ると、そう思った方が気が楽だ。

「先日君が解いていた数式についていくつか質問があるのだが、いいだろうか」

「……え……はい……」

「ここに『a、b、c』と入れているが、何故だ。それにこれは君が考えた数式か? 何故このような考えに至ったのか知りたい」

「これはラルクに計算を教える時に、例として書いたものです。『a』や『b』は別に他の文字でもいいんですけど、分かりやすくするために用いています。例えばこれだと、『b+c』をしてから『a』を掛けるのと、『a×b』『a×c』をしてからそれぞれの答えを後から足しても同じ答えになるということを示しています」

 めっちゃ簡単なことをすごい発見みたいに言うの、恥ずかしいからやめてほしい。ぼくは勉強に関してはからきしだったので、最低限の知識しかないんだってば。あとやっぱ、前世の知識でズルしてる罪悪感みたいなものが半端ないんだよほんとそっとしておいてもらえないかな。

「君はこれを、その年で一人でこの考えに至ったことがどれほど稀有なことか理解しているか」

「……そんな、大げさですよバルタザール伯」

「バルティと呼びたまえ」

「……バルティ様」

 だってフレートもルクレーシャスさんも何も言わないから、この世界にも素因数分解とか代数とかあると思ってましたよね。貴族ですら、簡単な足し算引き算割り算掛け算くらいしか習わないらしい。面積とか体積の計算とかは研究者がいるそうだ。貴族に必要ないものは専門的に扱われているらしい。つまり、貴族と言えどたかが五歳児が自力でこの考えに行きつくのはおかしいという話なのである。バルタザールに指摘されるまで、誰にも指摘されなかったから別に不思議なことではないのかと思ってた。会話に付いて来られないからか、ジークフリードはぼくとバルタザールを放ってラルクと遊んでいる。

「これなどは皇王立研究院で数式理論の教授が研究するレベルだ。一体君は、これをどこで習ったんだ?」

「素因数分解ですか、それはグレーナー教授の論文から思い付きました」

 適当に皇王立研究院教授の名前を挙げる。しかしバルタザールは会話に付いて来る。

「素因……数……? クレメンティア・グレーナー教授の? どの論文か、聞いてもいいだろうか」

 必死に記憶の中を辿って「これ素因数分解じゃん」と思った論文のタイトルを思い出す。

「ええ、『数字の中に存在する小さな数字の可能性』という論文だったと思います」

「先日パトリッツィ商会から発売された『英雄ヴェンデリーン』の絵本も素晴らしかった。挿絵も君が描いたと聞いたが、事実か」

 そう、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治をモチーフというか、名前と設定変えてそのまんま絵本にした話だ。いつの時代も英雄譚というのは人気があるものだ。バルタザールも十歳の男の子というわけである。妙に納得しながら頷く。

「ええ、はい」

 それはぼくが創作したりコスプレ衣装を作ったりするタイプのヲタクだったからですね! とは言えないので何とも気まずい。ヲタクは異世界転生してもヲタク。呼吸するより自然に創作してしまうものなのだ。

「この前見せてもらった、水を召喚する魔法陣も見事だった。無駄がなくて美しく、何より精霊語を省略していた」

「あれは術者の精霊語の理解度によって、魔法の発動に違いが生まれるのではないかと思ってルカ様に試してもらったものです。この世界は『名づけ』られたもので構成されています。言葉、言語が世界を構成していると言っても過言ではないのではないか、と」

「なるほど、言語の理解度によって魔法の精度が変わる、か。興味深いな」

「まぁ、ぼくは魔法が使えないので誰かに実践してもらうしかないので、ただの机上の空論ですが。何もかもが中途半端で困ってしまいます」

 ヲタクな上に考察厨だから、理解できるまで知りたいし一生厨二病に罹患している身としてはそりゃ魔法陣とか、魔法使えなくても書きたいし、覚えたいよね! だってカッコイイじゃん!

 でもそんなことを言えるわけがなく、はぐらかすために苦笑いする。これ以上この話を、バルタザールとはしたくない。バルタザールの視線が、ぼくの唇の左下で止まった。それから頬を染めると、目を逸らす。何なのほんと、そんなにこのほくろが気になるのか。ぼくに断りなく生まれた時からここにあるんだから、仕方ないでしょ。そんなに見たってほくろは移動しないんだよ。日によってあったりなかったりするわけないんだからさ。

「いいや。本当に君は多才だ」

「バルタザール様ほどではありませんよ。油絵などは陛下のお気に入りの画家が絶賛したほどの腕前と伺っております」

「バルティでいい」

 気恥ずかしそうに僅かに俯いて耳を赤くしたバルタザールを、うんざりした気持ちを隠して見つめる。来年からはジークフリードと一緒に帝王学やらなにやら、勉強することになっているらしい。宮中ではまさに神童と言われているそうだ。少し接するようになって何となく察したが、バルタザールはかなりの負けず嫌いのようだ。きっと家でも家庭教師を雇っているのだろう。賢い子だからこそ、警戒せねばならない。彼の父と結託して、ぼくを陥れようとしているかも知れないのだ。ぼくの高祖母を、裏切ったように。

「あ、はい……バルティ様。よろしければ、お茶とお菓子を用意させているのですが、いかがですか」

 まだ何か言いたげな表情を浮かべているバルタザールへお菓子を勧める。バルタザールが来る日は片手で食べられるようなデザートではなく、テーブルに座ってスプーンやナイフ、フォークを使って時間をかけて食べなくてはならないものを出すようにしている。ジークフリードと違って、きちんとマナーを身に付けているバルタザールは、ナイフとフォークが必要なデザートを食べる時はあまり口を開かない。あまり彼と会話したくないぼくにとって、ナイフとフォークが必要かつ食すのに時間のかかるデザートは時間を潰すのにぴったりなのだ。ゆえに今日はふわふわパンケーキに、バターとメープルシロップをたっぷりとかけて召し上がれ! スタイルである。この世界、温度管理の問題か生クリームはないけどバターはめっちゃ美味しいの。だからクッキーとか、ダイレクトにバターの旨味が味を左右するお菓子はめちゃくちゃ美味しくなる。美味しいバター万歳。

「うむ! 今日もここのおかしはうまい! これもスヴェンが作ったのか?」

「ええ。粉の配合を変えてみたんです。ふわふわでしょう?」

 リコッタチーズも入れたけど、まぁ詳細はジークフリードに言っても分からないだろうし、いずれ貴族向けのレストランをしようとかそんな野望もあるから教えるわけもない。リコッタチーズはクリームチーズを作る段階でできた副産物だ。作り方が一緒なんだよ、牛乳を一定温度に温めて酢を加えて分離したほろほろの白い塊がリコッタチーズやクリームチーズになる。残った液体は乳清といい、乳酸菌が入っていて体にいいから牛乳と割るとラッシーみたいな味になる。あと、乳清は次にリコッタチーズを作る時、酢の代わりに仕える。リコッタチーズとクリームチーズの違いはざっくり、混ぜて滑らかなクリーム状にしたかしないかだけの違いである。

「粉の配合?」

 バルタザールが美しいマナーでナイフとフォークを操り、パンケーキを口へ運ぶ。やたらと色々聞きたがるところが怪しい。

「ええ。小麦というのは種類によって粒の硬さが違うんです。粒が硬いものはパンを作るのに向いていて、粒が柔らかいものはパンケーキやクッキーを作るのに向いているんです。それ以外は……企業秘密、です」

 人差し指を立て、唇へ置きバルタザールへ視線を送る。

「……っ」

 バルタザールは頬を染めて俯いた。この子、ちょいちょいぼくを見て赤くなるけどなんなんだろう。

 やはり、ぼくがパトリッツィ商会から売り出すものの調査に来ているのだろうか。頭が痛い。何とかこの子が頻繁に通って来るのを阻止できないかなぁ。一応、ぼくにも都合があるので来る時は事前に連絡をくれるように伝えてあるけど、こうも頻繁だと困る。マウロさんやリナルドさんたちと相談ができない。

 笑みを崩さず、ゆったりとナイフを動かす。向かいでバルタザールが、気づかれない程度にぼくを見ているのが分かる。視線ではなく、全身でぼくの一挙手一投足を捉えようとしている。実に貴族らしい観察の仕方だ。

 リヒテンベルク子爵、フリュクレフ公爵、皇王、ミレッカー宮中伯。相手はいずれも大人で、それなりの地位と権力を有している。ただの五歳児が対抗するには分が悪すぎる。

 ぼくには手札が限られているし、権力はない。慎重に動かなくては、あっという間に食い物にされてしまうだろう。いつ崩れてもおかしくない断崖絶壁を歩かされているような気分だ。その後ろを、バルタザールに追い立てられている気がする。目眩がして軽く頭を振った。

 ジークフリードもバルタザールもぼくとは違い、親という後ろ盾がある。その後ろ盾を以てぼくをうからかすことがいつでも、いくらでもできる。本人たちに自覚があろうがなかろうが、事実そうなのだ。それなのに図々しくもぼくが必死で守ろうとする場所を土足で傍若無人に踏み荒らす。唐突に理不尽な怒りが湧いた。

「……ぼくは陛下や殿下にお許しいただけなければ、離宮の外へは出られません。けれどぼくは、生まれてから一度もこの離宮から外へ出たことはありません」

 ラルクと話していたジークフリードが、喋るのをやめてぼくを見た。ベッテは給仕の手を止め、顔を上げた。フレートは静かに扉の横へ立っていたが、微かにぼくへ目を向けた。バルタザールは、ナイフとフォークを持った手を止めてぼくを見つめた。

「離宮から出られませんから、外の学び舎でバルタザール伯や他の令息たちが受ける高度な教育を受けることは陛下がお許しにならないでしょう。ですからどれほどここでぼくが論文を読んで何かを考えたとして、意味はありません」

 例えば、貴族の令息たちが通うような学校へぼくは行くことができないし、留学なんて夢のまた夢だろう。予算もそうだが護衛や反乱軍たちへの警戒などを考えると、このままなら一生離宮に閉じ込めておくのが皇王からすれば一番楽な方法だろう。幸いなことに、それに異論を唱える身内も居ない。ぼくが火種であることは確かだが、外部の協力なしにぼく自身が望んで脅威になるのは難しい。必死でもがいている最中だ。それなのに。

 静寂に耐えられなくなったように、暖炉の中で薪が爆ぜた。ぼくは意に介さず、パンケーキを一口大に切り分けて口へ運び、飲み込んだ。

「ですので、聡明でいらっしゃる伯が、ぼくのことを気になさるほどのことはありませんよ」

「私は、そんなつもりでは……」

「どんなおつもりかはぼくのように蒙昧もうまいな人間には分かりかねますが、お忙しい伯にこうして通っていただけるほどのものではありません」

「……」

 パンケーキの最後の一欠片を口へ放り込み、ぼくはナフキンで口を拭った。ソファから下りて、フレートへ申しつける。

「少し寒くなってまいりましたね。雪が降る前に皇宮へお戻りになられるのがよろしいでしょう。フレート、殿下と伯のために傘をご用意して」

「かしこまりました」

「気分が少し、優れません。ルカ様、部屋まで運んでいただいてもよろしいですか」

「ああ。おいで」

 ルクレーシャスさんが、ベッテからショールを受け取り、ぼくを包む。抱え上げられて、ぼくは僅かに安堵した。体から力が抜けるのが分かる。ルクレーシャスさんの胸へ頭を預け、胸元を掴む。

「それでは殿下、バルタザール伯。お見送りもできぬご無礼をお許しください。ご機嫌よう」

 フレートが開いた扉をくぐる。扉が閉まる前、ルクレーシャスさんが小さく呟いた。

「かわいそうだけど、しつこい男は嫌われるんだって小さいうちに経験しておく方がいい……」

「? なんの話ですか?」

「うちの子には、まだ早いって話」

「……?」

 包まれたショールの中、首を傾げる。ルクレーシャスさんはすたすたと歩き出してしまったので、これ以上聞いても教えてはくれないだろう。諦めて温もりを享受する。

「ぼくのことを快く思わない人たちは、ぼくのことなどいつでも好きに処分してしまえるでしょう。ぼくはただ、平穏に生きていたいだけなのに。ままなりませんね」

「ああ……。やっぱり、そっちに勘違いしてるんだよね……。まぁ、わたくしはあの子が嫌いだし、初めの態度を考えれば自業自得だから別にいいか……」

 今まで何が引き金になるか分からないから、ずっと周りの人間に気を配って来たけどもう無理。バルタザールにまで気を遣ってらんないよ。二度と来ないでいただきたい。誰かにこんな失礼な態度を取ったの初めてだけど、多分もう二度と会わないだろうから関係ないや。ミレッカー宮中伯の動向にだけ気を付けておこう。ちょっとすっきりした。

「玩具で貯めたお金でまず孤児院を買うのが先か、タウンハウスを買うのが先か……いや、孤児院は一定で継続した収入が見込めるようになってからの方がいいから……次は貴族女性向けの日用品を作ろうと思います……」

「うん。好きなようにおやり。必要な時はわたくしの名前をいくらでも使っていいからね」

「はい」

 ぼくの部屋である鍵星の間に近づくと、妖精が扉を開けてくれた。ルクレーシャスさんには妖精が見えているから、特に驚いた様子はない。窓の縁に置かれた白い薔薇を妖精たちが指さす。

「あ、ルカ様。今日の夜、明星の精霊さんが遊びに来ますよ。いつも遊びに来る時は日中に花を置いて行ってくれるんです」

「……あのさ、これわたくしの勘違いじゃなければ求婚だよね」

「へっ?」

 片手でこめかみを押さえ、ルクレーシャスさんは眉を寄せた。

「まさかとは思うけどスヴァンくん、明星の精霊を好きだとか綺麗だとか褒めたことある?」

「ああ、はい。だって本当にうっとりするくらい綺麗なんですもん。そしたら、花をくれましたよ。いつまでも枯れないんです、不思議でしょう。ここに飾ってあるんですけど」

 机の上に生けてある、花瓶の花を指し示す。白い薔薇が五本。今日で六本になった。薔薇だけではなく、白いエリカや白いアザレア、南天ってね、小さくてかわいい白い花が咲くんだよ、知ってた? ぼく明星の精霊さんにもらって初めて見たんだ。

「ほらぁ! 多分これ花言葉全部愛の言葉ばっかのヤツだ、完全に求婚だこれ!」

「そんなわけないじゃないですか。夜空色の精霊さんに初めて会ったの、二歳の時ですよ?」

 ぼくを抱えたまましゃがみ込んでしまったルクレーシャスさんを仰ぐ。

「……あのね、いつかきちんと説明しようと思ってたんだけどって何度も言ってるけどスヴァンくん」

「はい」

 ショールに包まれたままのぼくを窓辺の椅子へ座らせ、ルクレーシャスさんは足元へしゃがんでぼくの顔を覗き込んだ。

「妖精も精霊も、普通は人の前へ姿を現しません」

「はい」

「妖精王に至ってはエルフが千年前に見かけたという記述が、書物の中に残っているのみ。あちらから話しかけてきたり、こっちの話を聞いてくれたり、とにかく会話をしたというのは聞いたことがない」

「ええ」

「普段、君の周りにいる精霊というのは、この世界を構築している四元素に宿る極々弱い気の塊のようなものだけど、これまた妖精と同じで人には見えないし、精霊は光る球体で妖精のように生き物の形を取らないと言われている」

「そう……なんですか?」

 首を傾げると、ぽん、と膝へ手を置かれた。

「そうなんです。なので人型をした精霊の目撃談というのは、二千年以上前の神聖公国エンブリアの聖典のみだという話もしたよね?」

「はい」

「わたくしは可能性として、明星の精霊は夜を司る精霊の王だと思っています」

「そうなんですか。じゃあ、水の精霊王とか、火の精霊王もいらっしゃるということですね」

「他の精霊王には会ったことがないようで安心したよ」

「うう~ん、多分?」

 春になると、花冠を被った白い牡鹿が庭を駆け回るのだけれど、あれは精霊ではないのだろうか。他のものだとしたら何だろう。よく分からないから、黙っておくことにした。

「会話ができるのも、何度も会いに来るなんていうのも、前代未聞の事態です。分かる?」

「ぼくは運がいいですね?」

「運とかいう問題じゃないの。君、精霊にも妖精にも寵愛されてるの、常に祝福を受けてる状態なの」

「それってどうなるんですかねぇ」

「つまりまぁ、どう転んでも君が望まない運命になることはない」

 あ、これあれだ。「オレなんかやっちゃいました?」系とかいう。チート能力何も付与されてないと思ったらこんなところに落とし穴が。しかし、そんなすごい能力が付与されていても、ままならなさすぎじゃない? ぼくの人生。どうなってんのと声を大にして言いたい。

「え、今めちゃくちゃ不自由ですが」

「けど結局君、皇王の庇護下でここまで成長して来たじゃない」

 そういう考え方もできるのか。まぁ、確かに貴族だろうと両親から見捨てられたら普通は生きて行けないよね、こんな階級社会では。

「まぁただ、運だけを待っていたら未来を見据えた予定が立てられないだろうから、そういう時にはわたくしの名前を使いなさい。つまりね、君は君の好きに進んで大丈夫。あまり、心配しなくていいよ」

 今日、バルタザールに対して感情が爆発してしまったことを見抜かれていたのだろう。ルクレーシャスさんはぼくの頭を撫でた。

「だから非常に残念だけど、今日は明星の精霊を盗み見ることは諦めるよ。ゆっくり話して甘えるといい。君が本心を語れるのは、今まできっと彼だけだったんだろうから」

「……はい」

 目からしょっぱい水が出た。本当はぼく、すごく心細かったんだ。ずっと。ぼくはこの世界に転生して初めて子供みたいに声を上げて、わんわん泣いた。

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