第8話 冬木立の月 ⑴

 それでもルクレーシャス様に嫌われたこと、スヴァンテ様の聡明さを知ることになって脱走なさる回数が格段に減ったのですよ。

 紅茶を一口含んで、オーベルマイヤーさんは力なく笑った。きっとどこかの仕立て屋で仕立てたはずの黄色いジュストコールの下には金茶のジレ。ジレの下にはスタンドカラーのシャツを着ていて、臙脂えんじのクラバットを結んでいる。ブリーチズは濃い茶色で、配色も悪くないし細部まで細かな刺繍が施されている。貴族の服装としてはかなりきちんとした身なりである。なのに全体的になんだかくたびれて見えるのだ。

 萎れた様子で紅茶を飲むオーベルマイヤーさんを一瞥し、ラルクがジークフリードへ顔を向ける。

「なぁ、でんか。オレもいっていいのか?」

「よいとも。お前とオレは友だちだし、スヴァンテのじじゅうということで付きそえばいい」

 そうなんだよね。一緒にボードゲームをすることが多かったラルクは、すっかりジークフリードと仲良くなった。子供らしい子供同士、仲良くなるのは必然だ。ジークフリードが許すと言ったので、ラルクなりに敬語のつもりではあるがどう考えても平民が皇太子殿下にしていい態度ではない喋りにベッテも一々怒らなくなった。怒らなくなったが、ひやひやはしているだろう。ハの字になっているベッテの眉を見ながら、ティーカップを傾ける。

「ではなおさら、いらっしゃる侍従の皆さんのお名前を先に知っておきたいと思います」

「かしこまりました。後で一覧をお持ちしますね」

「お願いします、オーベルマイヤー様。お手数をおかけしてすみません」

「いえいえ、他ならぬスヴァンテ様のお願いですから」

 オーベルマイヤーさんは子爵である。多分だけど、初めはジークフリードの執事はきっと、オーベルマイヤーさんよりも身分の高い侯爵などが請け負っていたに違いない。我儘放題に振り回され一人辞め二人辞め、気の弱そうなオーベルマイヤーさんが最終的に言いくるめられて、押し付けられたのだろう。社畜時代を思い出して、胃がきゅっと痛む気がした。

「ラルク、皇宮へお邪魔する時は、今のような態度で殿下に接してはダメだよ」

「やっぱそうだよな」

 ラルクはぼくとジークフリードの間に立って、頭の後ろで手を組んだ。離宮でのびのびぼくの乳兄弟として育って来たラルクは、貴族の礼儀なんて全く知らない。

「そうだね。あとで練習しようね」

「おう!」

 ラルクはとっても素直である。そこがいいところだよ。そのままでいてね。

「殿下への献上品には、ルカ様とぼくのサインを入れます。楽しみにお待ちくださいね」

 まだ帰らないつもりなのかな。声をかけると、ジークフリードはわざとらしく咳払いをして、唇を尖らせた。

「うむ。その、スヴェン」

「はい、殿下」

「そなたとオレは、近しい間がらだ。でんかなどとたにんぎょうぎではなく、ジークと呼ぶことをゆるす」

「……へ?」

 あまりのことに素で返事してしまった。いつの間に近しい間柄になったんだろう。床に大の字になって暴れる姿とか、負けたからと言って癇癪を起こして人形のコマを床にぶちまけた姿とか、フローエ卿にボードゲーム用の金貨を投げつけている姿とかを眺めていただけの間柄のはずだが。

 しかしジークフリードは鷹揚に微笑み、頷いて見せた。

「ゆるす。えんりょはいらぬ」

 これ、呼ばないと帰らないやつだ。君、初対面でぼくに「ばぁぁぁぁか!」って叫んで帰ったのもう忘れたのかな。ボードゲームでぼくに負け続けて「こんなゲームをおもいついたヤツはせいかくがわるい!」って叫んでたよね。

 ぼくは心を無にして唇の端を上へ吊り上げた。

「大変光栄にございます、ジーク様」

「うむ! オーベルマイヤー、かえるぞ。よいか、さっきゅうに冬木立の月の七の日に来るじじゅうたちのめいぼをスヴェンへわたしておくように」

「やっとお戻りになられるのですね……。はい、名簿は早急に準備いたします。では、スヴァンテ様。失礼いたしました」

「いいえ、またいらしてください。殿……ジーク様、庭園の端までお見送りいたします」

「よい、よい。ラルク、行くぞ」

「うん!」

 ぴょん、と勢いよくテラスから下り、芝の上へ駆け出すラルクだが、君はぼくの乳兄弟であって殿下の従僕ではないんだよ分かっているかな。椅子から下りて、その場で頭を下げる。手を振る金髪と赤毛と茶色の頭が噴水の向こう側へ見えなくなるまで、すっかり秋めいて来た風に頬を吹かれる。

 正直めんどくさいけど、皇宮に行くのはこれが初めてになるわけだし、できるだけ情報は集めておきたい。

「皇宮へ行く時は、フローエ卿も護衛として付いて来てくださるんですよね?」

「そうですね」

 テラスと庭の境目に立つフローエ卿へ尋ねる。少し風が冷たくなって来た。無意識に腕を擦っていたのだろう。ベッテがショールを持って来て、ぼくの肩にかけてくれた。

「ありがとう、ベッテ」

 ベッテは静かに頬を緩め、頭を垂れて下がる。その手へ軽く触れて労い、微笑んで見せた。

「では、皇宮に行くのはラルクとフローエ卿とぼく、ということでいいでしょうか」

「わたくしも行くよ? スヴァンくんの先生だし、何といっても監修者だしね」

「……ルカ様も、一緒に行ってくださるのですか?」

「うん。だって君が歩き疲れたら、誰が抱っこするの?」

 ルクレーシャスさんは、完全にぼくを子供扱いしている。そして心配してくれている。フローエ卿は、ぼくとラルクにとって味方ではない。だから一緒に来てくれるのだろう。

「うふふ、お願いします」

「うん。楽しみだね。当日は同じ色のお洋服で行こうか。だって君は、わたくしの弟子だもの」

 ショールごとぼくを抱きしめて、ルクレーシャスさんはおでこをくっつけた。

「わぁ、スヴァンくんあったかぁい。いいなぁ、今夜はこうやってくっついて寝ようか」

「ふふふ、ぼくの寝相が悪かったらどうするんです」

「こうするんだよ~!」

 ぎゅっと抱きしめられて、さらにおでこをぐりぐりと押し付けられた。

「あはは!」

 うん。仕方ない。だってルクレーシャスさんは二百歳。前世合わせてざっと三十歳のぼくですら、ルクレーシャスさんからすればまだまだ子供だろう。

 ぼくはこの世界に来て初めて、素直に子供扱いを受け入れた。

「あっ! ズルい! スヴェンがまた、ルクさんにこどもあつかいされてる! オレもまーぜーてー!」

 ジークフリードの見送りから戻って来たラルクがぼくの背中から抱きついた。

「ぎゅー!」

「ぎゅう~!」

「あはははは」

 そう。この日までは離宮は平和だったのだ。この日までは。

 翌日、オーベルマイヤーさんがジークフリードの侍従候補で、冬木立の月の七の日に招待されている子供たちの名簿を持って来てくれた。テラスでお茶を振る舞いながら、軽く名簿へ目を通す。侯爵、伯爵、どのご令息もそれなりの家門の者ばかりだ。

「バルタザール・ミレッカー宮中伯令息……」

「……」

 ぼくが呟くとオーベルマイヤーさんの眉が少し、寄った。それもそのはず。皇宮、と聞いた時から嫌な予感はしていたがまさかこんなところでこんな人物と関わることになるとは。向かいでアップルパイを貪っていたルクレーシャスさんが顔を上げた。

「どうかしたのかい、スヴァンくん」

「ええ……。ミレッカー宮中伯とフリュクレフ公爵家には因縁というか、少々気まずい家の成り立ちがありまして」

「ごめんね、わたくしそれぞれの国の細かい事情まで全て把握できなくて。聞いても大丈夫かい?」

「うう~ん……」

 ちらり、とオーベルマイヤーさんへ視線を向ける。オーベルマイヤーさんは、慌てて紅茶を一気に煽った。

「僕はこれで失礼しますね。スヴァンテ様、冬木立の月の七の日、朝の八時にこちらへお迎えに上がります。よろしくお願いします」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。ご足労いただきありがとうございました、オーベルマイヤー様」

 心なしか速足で遠ざかる赤毛の後ろ姿を見送り、ルクレーシャスさんへ目を戻す。ふう、と息を吐きできるだけ軽い調子で口を開いた。

「フリュクレフ王国がデ・ランダ皇国の侵攻を許すきっかけになったのは、フリュクレフ王国の宰相がデ・ランダ皇国側へ寝返ったことが大きいというのは知っていますか」

「ああ、確か王宮への抜け道を先々代の皇王へ密告したバカがいたから、女王が捕まってしまったとか……」

「そのフリュクレフ王国の元宰相一族が、ミレッカー宮中伯です」

「……さいあく」

 顔面全体で最悪、を表現してルクレーシャスさんはティーカップをがちゃんとティーソーサーへ置いた。眼鏡も片側がずり落ちている。

「相手の出方次第ですけれど……困りましたね……」

 正直、他のご令息たちは何の問題もない。年齢も皆似たり寄ったりで上はミレッカー宮中伯令息の十歳から、下は七歳までの四人だ。ボードゲームのコマ人形は六個付きなのでつまり、侍従候補の令息四人と、ジークフリードと、ラルクの六人でゲームする気なのだろう。端からぼくがゲームを一緒にやる前提ではないとか酷くないかジークフリード。ほんの少し眉を寄せながらじっくりと令息たちの名前を眺める。

 ロマーヌス・メッテルニヒ伯爵令息七歳。ティモ・エンケ侯爵令息八歳。ローデリヒ・エステン公爵令息九歳。そして、バルタザール・ミレッカー宮中伯令息十歳。メッテルニヒ伯爵は中立派だし、エンケ侯爵は皇族派の重鎮だ。エステン公爵は代々、宮廷騎士団の団長をしている家柄である。相手は子供であるし、上手くあしらえる自信はある。だが、ミレッカー宮中伯令息はどうだろう。十歳という年齢もそうだが、ジークフリードからぼくの話を聞いていないはずがない。

「現ミレッカー宮中伯がどんな方か分かればいいんですけど……確か、書庫に貴族名鑑があったはず……」

 椅子を下りて、書庫へ向かう。ルクレーシャスさんも付いて来ているようだ。書庫の一番手前、よく見る本はぼくの手がすぐ届くところへ配置されている。その中から貴族名鑑を取り出して、テーブルへ置くとルクレーシャスさんはぼくを椅子へ座らせてくれた。

「ミレッカー宮中伯、ミレッカー宮中伯……あった、現当主はフェルテン・ミレッカー宮中伯。中立派なのか……レーレン、フレートを呼んで来てくれる?」

 ぼくの傍にいた妖精へ声をかける。くるくる、と回ってふい、と書庫を出て行く。しばらくして、フレートが書庫へやって来た。

「お待たせいたしました。ご用ですか、スヴァンテ様」

「うん。悪いけど、ミレッカー宮中伯の領地の公開資料を集めてくれる? できれば、財務管理や領地の物流、その売り上げや税収が分かる資料をお願い。現当主のフェルテン・ミレッカー伯が当主になってからのものだけでいいから」

「かしこまりました」

 一礼して出て行くフレートの背中を見て、ご褒美をねだる妖精へポケットにしまってあったクッキーを割って与える。

「……スヴァンくん」

「はい」

「君、いつもそうやって妖精を使ってるのかい?」

「いつもではありませんが、急ぎの時は」

「……君、それはわたくしやフレート、ベッテ以外の前ではしてはいけないよ。いいね?」

「えっと、……はい?」

 ルクレーシャスさんは、アップルパイ交じりのため息を吐いた。

「まったく君は、ヴェンがこんなこと知ったら悪用されるに決まってる。あのバカ皇太子にも知られてはいけないよ。分かったかい?」

「……はい。えっと、……普通、妖精は人間のお願いを聞いたりはしない、んでしょうか」

「人間のお願いどころじゃなくて、妖精は妖精王にしか従わないよ。気まぐれな上に、プライドもとても高いからね。妖精同士だって約束なんて守らないし、しないくらいだ。つまり君はそれくらい好かれているってことだ。いいかい、君は妖精王くらい好かれているんだ。事の重大さが分かったかい?」

「えっと……ひょっとして、妖精王って……妖精みたいな羽があって、でも人間くらいの大きさはあって、満月の夜しか出て来ない、大きな鹿に乗った綺麗なお兄さんでしょうか……」

「あ~っ! やっぱりね! 妖精どころか妖精王に好かれてるから全ての妖精が君の言うこと聞くんだ! もうやだ! その上多分だけど明星の精霊にも好かれてるんでしょ! 君ねぇ、もうこれからじっくりその辺教えて行くけどもほんと、ほんとに他言無用だよッ! 分かった!?」

 眼鏡を外してテーブルに置き、頭を掻き毟ったルクレーシャスさんの、金色のお耳がぱたぱた動くのをぼんやり眺める。

「あのう、ルカ様。明星の精霊ってなんでしょう……」

「精神と静寂と冬と死を司る精霊だよ! 真名を聞いてたとしても、口にしちゃダメだからねっ! いいかいっ!」

「あ、夜空色の精霊さんのことでしょうか。明星の精霊っていうんだぁ……わぁ、ぴったりだぁ……」

 夜空色の精霊は本当に美しいのだ。初めて会った時、「まるで夜明けの空を纏ったようですね」と話しかけてしまったほどに。うふふ、と笑って口へ手を当てると、ルクレーシャスさんは乱暴にぼくの髪を掻き回した。

「うふふ、じゃないよスヴァンくん! 二千年以上前の神聖公国エンブリアの聖典にしか出て来ない存在なんだからね……。つまり最新の目撃情報が、二千年以上前なの! 分かる?! そんな存在が向こうからちょいちょい会いに来るとか、君ほんと君ほんと……っ!」

 ここで「分かります、すっごい引きこもりの精霊さんなんですね」と答えてはいけないことだけはなんとなく察して口を噤む。ルクレーシャスさんへ向け、こくこくと何度も頷いて見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る