ゆっくり動こうね




 体育祭後が休日で良かった。

 身体中が筋肉痛で、トイレで用を足すだけでも悲鳴を上げたくなる。如何に普段から運動をしていないかを痛感させられた。

 日頃の生活を見直さないとな。

 しかし、それは体が回復してからでいいだろう。

 体育祭を頑張った自分を労わないとな。

 それからでも遅くはない。……何が遅くないんだっけ? さっきまで筋肉痛が治ったら何かしようと考えていたんだが。

 まあ、良いか。

 自室のベッドの上で呑気に漫画を読んでいた俺は、壁掛け時計を見る。また勝手に部屋に時計なんか付けやがって雫のやつ。

 時計の短針は正午を指していた。

 窓の外は土砂降りの雨である。

 全然昼って感じのしない暗い空に、ため息が出る。


「そろそろ昼飯の時間か」


 俺はゆっくりと立ち上がる。

 これくらい緩慢で体を優しく動かすと、筋肉痛を訴える部分に負担がかからず動く度に一々痛みに泣きそうにならずに済むがががががががが!!

 ひぃ、痛いよぉ。

 半泣きになりながら俺は自室を出た。

 階段を一段ずつゆっくり降りていくが、これも苦痛でしかない。


「無様にも程がある」


「人がこんな苦しんでるのに笑うなんて。実は雫の偽物で、さては悪魔の姿した雫だろ」


「……えい」


「ヒギィイイイ!?」


 エプロン姿の雫はくすくすと笑っている。

 筋肉痛から逃れようと苦心してついつい体を動かす事に臆病になってしまっている俺を鑑賞するなんて良い趣味してやがるぜ。

 しかも、てっきり手を貸してくれるのかと思ったら指で脇腹の辺りを小突いてきた。


「じ、雫ぅ……!」


「なに?」


「助けて……」


「お昼ご飯できたから。リビングで待ってる」


「ここで助けてくれないのかよ! 人でなしって言おうと思ったけど昼飯用意してくれたから人にしといてやる!」


「何様よ」


 俺を見捨てて、雫は一足先に居間へと戻っていく。

 この薄情者めが。

 いくら普段から命を救ってくれているからと言って、こんな苦しんでいる状態で放置するなんて人の心があるとは思えない。

 いつか絶対恩返しした後に復讐してやる。


「やっと来た。ほら、ここまで」


 半泣きでリビングに辿り着くと、ダイニングテーブルの傍に立っていた雫が両腕を広げて待つ。

 ずるずると体を引き摺るように跳躍し、俺は彼女の腕の中へと入る。これで、後は雫が俺を椅子まで運んで座らせてくれる筈だ……あがっっ!?


「ぃいいいだだだだだだだだだ!?」


「……ふふ」


 雫に正面から寄りかかって身を委ねようとしたら、思いっきり抱きしめられた。

 痛たたたたた!?

 何しやがるんだこの夜柳雫!

 俺は雫から離れようと身動ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎき!!


「なに暴れてるの?」


 もう俺の苦痛に悶える姿も充分に満喫したのか、雫が俺を運んで椅子に座らせてくれた。

 ようやく解放されて、深く息を吐きながら椅子の上で脱力しきってしまう。昼飯なのに食う気力すら座る前に失われた。

 俺を苛め抜いて楽しんだ雫が正面の椅子に座って先に食事を始める。


「今日は最悪だな。雨は降るし、体は痛いし……雫が苛めるし」


「弱ってる大志を見ると、ついね」


「ついってノリでグロッキーな人間を弄ぶな。逆に雫が筋肉痛で動かなかったら、俺だって悪戯してやるよ」


「悪戯。……例えば?」


「思いっきりギューッと絞め殺すほど抱きしめてやる」


「……ふうん」


「っ余裕そうな顔しやがって。だったら……えーと……全身マッサージだ!」


「……なるほど」


「なっ、楽しそうだと? なら、飛び蹴りしてやる」


「へえ。足の要らない生活がしたいんだ?」


「雫が面倒見てくれるなら」


「……はあ。ほんとバカ」


 雫は至って冷静だ。

 俺が考えつく物を悉く大した事も無いように鼻で笑って目でも笑う。昨日は雫の攻略方法を見つけたが、あれは喜ばせる方法であって嫌がらせる手段にはならない。

 何かいい案は……って、昨日の事!

 忘れるところだった。

 昨日は散々撫でたりしても雫は結局チケットを返してくれなかったのだ。その後はいつもより豪華な夕飯や好きなアニメの放送で流されてしまったが、そうはいかない。


「雫。頼むからチケット返してくれよ」


「絶対に嫌。髪切るよ」


「んへぇ……じゃあ、一緒にライブ行こうぜ。それなら良いだろ?」


「私、人の多いところとか嫌なんだけど。昨日だって体育祭も我慢して行ったのに」


「どういう所なら好きなんだよ」


「大志と二人きりになれる場所」


「家以外にあるわけないだろ。何言ってんだコイツ」


「…………」


 全く、人の多い場所が苦手なんて事を言うとは将来が心配だ。

 現代社会でそんな文句が通ると思うなよ。

 社会に出たことの無い俺が断言する。


「ライブに行きてぇよ……」


「…………」


 仕方ないので、必殺泣き落としを使う。

 真剣に頼み込む且つ半泣き状態でやるといつもより要求が通りやすいのだ。

 果たして、雫は食事の手を止めて俺をじっと見た。


「絶対だめ」


「ここまでして譲ってくれないとか……流石に心が狭いぞ。こうなったら喧嘩だ、喧嘩! 折角友たちがくれたチケットまで取り上げるなんて、ちょっと俺のこといつも助けてくれるし完璧美少女とか言われてるからって何でも許されると思うなよ!?」


「喧嘩、ね」


「そうだぞ。今の俺は何だってできるんだ! 酷いことだってしてやる!」


「……ふうん」


 小さく呟きながら雫がテレビを観る。

 画面には、夜景を背にお互いを見つめ合いながら顔が接近する二人が映っている。

 雰囲気的にキスだな。

 しかも、顔を近付けるのがゆっくりなのは、彼らも筋肉痛だからだろう。

 やれやれ、俺も俳優たちも運動不足か。


「酷い事できるんだ……。じゃあ、大志」


「ん?」


 遂に互いの唇を重ね合わせた画面の二人に対し、おもむろに雫がテレビ画面を指差した。

 


あれキスが私できたら、許可してあげる」



 雫の放った言葉に、俺は一瞬だけ驚いた後に失笑を禁じ得なかった。

 あのな、キスなんて酷い事じゃないだろう。相手の許可無くやれば、褒められた行為では無いかもしれない。

 だが、雫からキスを乞うならその行為が酷いなんて話にはならない。

 しかも、普段なら出来ない酷い事すらやってのける覚悟を持った今の俺に、そんな生温い勝負内容で勝てると思ってるのかよ。


「因みに時間は三分間。恥ずかしがったりして途中でやめたら大志の負け。勝ったらチケットは返すけど、負けたらライブには行かせない。……ふん、まあどうせできるわけが」


「よし、分かった」


「……?」


 俺は筋肉痛でがたがたの体で立ち上がって椅子を離れ、雫の隣へと移動した。

 目を見開いた雫は、時折あちこちを見回したり戸惑いの声を漏らしている。

 キスなんて簡単だろ。

 中学の時のホワイトデーで雫が強引に俺の唇を奪った事をやり返せばいい。自分からするのは初めてだが、やり方は心得ている!

 いざ!


「よし。んじゃ、じっとしてろよー」


「え、あの、ちょっ――」


 喰らえ、雫!!

 俺は少しだけ身を引いて逃れようとする雫の頭を両手でがっちりと鷲掴みにし、筋肉痛に喘ぐ背筋や肩や腕の犠牲を無視して顔を近づけた。





 そして、三分後。

 俺は片手にチケットを握りしめ、自室の中央にて独り勝鬨を上げていた。

 きっちり三分間のキス。

 終わった後に勝利の報酬たるチケットを奪い取り、堂々と昼飯を食って戻って来た。

 ふ、最後に飲んだ水の一杯が人生で一番美味しかったぜ!

 そういえば、何故か敗北者の雫はキスした後、唇を何度も袖で拭いながら殺意ギンギンの眼差しで俺を睨んで。


『殺してやる。社会的に殺して、絶対私以外に触れられない場所にちゃんとしまってやる……!』


 なんて、とんでもない恨み言を吐いていた。

 キスしたくらいであんなに人へ強烈な殺意を向けるとは、いよいよ幼馴染として本当に将来が心配になってきたよ。

 まあ、今はそんな事はどうでもいい。

 これで俺は堂々と赤依沙耶香のライブに一人で行き、憲武のデート同伴に何の憂いも無く挑めるというわけだ!


「いやぁ、楽しみだなー!」


「大志」


「おお、雫。どうしたんだ? いつの間に音もなく部屋に入って来て」


 忍者の末裔みたいに音を消しながら入室していた雫に振り返えええええええええ!

 腰の筋肉が痛いよ……。

 溢れそうな涙を流しながら俺は腰を擦る。


「大志。……も、もう一回勝負しない?」


「もう一回? はっ……さっき負けたのに、もうリベンジしたいんですか〜?」


「そう、納得いってないから。だから、次は五分間のキスね。いい? 私が納得するまで何度でも何度でもやるから。分かった?」


 雫は相変わらずいつもの無表情だが、目だけは何かへの期待で輝いているように見える。

 雫が納得するまで勝負となると、俺が不利にならないか? キスくらいなら、何分だろうと耐久できる……いや飽きて途中でやめそうだな。

 なるほど、俺の飽き性な部分を利用して最終的に一勝だけでももぎ取るつもりだな。

 貪欲に勝利を求めるその姿勢……尊敬に価する。

 でもな。


「いや、もうキスはしないぞ?」


「は?」


「やるなら他の勝負法だろ。だって雫、さっきは凄く嫌そうに何度も口拭いてたし……。俺も怒ってたから雫が嫌がってるの見て清々したけど、もう満足したから嫌がることはしないぞ」


「……………………………………」


 俺はもう、嫌がる幼馴染は見たくない。

 あんなにキツく睨むほど嫌なら、流石にもうしたくないさ。チケットを返してくれないし筋肉痛の部分をつつく雫に一矢報いたくてやったが、予想以上の反応で実は申し訳なく思っているんだ。

 だから、やるならせめて他の勝負法で憂晴らしして欲しい。


「俺達、仲良しな幼馴染だろ。この友情を決して壊したくないんだ」


「………………………」


「あ、今の俺良いこと言った気がする」


 雫はただ黙っていた。

 俺を見る目は、まるで捨てられたばかりの新しいゴミを見るような目だ。俺は生まれて十数年も経つので、そんな新品でもないんだけどな。


「よく、分かった」


「おう。何が?」


 雫は俺の問には答えず、廊下へと出ていくと後ろ手で扉を閉める。

 ゆっくりと動く扉の隙間から、ぎらぎらとした眼光を放つ雫と目が合う。



「覚悟しなよ、大志」



 ばたり、と扉が閉まる。

 何でゆっくり閉めたんだ……ああ、そうか。

 実は、雫も筋肉痛だったんだな。

 体育祭で弁当用のパンを作ったり、慣れない男子校に入ったりと色々忙しかっただろうからな。

 疲れて当然だ。


「雫もお疲れ様」


 俺はもういない雫に労いの言葉をかけて、ベッドの上に倒れた。














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