いろはにほへと完



 いつか、来ると思っていた。

 想いを自覚しても、私の意気地なしは直らず一歩進む勇気すら湧かなかった。

 その結果、運命の日は訪れてしまった。


「お。いろは見つけた」


 私を見つけて嬉しそうに声を上げた。

 胸ポケットに花を飾る小野先輩。

 いつもと変わらない笑顔だが、いつもより服装を正した姿と、その手に持つリボンの結われた証書筒が特別な日なのだというのを伝える。

 本来なら祝ってあげるべき。

 それなのに、素直に喜べなかった。


 小野先輩は――今日、この学校を卒業する。


 体育館にて行われた卒業式は終わり、別れを惜しむ声と、新たな門出に膨らませる期待で校庭が賑わっている。

 そこから少し離れた体育館裏にて、私と小野先輩は会っていた。

 ここに人が来る気配は無い。

 卒業生へ注意が回っているため、教師陣も校庭に集中している。

 ここには、私と彼だけ。

 厳密には、これからそうなるのだが。


「……………」


 ちら、と小野先輩の後方を見やる。

 矢村先輩が私の視線に気づき、一度だけ頷くと黙って体育館の角を曲がって姿を消した。

 卒業式前日に示し合わせた通りだ。

 矢村先輩には大変申し訳無いが、私がこれからする事を考えれば、最大の障害となりうる夜柳先輩の足留めが必要になる。


「あれ、綺丞が消えた」


「か、帰ったんじゃないんですか?」


「ったく、卒業式なんだからハメ外して超遊びたかったのに」


「壇上で卒業証書を校長から受け取りながら『校長、コレって無くすとどうなるんスか?』とか堂々と聞いてた先輩が羽目を外すとどうなるんですかね」


 卒業式でもそこそこ注目を浴びた小野先輩は、やはり出会った頃から何一つ変わらない。

 成長が無い、と言えば無いかも。

 ただ、この人の場合は変わらずにいてくれた事が感謝である。

 常に自分の感情に正直。

 何事にも嘘偽りが無いから信用できる。

 だからこそ、その言動から伝わる優しさや真心に気を許すとすっかり目が離せなくなるのだ。


「あ、そういえば」


「はい?」


「いろはにこれ渡そうと思ってたんだ」


 小野先輩がポケットから取り出したのは――粉々に砕けたクッキーと、赤いヘアピンだった。

 え、いや、え?

 砕けて、え?


「あの、これは?」


「いや、鯨の日を迎える前に卒業しちまうからさ。バレンタインのお返し今日にしようと思って」


「先輩……これ、ホワイトデーの?」


「ホワイ……? まあ、尻のポケットに入れてたから家で椅子に座った時に砕けたんだろうな! あはははは!」


「その段階で………」


 私は泣きそうになりながら、クッキーを受け取った。

 砕けてるけど。

 尻の下に敷いただけなのに、どうしてこんなにも粉状に細かく砕けるのだろうか。作り方が甘いというか、人に渡す日にこの惨状を作り出せるのは最早芸術ですらある。


「それと先輩。今日は鯨の日じゃなくホワイトデーです」


「え」


「ホエールではなく、ホワイトです」


「あ、道理で。何か言ってて違和感するなって思ってたんだよ。ニュースで英語の綴り見た時にパッとそう見えたから」


「よくそれで高校に合格しましたね」


 進学先も悪い意味で有名な男子校だけど。

 幼馴染の夜柳先輩に勧められて受験したと聞いたけど……あの人の魂胆は知れている。

 自分以外の女子が寄り付かないよう、男子だけの空間且つ悪名で女子自体が必要以上の接触を控える環境だから勧めたんだ。

 本人を思うなら、もう少し良い高校を紹介したはずだろう。

 第一、後半の模試で偏差値を三十も上げる奇跡を見せた小野先輩ならば他にも沢山の候補はあったし、夜柳先輩もそれを知っていた。

 実際に、私の学年でも生徒指導の先生が「小野の努力を見習うんだぞ!」と誇らしげに紹介すらしていたので、全校生徒が進学先を聞いたら仰天する事は間違いない。

 進路相談でも先生に何度も進学先を質問し直されたらしいが、それでも夜柳先輩に勧められたからだと訂正しなかったそうだ。

 ここまで他人から意外に思われたにも関わらず、あの明晰な夜柳先輩は止めもしなかった。


 きっと、小野先輩を独占したいからだ。

 本当に好きなんだなぁ。


 私が自分の気持を理解してから、気付く事は多かった。

 その一つが夜柳先輩の想いの強さ。

 最初は、ただ嫉妬深いだけの人だと思っていた。あの人は、小野先輩が自分以外の物になるならその時点で死んだほうが良いとさえ考えている。

 私や小野先輩に興味を持つ人間から、小野先輩を引き離していく。

 執着の深さでは常軌を逸していた。

 そして。


「どした、いろは」


「……いえ、この髪留めはどうしたんですか?」


「あー。実はクッキー砕けたからさ、行き道で雫に付き合って貰ったんだ。時間は無かったけど、それ見てパッといろはに似合うと思って買ってきた」


「……そうですか」


「ああ! 雫も可愛いって言ってたしな!」


 無自覚なんだろうけど、小野先輩はそんな彼女を最も大事に想っている。

 何処かへ遊びに行くと、必ず夜柳先輩へのお土産を買ったり、矢村先輩を加えて三人で遊んだ時は動画を撮って彼女に送ったりしていた。

 きっと、私相手じゃそこまでいかない。

 誰に対しても別け隔て無い彼でも、だ。

 だから。


「先輩に伝えたい事があって」


 今からやる事もきっと無駄に終わる。

 伝えたところで後の関係を複雑にさせるだけだ。


「伝えたい事?」


「はい」


 それでも、私は今日だと決めた。


「先輩……小野大志さん」


「おう?」


 もう後戻りはできない。

 いや、自分に退路は作らない。

 進んでも退いても後悔するけど、現状維持なんて生温い事をするのが一番後悔するから。

 なら、前に進んで刻み込んでやる。

 私が。




「好きです。恋人として付き合って下さい」




 私が、先輩を好いている女子だと。

 先輩の中に少しでも刻んでやる。忘れないように。


「………………」


 先輩は、きょとんとした顔をしていた。

 私の言葉の意味を理解していないというよりは、何故そんな言葉が私から出たのかという理由に驚いている感じだ。


「へ、返事は……今貰いたいです」


 急かすようで悪いけど、こっちも形振り構っていられない。


「いろはが俺を好き?」


「はい」


「……………………………」


 少しだけ、小野先輩の顔が曇る。

 ひゅ、と自分が息を呑む声が聞こえた。

 一目で分かった。

 それは初めて見る、先輩の落ち込んだ表情だった。

 落胆ではない。

 ただ、彼からでは嘘のようにも見える――悲壮な表情だった。



「ごめん。恋愛とかは考えた事無くて……」



 そして、彼の口から返って来た言葉に私の直感が告げる――――これ、誤魔化している。

 何が原因かなんて分からない。

 明らかに恋愛という物に怯えた反応だった。

 いや、そこは問題ではない。

 普段の彼なら、その気持ちも正直に話してくれた……なのに、今は誤魔化した。


「……そ、そんな」


 想像できなかった事に私は思わず声が漏れる。

 酷く裏切られた気分だった。

 失望とか落胆とかじゃない。

 この時は単純に、悲しかった。


 相手の真剣な気持ちには、ちゃんと正直に向き合ってくれる人だと信じていた。

 本来なら、きっとそうだっただろう。

 何が彼をそんな風に歪めたのだろうか。

 まさか、夜柳先輩?

 そ、そうだ。そうに違いない、きっと彼女が何か細工をして――。


「っ……」


「いろは?」


 いや、それは現実逃避だ。

 どちらにしたって、私に向き合わなかったのは先輩だ。

 夜柳先輩が裏で糸を引いているかどうか、そして先輩の真意がどうであったって、結果――私はフラれたのだ。

 必死に、ぐちゃぐちゃな感情でどうにかなりそうな己を律する。


 ……いや、どうして律する必要がある?


 今この場は自分に正直にならなくてはならない。

 私はフラれた。

 泣いたって良い。

 実際に目には涙が滲み始めていた。


 ただ、先に胸を衝いたのは悲しさよりも――怒りだった。


「屈辱だ」


「えっ?」


 たとえ、どんな理由があろうと……私の真剣な想いに、嘘で返されたのだから。




「先輩のこと、絶対許しませんから……!」



 それだけ言って、私はその場から走って逃げた。

 これ以上、この場にいたらもっとおかしくなっていたかもしれない。

 だから、呆然とする小野先輩から全力で離れた。



 これが私の、小野先輩に関わる屈辱の記憶だ。

 同時に、フラれたくせに一方的に恨み言だけ残して去っていく――私が悪い子になった瞬間だった。











 あれから二年。

 思い出したら腹が立ってきた。


 校門の前、それも挨拶運動の最中でなければ怒声を上げていたかもしれない。

 ヘアピンに触れた手で強く、固く拳を握る。


「ど、どうしたの?」


 隣で先輩が恐るおそるといった様子で尋ねて来る。

 それに視線だけ返すと、悲鳴を上げて離れて行った。……そんなに怖い顔をしているだろうか。

 気付いたら私から距離を開けるように生徒が昇降口へ向かっていた。


 く、仕方ないじゃないか。

 嫌な事を思い出したんだから。


「……如月」


 不意に声をかけられたので振り返ると、挨拶をして別れた筈の矢村先輩がそこにいた。

 既にミッションはクリアしたので、もう矢村先輩に用は無いのだが。


「なんですか」


「……これ、行かないか?」


 珍しく口を開いたかと思えば、遊びの誘い。

 本当に矢村先輩らしくない行動に、私は思わず身構えた。

 彼が差し出したのは――チラシだった。

 見てみると……そこは小野先輩が合格した高校の体育祭の宣伝がされている。

 まさか、これに誘った理由って。


「大志は、恋人募集中だ」


「……………恋人募集?」


 矢村先輩が、少しだけ目を細めた。


「ああ」


「嘘……だって、私の時は」


 私は聞いた内容を信じられなかった。

 恋愛なんて考えた事無いと私の気持ちに向き合ってくれなかったのに、今さら恋愛がしたいなんて言っているのか?

 沸々と鎮めたいた筈の怒りの火が再燃する。

 私がチラシを睨んでいると、矢村先輩がため息をつく。


「本人は、夜柳から自立する為の恋愛らしい」


「自立する、ため?」


「夜柳に依存している現状を危ぶんで……とか何とか」


「小野先輩、まさか夜柳先輩に嫌気が差して?」


「さあ。だけど、恋人作りに励む大志とそれを阻止する事で最近の夜柳は手一杯だ。俺に教えられた事を内緒にするなら、詳細な情報も提供する」


 矢村先輩の言いたいことが段々と分かってきた。

 つまり、今小野先輩の周囲には隙がある。夜柳先輩が張り巡らせた牽制の砦が脆くなっているのだ。

 私は目を閉じた。

 瞼の裏で、もう一度小野先輩の顔を思い浮かべる。


『いろはってば悪い子だな』


 その顔に、やはり私はまだ未練タラタラだった。

 目を開けて、矢村先輩の手からチラシを引っ手繰る。


「教えて下さい。――詳しく」














 ――おまけ――



 最初はただの小うるさい後輩だった。

 俺が大志の勧誘を断りきれないばかりに、大志の悪事に加担する形でその後輩にはよく要注意人物として目の敵にされた。

 少しずつ時が経てば、大志という名の災害における被害者なのだと互いに認識する事もある。


 いつの間にか情を抱いていたのかもしれない。

 だから、協力した――あの卒業式の日に。


「大志、いるんでしょ?」


 体育館裏に行こうとする夜柳の前に、俺は立ち塞がった。

 この事態を同じように予見していた如月からの依頼ではあるが、同時にコイツを先へ行かせたくないという俺個人の感情もあった。


「駄目だ」


「どうして」


「如月が大事な用を済ませるまで待て」


「矢村君が三文字以上も口にするなんて珍しい」


「普段俺と話してすらいない夜柳にはそうかもな」


 いつもの大志を賭けた勝負とはワケが違う。

 夜柳から感じる迫力もまた、これまでと一味違った。

 足が後退りしそうなのを堪える。

 ここで負ければ、俺はまた見殺しにした事になる。


「そんなに如月さんがお気に入り?」


「いや、違う。……単純に身近な人間からが出るのが不快なだけだ」


「…………」


「瀬良の件も夜柳の仕業だろ」


「何のこと?」


 白々しい惚け方に、俺は呆れるしかなかった。

 コイツがどんな方法で告白を妨害するかわからないが、俺の想定する以上の効果で如月の心をへし折るという確信はあった。

 だから、通せない。

 らしくない、とは思う。

 だが、卒業式自体まで後味の悪いようにはしたくないのが本音だ。

 既に、遠くから大志の様子を窺いながらも近づけない瀬良の複雑な顔を見ているので手遅れではあるが。


「あれだけ傍で陣取りながら、妨害までしないと不安か」


「……は?」


「正直、大志がおまえを選ぶなら安心する。余計な被害を被らなくて済むから。……ただ」


「……」


「如月を選ぶなら、その方が喜ばしくもある」


 夜柳が舌打ちする。

 いつも高みの見物を決めて、基本的には自由にさせておきながら、夜柳は大志についての不安が絶えない。

 見ていて滑稽だが、笑えない部分もある。

 なまじ他人の人生に与える影響力が強すぎる夜柳が動けば、容易く生き方までもが歪められてしまう。

 それなのに、コイツは大志しか見ていない。

 他を顧みない。

 だから、瀬良のような被害者が生まれ、俺のように不快にさせられる人間まで現れる。


「……!」


 二人で睨み合っていると。

 泣きながら角を曲がり、そのまま俺と夜柳の隣を如月が走り過ぎていく。

 結果は、言わずとも分かる。

 追いかけるかも悩んだが、アイツの反応はどうなのかが気になる。俺は大志の方へ歩いたが、夜柳は微笑みながら逆側へ去っていく。

 悪魔め。


「……大志」


「あれ、綺丞。帰ってなかったのか」


「どうした?」


 様子を見に行けば、いつになく陰りのある表情をした大志が立っていた。

 予想だにしていなかった姿に俺も思わず声が上擦った。


「……いや、何かさ」


「………?」


「今恋愛に興味ないのは確かだし、だからいろはにもそう伝えようとしたけど、その理由で花ちゃんと疎遠になったじゃん?」


「……」


「それ考えたら、怖くなってよ」


 苦笑する大志に、俺は筆舌に尽くし難い怒りを覚えた。

 どうだ、夜柳。

 お前が巡らせた策謀で、お前が好きな大志さえもがこんなに苦しんでいる。手に入るなら、大志の気持ちすらどうでもいいのか。


「……如月は何か言っていたか?」


「絶対許さないって。やっぱりアレだよな、ホワイトデーのお返しクッキー砕けてたのダメだよな……はぁ」


「ソレは違う」


 夜柳も夜柳だが、流石に大志の鈍感さも弁解のしようが無い最低さだな。

 これでは俺も誰を救いたいのか分からなくなる。

 苦しんでいるであろう如月の方は今の俺には何が出来るか分からない。

 取り敢えず、今は手の届く範囲からやっていくしかない。


「おまえは悪くない。だから、気まずくなる必要も無い」


「え、そうなの?」


「ああ。……だから恋愛に苦手意識を持たなくていい」


「……そっか!」


 大志は何度か頷くと。


「でも、いろは怒ってたし謝らないと」


「今はそっとしておけ。これ以上は俺も夜柳を抑えられないからどうなるか分からない」


「雫? 雫がどうかしたのか?」


「気にするな。……それより卒業祝いに、何か食いに行くか?」


「あ、でも雫が何か用意するって」


「行くぞ」


「ん、お、おお?」


 俺は大志の襟を掴み、強引に引き摺って歩いた。






 そんな事もあったな、と思う。

 挨拶週間のせいでよく絡んで来る後輩の事から、過去を想起してしまった。

 きっと今日も怒涛の勢いで迫って来るのだろう。


「…………」


 行きがけで貰ったチラシに目を通す。

 そこには、大志の通う高校で開催される体育祭を宣伝する内容が記されている。そこかしこに外部の人間、特に女性の注目を浴びたい男の下心なる部分が見え透いている。

 あの男子校も、そこまでして出会いを求めているのか。

 俺には理解できないが、口にすると大志以上にも厄介な人間たちを敵に回すことになるので軽率な言動は慎んでおこう。


 学校に入る前にチラシを鞄に入れる。

 しかし、体育祭か。

 扇が大志を気に入っていたし、家にいても憂鬱かもしれないから、息抜きに連れて行くか……?

 だが、飢えた肉食獣の縄張りに小兎も同然な妹を連れて行くのも気が引ける。


「おはようございます!」


 考え事中に例の後輩から声がかかる。……中学の時から変わらないな。


「おはよう」


 挨拶を返すと、満足げな表情だった。

 こんな顔が出来るなら、きっと過去は乗り越えられた……のか? ヘアピンをしている辺りは、まだ吹っ切れていない気もするが。

 一世一代と称していいのかわからないが、告白して玉砕した後でも未だ大志の事を引きずって……。


 そこでふと、思い至る。


 そういえば、アイツは恋人募集中だったな。

 夜柳の高校でも散々な結果に終えていた。

 今は相当飢えているだろう。……余計なお世話かもしれないが。

 それに、妹を人質に取られて扱き使われた分の意趣返しがあってもいいだろう。


「如月」


 俺は後輩の下へと踵を返し、声をかけた。






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