いろはにほへと7
それから、あっという間に月日は流れた。
小野先輩たちの受験勉強は佳境に入り、いよいよ入学試験を控える二月に突入した。
小野先輩にしては珍し過ぎるほどに頑張ってはいるが、私と会うと緊張感の無さはいつまで経っても変わらない。
この前だって、首に巻く筈のマフラーを鉢巻きみたいにして登校してきた時は、とうとう知性を捨てたんだと絶望させられた。
あれで本当に高校受験に挑もうというのなら、かなり心配ではあるが、話しかければ。
「あ、オッスー」
変わらない。
本当に、いつもありのままの小野先輩だ。
だから、変に身構えるのがバカバカしくて私も肩から力が抜けて素で接してしまう。
それが妙に心地よくなっていた。
最近は勉強に専念しているからなのか、悪戯なんかはせず、私が注意する機会も随分と減った。
「先輩、勉強お疲れさまです。意外に頑張ってますね」
「意外って。俺はいつも頑張ってるだろ、前まで勉強以外に努力を注いでいただけなのに」
「それでも意外です。勉強している時は凄く真剣な顔つきだから」
もう注意する事はほとんど無い。
それを、何処か寂しく思う気持ちがある。
小野先輩を注視する必要はないのに、いつしか私の方が意味もなく彼をよく見るようになっていた。
だから、勉強に取り組む表情の真剣さも知っている。
いつもだらしなく脱力しきった情けない顔つきが引き締まり、真剣さを宿した眼差しは思わず私が息を呑む鋭さがあった。
でも、怖いのではない。
何だか心臓が落ち着かないんだ。
もし、あの目が私自身に向けられたなら一体どうなってしまうのか想像も付かない。そんな益体もない事を、彼の横顔を見ながら延々と考えているが、それはある傷の痛みにより敏感にさせる毒にもなる。
「ああ。雫に心配させたくないからなっ」
ずきり、と胸が痛む。
そう、最近はこんな風に心が揺れる。
矢村先輩の忠告に背筋がチリチリする。
焦燥感の正体は……薄々気づいている。
原因が小野先輩である事は明白なのだが、私がどうしてこうも思い煩わされなけれらならないのだろう。
だって、当の本人は――。
「いやー、もうすぐ試験だよな!」
なんて悩みなんて無さそうな人間なんだ。
逆にこっちがイライラさせられる。
私がこんな人に悩まされている現状が大変遺憾でならない。同じような苦痛を小野先輩に少しでも味わって欲しい。
バレンタインデーの朝に話して笑顔な人間に、不快感以外の何も抱きたくないのに。
下駄箱でこの人を待ち構えていた私は、思わず顔を手で覆った。
「残り二日だし、頑張らねーとな!」
「うぐっ」
「かはぁっ!」
「いや! 聞きたくない!」
「き、今日くらい夢を見たって……クソ、やめろ!」
あた……そこかしこで悲鳴が上がる。
何処か擽ったくて甘い空気に包まれ、賑わっていた者たちから次々と哀愁が漂い始めた。
来年は我が身の事だ。
他人事のように思ってはいけない。
「先輩」
「ん?」
「あの。……今日くらいはそんな話はやめましょう。みんなも少し肩の力を抜きたいでしょうし」
「えっ? でも雫がしろって」
「は?」
「学校に来たら、まずこの話をしていれば大丈夫って言われた。何が大丈夫なのか全然分からんけど」
「…………」
夜柳先輩の指令か。
バレンタインデーで浮かれた人間に痛すぎる。
こんな話をしておけば、大抵の試験を控えた同学年――中学三年生――が肝を冷やし、それを意識させる小野先輩に間違ってもチョコを渡そうなんて気にならないだろうという予防策だろうか。
普段の小野先輩を見ていれば渡そうなんて考える人がいるのか不思議だけど。
実際に周囲からは距離を取られている。
一緒にいる私すら異物視されていそうな視線だ。一部は憎悪すら感じさせる鋭さがあって恐ろしい。
控え目に言っても雰囲気が最悪だ。
夜柳先輩もエグいなぁ。
この時期にそんな事するかな普通。
だって、バレンタインデーだよ。
試験前とはいえ、皆少しくらいは気を抜きたい場面があるだろうに。
他の人への影響が大きいからやめてほしい気がする。あと来年に同じ状況を控えている私にまでダメージが入る。
「どした、いろは?」
「先輩は暢気でいいですよね」
世界全員、あなたみたいなら平和かもしれませんね。いや、終わってるか。
「暢気じゃねえぞ。ちゃんと試験に備えて勉強したんだからな! 雫に付きっ切りで面倒見て貰ってまで頑張ったんだ! ――ん? 何か急に気温がもっと下がった……?」
ぴしり、と空気に亀裂が走った。
実際にそんな音はしていないだろうが、この声が聞こえた者達の中で決定的な変化が起きたのは間違いない。
夜柳先輩に付きっきりで面倒を見て貰う。
とても厳しい受験期に、夜柳先輩の信者と呼んでも遜色ない生徒たちからすれば、殺意にまで発展しかねない嫉妬を掻き立てられる禁句ワードだ。
「先輩、敵しか作りませんね」
「敵? そりゃ受験校一緒ならライバルだけどさ」
「はあ……」
「それで、俺が来るまで賑わってたけど何かあったのか?」
「バレンタインデーですよ」
バレンタイン? と小首を傾げる。
ああ、一般常識レベルの事すら分からないようだ。
いよいよ二日後の入試も不安だ。
別にこの人が失敗しようが構わないが、身近な先輩がそんな目に遭うのは後味が悪い。
「あれですよ、その……他人にチョコ渡すやつです」
正面から馬鹿正直に説明するのが何だか恥ずかしくて思わず顔を背けてしまう。
「ああ、そういえば今日か。確か毎年この日は雫にやたら豪華なチョコ貰えると思ったらそうか、バレンタインか。――あれ、また寒くなった」
一言で世界が凍りついていく。
いや、もはや高校受験とは全く異なる殺伐とした空気に変わりつつある。これも計画の内ですか、夜柳先輩………って。
「あれ?」
「ん?どした」
「今日は夜柳先輩とご一緒じゃないんですか?」
「雫? ああ、何か校門で大勢の男女に囲われて何か色々プレゼントされてた。時間かかるから俺一人で来たんだよ」
流石は夜柳先輩。
もう生きているだけで愛される人間だ。
「ところで、いろは」
「はい?」
「何でここにいるんだ? ここ三年の下駄箱だぞ」
「……っ」
小野先輩の疑問に、私は本来の目的を思い出してはっとすると同時に顔が熱くなった。
わざわざ三年の、小野先輩がいつも利用している下駄箱の前で待ち構えていたのは、その目的を完遂する為だ。
「えと、その」
「ん?」
「こ、これ……です」
恐る恐る、手に持っていた物を前に差し出す。
それを、小野先輩はきょとんと見つめた。
「可愛いラッピングだな」
「ど、どうも」
「それで、これは?」
「ちょ、チョコですよ」
まじまじと小野先輩か手中のソレを見つめる。
丁寧にラッピングした袋の中身は、この日のために作ったチョコが入っている
これまでバレンタインデーに真面目に取り組んだ事も無く、義理チョコすら配った事がほとんど無い私からすれば慣れない事だ。
それも――一歩飛躍して、異性に渡すなんて。
包装されたチョコを矯めつ眇めつする小野先輩に、まるで全身じろじろ見られているような錯覚がして私自身が恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。
羞恥に堪えながら、小野先輩の反応を待つ。
すると、しばらくして彼は満面の笑みを浮かべた。
「チョコ……バレンタインデーって、雫以外からもチョコが貰える日なのか」
えっ?
その言い方に私は絶句した。
まさか、それはつまり。
「初めて雫以外にチョコ貰ったよ、マジか!!」
小野先輩が私の手作りチョコを高く掲げて燥いでいる姿に唖然とする。
「え、本当に一度も?」
「ああ! 仲の良い女子もいるんだけど、一人はインフルエンザで貰えなかったからさ」
「……………」
私は白くなって散り散りになりそうな思考の欠片を必死に集めて、考える。
つまり、夜柳先輩以外で、私が、初めて。
チョコを貰ったのは、私が、初めて。
早鐘を打つ心臓は、しかし辛さなんてなかった。言い表せない心地よい温もりが、胸の内から溢れる。
「ありがとな、いろは!!」
遅すぎるけど――この時に確信へと変わった。
〜おまけ〜
バレンタインデーの夜である。
俺――小野大志は心の底から舞い上がっていた。
十五年生きてきて、初めて雫以外の人間からチョコをもらえた。少し興味を持って調べたところ、バレンタインデーには仲のいい友人や、或いは好意を示して渡すなんて場合もあるらしい。
俺の手中にあるチョコは前者だろうが、それでも初めての経験だ。
今まで貰った事も無かったんだ。
「大志、これ作ったんだけど」
雫が台所からチョコケーキを運んで来た。
白いクリームでハッピーバレンタインとオシャレに描かれた字といい、完成度が高い。
毎年こんな感じだから凄い。
「おお、今年もゴージャス」
「ほら、お皿出して。切り分けてあげ――……は?」
「ん?」
「アンタ、手に持ってるの……何?」
雫が俺の手の中のチョコをギラついた目で見ている。
まるで飢えた草食動物のような優しい眼差しだ。
「コレか?……フフフ、聞いて驚けよ。これは――」
ふと、真実を告白しようとした時にいろはの顔が脳裏に浮かんだ。
チョコを貰って感謝の意を告げた時に、彼女が見せた表情は凄く嬉しそうだった。
渡した後は、まるで周囲の視線を気にするようにそそくさ退散していったが、まさか他に知られると気まずい事情があるのかもしれない。
ううむ、ここは先輩の粋な心遣いとして隠しておくべきか。
如何に家族同然の雫といえども伝え無くてはいけないほどの喫緊性は無い。
ふ、俺が分かる男で一人の女の子の心が救われたな!
「……………」
「いや、やっぱ秘密にしとくわ。何か話すと味薄くなりそうだし」
「誰にもらったの?」
「だから話さないって」
「誰に、もらったの?」
「俺の知り合い」
「誰?」
「ふ、それ以上は言えないな。……あ、雫もチョコケーキありがとな」
「……その匂い、如月さん?」
「へっ?」
え、チョコの匂いで作り主の判別が付くのか。
まるで犬みたいな聴覚だな。
実際に犬みたいに可愛いけどさ。
「そのラッピングから如月さんの匂いがする」
「へー」
この日、俺の幼馴染が人間を辞めたんだなー、という衝撃的な事実がとても印象に残ったせいで頭の中に浮かんでいたいろはの顔も吹っ飛んでしまった。
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