いろはにほへと4
私は将来、医師になりたい。
それも精神科医だ。
父がその職責でとても成功しているし、何より周囲から感謝される様子などを一度だけ職業体験で見た事がある。何て偉大だろう、そう思って私もこうなれば人に慕われるんだと憧れた。
最初は、そんな感じの憧憬だった。
あの程度の心持ちなら、きっとコロコロと多感な時期らしく夢は変わっていたと思う。
それが、はっきりと決意になったのは小学生の時だ。
父に倣ってしっかり者をしていた私の性格は、場合によっては顰蹙を買う時がある。
クラス内で、一部の男子が規範に沿わない生き方、所謂悪人だったり、ちょっとした不良というキャラ設定に酔いしれたりするのはよくあることだ。
それを私は容赦なく指摘し、注意した。
子供は固まった決意も無いのに、自尊心だけは立派だ。
だから、一時だけ酔いのような
端的に言うと、私はクラス内で迫害を受けた。
運悪く、注意した相手は女子にも人気があったので私は同性からも厄介視されたのである。
それが辛くて、でも家族に相談できなかった。
親に相談するのは恥ずかしいとか、学校でちゃんとやれてないと思われるのが悔しかったり苦しかったり、そんな気持ちもある。
でも、一番の理由は――怖かった。
クラス内での出来事で疲弊した自分を見せるという事が、恐ろしかった。
だから、ある日。
公園で一日ずっと過ごした事がある。
人生で学校をサボった唯一の日だった。
ベンチで寝転がって茫洋と空を見上げるだけ、たまに小高いジャングルジムに留まる鳥が視界の隅で蠢動する以外の変化は無い。
そんな私が思考を取り戻したのは、真上に太陽が来た時間帯だ。
そろそろ背中が痛くなって、起きることにした。
そしたら――。
『頭は空っぽになったか?』
ベンチの端で、狭そうに座る人がいた。
黒髪の、学ランを着た男の子だった。
私は最初、寝起きも同然でぼーっとしていた。
ただ、そのまま挨拶したのは自覚がある。
私より少し年上お兄さんと、そのまま話している内にぽろりポロリと学校についても話してしまっていた。
『あー、俺もそんな時期あったかも』
『お兄さんも?』
『いやな? 男ってこう、カッコいい物だとヒーローだろうが悪役だろうが憧れちゃうんだよ。ほら、普段ならヒーロー好きなのに何故か敵キャラの怪獣とか怪人のフィギア欲しくなる』
『それ、一緒なの?』
『一緒。ヒーローになりたいってヤツもいれば、悪役気取って酔いしれるヤツもいるの。――んで、何年かした後に一人の時とか思い出して変な声上げちゃうくらい恥ずかしくなる』
『そ、そうなんだ………』
『俺とか小学校四年の悪の皇帝時代、遡りたくねぇもん』
恥じ入るように彼は顔を両手で覆う。
耳が真っ赤だったので、相当に黒歴史なようだ。
『それにしたって、すっげームカつくな』
ばっ、と羞恥を振り切って彼は顔を上げる。
『え?』
『だって、ソイツらって結局キャラ設定の為だけに君を蔑ろにしてるんだろ? 自分がこう在ればカッコいいからって、都合が悪い君の方を敵キャラにして攻撃して、悦んでるだけじゃん。』
『…………』
『……俺は君を助けるなんて大きな事は言えない。でも断言できるのは、ソイツらに対して君が頭を下げる理由なんて何一つ無いよ。君が注意する時の言い方が悪かったとしても、聞く限りじゃ彼らの人格否定したワケじゃないし暴力で訴えてもいない……立派な行いじゃないか』
『そうかな』
『そうだよ。アイツらがやってんの、ただ「千年の眠りから覚めちまったぜ」とか、「俺の宿命が動き出す……!」とか言って自分にキュンキュンしてるだけだぜ!? いつか鏡見て顔赤くするだけの自傷行為だぜ!? そんな意味の欠片も無いことしてるのに気付かない連中にどうして君が謝る必要ある?』
そう言われて、私は嬉しかった。
『そういえばお兄さん、学校は?』
『俺? あー……今日、授業で体育の予定だったけど体操着を家に忘れてさ。でも、ほぼ学校と家の中間だし、取りに行ったら遅刻確定だったから……いっそサボっちまえって思って。何なら隣町の、何も無い住宅街でも散歩しようかなーって』
『お兄さんも悪だ』
『だな。でも、今日だけ悪になったお蔭で君に会えたし、悪は悪でも悪くないかもな』
『…………』
『君は?』
悪は悪でも、悪くない。
自分に恥じないよう正しく生きていた幼い私からすれば、それは予想だにしない言葉だった。
『楽しい』
『だろ。四六時中人に迷惑かける君のクラスメイトみたいな悪はどうかと思うけど、正しい人がぽろっと悪いことする時もある。そういうのってさ、そうじゃなきゃやっていけない時があって、それをやると救われるからだよ』
『……私も、今日だけ学校行かない』
『良薬口に苦し、毒も使いようによっては薬になる事もあるんだ。だから、たまには毒吐いたり何だったり、気分転換してみるのは落ち込んだ自分の良い薬になるかもな』
『良い薬に?』
『そう。ちょい悪になって、気が済んだらまた頑張ろうぜ』
そう言って彼は無邪気に笑った。
毒も薬になる。
たまには悪になるのも悪くない。
彼は私の落ち込んだ心を救ってくれた、心のお医者さんだった。
その後にまた会う事は無かった。
でも、親身になって話を聞いて私を励ましてくれた彼に救われた経験は、いつか私もなりたいという夢の後押し、というより決定打になった。
この人みたいに、誰かの心を救える人になりたい。
そんな願いが、心の中に根付いた。
そう。
あの人みたいになりたいから、だからこそ頑張ろうと再決意できたのだ。
でも、上手くいかない。
ペースを乱されているんだ、小野大志に。
その証拠に、あの日の私は二人に家まで送られて、塾には休む事になった。
心配になった母に早く休むようしつこく言いつけられたのもあって、きっと普段なら寝坊ってくらいには睡眠を摂った。
正直、あの程度で体調を崩す自分に嫌気が差した。
人に厳しいのなら、相応に自分にも厳しくなくてはならない。
そうでなくては平等にならないのだ。
「大体、あの二人が悪事さえ働かなければ」
「あの二人って?」
「…………」
あなたですよ、元凶は。
廊下を歩いていた私に、背後から笑顔で小野先輩が話しかけてきた。
あなたの所為で、こちらは一週間前のサボりが後ろめたい気持ちを生んでしまい、いつも行っている昼休憩の巡回すら止めているのに。
まあ、流石に放課後の日課まで諦める事は出来ないのでパトロール中だ。
「今日はまた何か企んでるんですか?」
「その言い方はいつも俺がなにかしてるように聞こえるな」
「してますよ。仕出かしてますよ」
「楽しく生きたいから」
「限度を弁えてくださいよ」
私が呆れながらも律儀に返答をしてあげると、ニコニコしながら後ろを付いてくる。
「今日、矢村先輩とご一緒じゃないんですか?」
「ふ、今日の夜の学校侵入の為に監視カメラの位置と向き、それから警備網の下調べをしてくれている」
「何でそういう悪事には頭が働くんですかね。矢村先輩の人のいい性格を利用しすぎですよ。いつか痛い目見ても知りませんからね」
「じゃあ、今日の集合は五丁目の公園に六時集合な」
「はっ!?」
「お、良い返事」
「いや、はっ(了解)じゃなくては? ですからね今の」
まだこの人、諦めてなかったのか。
私が最後にいい加減にしろと忠告したのも、本当に聞いてないようだ。
こうなったら見放しておこうか。
さんざ注意した私の誠意も知らず、勝手に取り返しのつかない事をして破滅していれば良いのだ。
どこかの誰かが言う――おバカさんに付ける薬は無いと。
精神科医を目指してるけど、もう心が折れました。
「何で執拗に私をメンバーに加えるんですか」
「だって、いつも他人にも自分にも真面目な子犬ちゃんも、少しは息抜きしないとな。目の下のソレもまだ消えないくらいに疲れてるみたいだし」
「え――?」
「お、いい返事」
「い、いや……今の同意(ええ)じゃなくて
この人……本当は相手をよく見ているのかも。
それにしても――息抜き、か。
悪事で息抜きって、まるで『悪は悪でも、悪くない』みたいで少し可笑しい。
「私、行きませんからね」
「因みに校内に俺と綺丞がお互いに秘密で宝物を隠して、それを先に見付けた方が勝ちって事にしてるから」
「またそんなくだらない事を……」
取り敢えず、止められない事は分かった。
でも、この二人がそれ以上の何かをやらかさないかだけは気になるし。
「……監視しますからね。発見次第、速やかに帰って下さい」
「あれ、見過ごすの? 俺らのこと」
「もう呆れて止める気力もありませんから。せめてそれ以上の悪事が無いように――」
肩越しに後ろに睨むと。
「ははっ、いろはってば悪い子だな」
無邪気に笑ってこちらを見る先輩の笑顔を見た。
え、名前――。
「あの、名前」
「ああ、雫に説教されてな。だから憶えたぞ! ……子犬ちゃんの方が絶対いいのに」
不満げだが、どうやらあのサボりの件の翌日に元生徒会長に相談した事が功を奏したらしい。
ついでに呼称についても注意してくれと嘆願した。
思えば、この一週間も彼にしては目立った事はしていな……いや、今夜するのか。あと、もしかしたら目の留まらない場所でしているのかも。
それにしたって、何だろう……このモヤモヤ。
私の注意は聞かないくせに、元生徒会長の言葉はすぐ耳に入れるんだ。
「……先輩って、夜柳元生徒会長の言うことは聞くんですね」
「そりゃだって、俺が何かしたら雫が『アンタを殺して私も死ぬ』とか言うからな」
「……そこまで言わせて恥ずかしくないんですか」
「え? 逆じゃね? むしろ、俺の為にそこまで命懸けてくれるほど想ってくれる幼馴染とか誇らしいだろ」
「はいはい」
「よっしゃ。楽しみだな、夜!」
小野先輩に肩を叩かれ、ため息が漏れる。
本当に手強いな、この人は。
「あーれ、もしかして噂のカップルですかぁ?」
行く手からそんな声を聞いて、私と先輩は足を止める。
前方を塞ぐように、三人組の女子が立っていた。
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