いろはにほへと 3
眼の前で突然ふらりと子犬ちゃんの傾いた体に俺――小野大志と綺丞もぎょぎょっとして立ち止まる。
速やかに綺丞が倒れそうな体を抱きと止めて、脈などを確認し、ゆっくりと両腕で抱え上げる。
「熱は無い。呼吸も正常……ただ寝てる」
「何で?」
「取り敢えず、休める所に移動」
綺丞が運ぶ後ろを俺は歩く。
急に眠るなんて、一体どうしたんだ――って、そういえば雫が何か言っていたな。
たしか昨日……。
「そこに正座ね」
俺――小野大志は、帰宅するなり幼馴染にそう言われた。
仕方ないので直ぐに従った。
こういう時は大抵が説教である。
思い当たる節が無いので、もし謂れの無い内容だったら即座に糾弾してやる。
そんな意気込みで正座しながら雫の次の言葉を笑顔で待った。
雫は目の前で椅子に座り、こちらを見下ろしている。
視線が冷たくて鋭い。
まるでゴミを見るような目だ。
「心構えはできた?」
「ばっちこーい」
俺が両腕を開帳して意思表示すると、雫が舌打ちする。
サマになっていてカッコいい。
俺も練習すれば、ああなれるだろうか。
ちっ、つぃっ、ちぃっ、てぃっ……どれも違うな。
「風紀委員の如月いろはさんから相談受けたんだけど」
「如月………誰だ?」
「子犬ちゃん」
「ああ、如月いろはって言うのか」
よく俺と綺丞の周りをキャンキャン言いながら走り回っているので子犬ちゃんと呼んでいる女の子がいる。
風紀委員だったのか、知らなかった。
道理で俺に対してよく注意して来るわけだ。今まで何様ですかこのかわいい子とか思ってゴメンね。
しかし、その子が雫に相談か。
俺のことで彼女が何か心配事があるのか?
「アンタがよく校則違反を犯すって」
「ああ、うん」
「何度注意しても聞き入れないから、どうしたら生活態度を改めてくれるか、という旨の相談……幼馴染というだけで私にまでお鉢が回ってきて迷惑なんだけど?」
「大変だったな。お疲れ様」
労いの言葉をかけると、何故か頭の上に雫の踵を乗せられた。
これって、あれだよな。
本で見た騎士が姫様に褒美を貰う時のポージングだ。
意外と痛いけど、少し胸が躍る。
「私に直して欲しいんだって」
「いや、それは雫じゃなくて俺次第だろ。何で俺本人に言わないんだ?」
「……さっきの話聞いてた?」
「ちょっとだけ」
踵からかかる重圧が増した。
心做しか雫の目から光が失せたように思える。
怒っている時の反応だ。何が悪かったのか皆目見当もつかないが、謝るべきなのは間違いない。
「雫、何の事かさっぱりわからないけどごめん」
「そうやって火に油を注ぐ」
「注ぐと、どうなんの?」
「もっと燃える」
何が火で何が油なのか知らないが、燃えるのは危険だ。
「受験期なのに停学なんてしたら、高校も合格できないけど良いの?」
「うーん、それは雫が困るしなぁ」
「大志」
「ん?」
「アンタの生活態度を改めさせるのは、最も身近な
「そうか。苦労かけるな」
「停学でも不登校でも、高校に不合格でも構わないけど……中学卒業だけはしてね」
「何で?」
「義務教育だけ修了すれば、後は私がず―――――――――――――っと、大志の面倒を見ててあげるから」
「でも、高校は行きたいな」
「…………」
「だって雫と二人きりはキツいぎぎぎぎぎぎ!?」
踵からの重圧が一層増していく。
雫の踵って時間経過で重くなるのかな。これ、身体測定の時とかどうしてるんだろう。
「まあ、善処するよ」
「望み薄な回答ね」
「もっと追い詰めてくれないと俺は頑張らないぞ?」
「頑張らないと殺す」
「それは微妙」
「頑張ってくれないと泣いちゃうかも」
「それは全然」
「……頑張らないと、アンタを殺して私も死ぬ」
「まあ、妥当だな」
雫も色々してくれるそうなので、俺も頑張ることにした。
「逆に頑張ったらご褒美とかある?」
「……大志の願いを一つ叶えてあげる」
「じゃあ、雫の写真くれよ」
「えっ………ほ、欲しいの?」
「うん」
「え、えへへ。な、何でまたそんな願いを」
「友だちが高く買ってくれるらし――――」
ぶん、と耳元で風が唸る。
ちりちりと頬が焦げたように痛いのは、恐らく掠めた雫の拳の爪痕だろう。
威力、スピードに申し分無い一撃だ。
惚れ惚れするパンチだが、何故いま披露した?
「今まで売った事は?」
「無いよ」
「……私の写真なんて要らないのね、アンタは」
「写真なんか要らないだろ。本物の雫が一緒にいてくれるし」
そう言うと、何故か雫は黙り込んだ。
「雫?」
「……写真より本物が良いってこと?」
「当たり前だろ。本物の方が微妙に可愛いし」
取り敢えず、正直な気持ちを言っておいた。
すると、そのまま説教は終わり、今日は俺の大好物が夜の食卓に並べられる嬉しい日となった。
心做しか雫の機嫌も良い。
きっと良い事があったのだろう。
因みに机の下で俺の足に自分の足を絡めて来たので、相撲がしたいんだと思い、張り切って突き返したら椅子ごと蹴り飛ばされた……誘ったのはそっちなのに、解せない。
因みに、この事を綺丞に話したら『お悩み相談センター』の連絡先、『後は非常時(不審者及び危険人物に襲われた事態)における対処法とその手順』なるサイトのURLがメッセージアプリ送られて来た。
他にも相談相手を紹介してくれるなんて親切なやつだぜ。
親友の気遣いにニヤニヤしていると食器を片付けている雫が俺へと振り返る。
「そういえば、大志」
「ん?」
「大志の生活態度とは別に、如月さんにあまり迷惑はかけないように。……顔を見たけど、かなり疲れた様子だから」
「そうなの? たしかにいつも顔色悪いけどさ」
「……こういうところでは勘が鋭いんだから。相手の気持ちを理解してるんだがしてないんだか」
「え、俺は雫の事しか分からんけど……」
「もう」
そうそう。
だらだらと回想してしまったが、雫が子犬ちゃんの体調について言及していたのはコレだった。
そうか、極度の疲労か。
俺達は、それで無理にゲーセンまで引っ張ってきてしまっていたらしい。
取り敢えず、彼女が起きたら謝ろう。
※ ※ ※ ※
「――い、子犬ちゃん」
小野先輩の呼び声で目が覚めた。
薄く開いた瞼の隙間から、顔を覗き込む先輩と視線が合う。
どうして、倒れたんだっけ。
意識を失う前までの記憶が曖昧で分からない。
でも、後頭部に感じる感触から膝枕をされている――多分、これは小野先輩の膝だろう。
私が不思議そうに見つめていると、小野先輩が何を勘違いしたか嬉しそうに手を振った。
いや、状況を説明して欲しい。
「先輩、これは?」
「ゲーセンの休憩所のベンチで俺の膝を枕にしてるよ」
「な、何で?」
「ベンチでそのまま寝るのはキツいと思ってさ。今、綺丞が飲み物とか買って来てくれてるぜ」
いや、若干だけど先輩の膝もキツいです。
初めて男の人に膝枕されたけど、ここまで感動もない現状に途轍もない虚しさを覚えてしまう。
幸いにも吐き気や頭痛は無い。
ただ、体にまだ力が入らないだけだ。
体調不良の原因も、わからないけど。
「それにしても驚いたぞ」
「え?」
「急に倒れたからさ。体調が悪いなら何で言ってくれなかったんだよ、そしたら俺と綺丞の二人で担いで家に送ったのに」
「それだけは止めて下さい」
気遣いは良いけど方法は改めて欲しい。
衆目をわざわざ集める運び方なんてされたら、それこそ余計に明日からの学校生活に変な噂まで加わって大変なことになる。
今日の欠席だって、どんな風に皆に伝わっているか。
「私も倒れた理由は分かりません」
「本当に?」
「ちょっと、目眩がして……その後に意識が途切れました。昨日も同じ感じがしただけで」
「それ……もしかして、寿命なんじゃ?」
「ふざけてますか?」
この人は何もかも真面目に捉えない。
だから、人の注意にも耳を傾けないし聞き入れた事すら実行しない。
たしか、生徒会長である夜柳先輩も普段から彼のお世話で随分と苦労しているらしい。概ね彼女との親密さが招く嫉視の面が強いが、小野先輩が校内で周囲から敬遠されるのはその性格である理由が最もだ。
身嗜み、態度、思考も疎か。
まるで人を小馬鹿にするような性格だ。
だから――必死に頑張る私なんかにとっては、見ていて心底からイライラする。
どうして、ちゃんとしないのだろう。
それで迷惑を被るのは、周囲なのに。
痛い目を見るだけじゃなくて、見放されてしまうかもしれないのに。
「子犬ちゃん、ごめんな」
「えっ?」
は、反省した? 急に?
「実はな、雫からも言われてたんだ。子犬ちゃん、疲れてるみたいだからあまり粉を掛けるなって……あ、違う迷惑だ」
「は、はあ」
夜柳先輩は、私の体調不良に気付いていたんだ。
そんな目に見えて、顔色でも悪かったのだろうか。
「大志」
「おう。おかえり、綺丞」
矢村先輩が三人分の飲料水を買って戻った。
私の体を支えながらゆっくりと起こし、無言でフタを開けたペットボトルを差し出して来る。
この人、小野先輩の相手をする辺りといい面倒見が良いな。小さな弟や妹でもいるのだろうか、やや無気力で流されがちな部分があるようにも見えるけどいい人かもしれない。
私は礼を言って水を飲んだ。
今はこの味の無い水がありがたい。
小野先輩ならば、ここで炭酸飲料とか味の濃いやつを持ってきたに違いない。
ふと、矢村先輩が片脇に何かを挟んでいた。
「あ、私のカバン」
「…………」
「あー、それな。このまま遊びの続行は無理だって思ったから、水のついでに綺丞が学校にカバンを取りに行ってくれたんだよ」
「………怒られませんでした?」
「……………………………」
矢村先輩は何も答えない。
ただ、一瞬だけ不快げに引き攣った眉尻から大体を察する。
この人は小野先輩に巻き込まれる事が多いが、何故か教師や周囲に注意された事は無い。おそらく、私の教室へ来た時も異常な歓迎と帰らせまいと分かれを惜しむ人々に行く手を阻まれて疲れているのだ。
「しっかし、これだと夜間の校内散策は延期だな」
「……まだ諦めてなかったんですか」
「当たり前だろ。なんたって俺と綺丞と子犬ちゃんで周るんだから」
「いい加減にして下さい。私は行きませんから」
体に力が戻ったので、私はベンチから立ち上がる。
もう体がふらつかない程度には回復していた。
時間を確認すれば、もう既に下校時間だ。
仕方ない、このまま塾に直行しよ――。
「じゃあ、家まで送るか」
「はっ? いえ、このまま塾に行きます」
「おい、俺よりもアホなこと言うなよ。ぶっ倒れた女の子をこのまま塾に行かせるとでも?」
「気遣い無用です。もう治りました」
「……子犬ちゃんさ、いつも見て思うけど顔色悪いぞ? 今回だって急に寝始めたし、倒れたのって寝不足なんじゃねえの?」
寝不足って。
私はきちんと、いつも睡眠に費やす時間を六時間は確保している。
だから別に良いじゃないか。
「六時間って……意外と普通だな」
ほら。
「でも、それじゃ足りないから倒れるんだろ」
「…………それは」
「今日ばかりは部外者として行かせるわけにはいかない」
「当事者でしょ。何でちょいちょい間違えるんですか」
しかし、断固として私を行かすまいという意思を感じる。……私の名前は覚えないくせに、なぜ体調についてはしっかり見ているのだろうか。
「……分かりました、諦めます」
「うっし。じゃあ、家まで俺と綺丞が送るぞ」
「……………」
「矢村先輩、嫌な時は嫌だと声を大にして言って良いんですよ」
「綺丞は大きな声出せないから、無理言うなって」
そういう話じゃない。
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