いろはにほへと2
家に着いて、私はため息しか出なかった。
塾での勉強を経ても苦にはならない。
ならば、今この体に倦怠感をもたらしているのは……やはり、小野先輩だろう。
何とも迷惑な人である。
どうして、こうも私を困らせるのか。
もはや、私一人に対する悪意なのではないかと自意識過剰にすらなってしまう。
そんな私にパタパタとスリッパを鳴らしながら歩いて来た母が労るような眼差しを向ける。
「おかえり。大丈夫?」
「うん。ちょっと厄介な生徒がいて」
「そう。……疲れてるなら、明日の塾は休む?」
「いや、行く」
「でも、日曜日以外は休まずに行くし、いつも勉強漬けじゃない」
「少しでも父さんみたいな立派な人間になるには、これくらいしないと駄目なの」
私は颯爽と自室へ向かう。
心配はありがたいが、私は将来医者になりたい。
義務教育だからと気は抜かない。
父さんは学会でも有名なくらいには立派な人で、私はその背中を見て育ったので彼に憧れて、いつか自分の未来像として目標にしている。
心身ともに鍛える。
そのために始めた風紀委員だ。
相手を見て、注意すれば自分も引き締まる。
「んん?」
ちょっと目眩を覚えてふらりと壁に凭れる。
危ないな、今日は勉強を一時間……いや三十分は早く切り上げて寝るとしよう。
平均睡眠時間は六時間確保してる。
それ以外は、移動時間や風紀委員としての仕事を除いて勉強に専心する生活スタイルだ。
何も問題はない。
中学時代の私は、校内で平然と校則違反を犯す小野先輩をどうしようか悩んでいた。
やってはいけない事をしている背徳感に味をしめた彼は、見回りを行えば最も目につく人物として私の中に記憶された。
どうしたものか。
最近は菓子類の持ち込みだけでなく、昼休み中にコンビニへ行ったり、禁止された屋上で休んだりと問題行動ばかり……あと、それに嫌嫌付き合っているという感じで普通に楽しんでいる矢村先輩も同罪だ。
とにかく、私は一日とて彼らがこの目に留まらない日が無い事を憂いている。
どうしたら改心してくれるのだろうか。
彼らとなると大事故ぐらいの衝撃がないと省みない可能性がある。そんな事態に繋がらない為の日頃からの注意なのだが。
そんな私の憂慮も虚しく。
「綺丞。午後にこのゲーセン行かね?」
「……受験勉強しろ」
「小一時間だけ、なっ?」
「……………はぁ」
「午後から授業を欠席してゲームセンターに向かう、そんな作戦を堂々と私の眼前で、それも立入りの禁止された屋上で練るとはいい度胸ですね?」
頭痛すら覚えて私はため息を吐く。
お菓子を食べながらこちらに不思議そうな視線を送る小野先輩と、早くもゲームセンターへの道順をスマホで確認し始める矢村先輩。
まるで私を空気のように放置して作戦会議を開く二人に怒りを通り越して呆れてしまう。
風紀どころではなく、生徒として如何な物か。
私が睨むと小野先輩は何を勘違いしてか笑顔で手を振る。
ふらり、とまた目眩を覚えた。
あぶない。
「じゃあ、子犬ちゃんも行くか」
「は!?」
不意にかけられた小野先輩の言葉に意識が目覚める。
何を言ってるんだ、この人は。
「この中学校は昼休み終わり頃の裏門が抜け時なんだぜ。警備のおっさんも昼食で席外してるし、あそこの監視カメラに死角あるからさ」
小野先輩って、意外と賢いのか……?
それにしても、警備の人の職務怠慢や監視カメラの死角など危険な問題を耳にしてしまった気がする。
これは学校に報告すべき事項だろう。
心のメモに留めておいて、取り敢えずこの眼の前のプチ不良二名の脱走を阻止すべく思考を巡らせた。
私一人じゃ、正直心許ない。
せめて、もっと強い言葉をかける人がいれば……。
「小野先輩、そんな事してると両親が悲しみますよ」
「あの二人はそういうの無いと思う」
「えっ? えと……幼馴染の夜柳元生徒会長が悲しみますよ」
「何だっけ。雫は『不登校になろうが停学になろうが義務教育さえ修了すれば後の人生は私が面倒見るから』って」
「…………」
この人の環境、大丈夫なのか?
夜柳元生徒会長、そもそもそんな事言う人だっけ??
だ、駄目だ。
私の知る良識が通用しない。
「綺丞、行けるか?」
「ルートは確認した。問題無い」
「よし。なら出発だ!」
「…………」
二人は漫画を閉じてカバンに入れる。
だ、か、ら!
漫画の持ち込みも禁止なんですけどね!?
それに何故か、二人はいつの間にか制服姿ではなくなっていた。
さ、最初から私服を持ち込んで準備していたのか!? 校外に出ても周囲から特に怪しまれないように、目撃されてもこの中学の生徒と露見しないように。
きっと思いついたのは矢村先輩だ。
校内ではさんざ成績優秀な優等生イケメンだとか女子生徒に持て囃されていたけど、一皮剥けば非行少年ではないか!
私の前では今思いついたような口振りだったのに、中々どうして用意が良すぎるだろう。
何という周到さ。
「何で私服があるんですか!?」
「え、たびたび学校出る事があったけど、流石に制服はマズいだろって綺丞が言うから持参するようにしてる」
「矢村先輩……?」
私が視線を投げかけるが、顔を背けられた。
だが、一瞬見えたその横顔は多大な疲労と色濃い諦念が滲んでいたように思える。
そんな顔したって、結構ノリノリで加担しているのがバレてますけど!?
「ちょ、二人とも駄目ですよ!」
「綺丞、そっち持って」
「……ん」
「え、あ、あれ? ちょ、二人とも!?」
何故か両腕を掴まれ、私は引きずられる形で連行される。
ちょ、矢村先輩!?校内で聞いてたイメージと違うんですけど!
一時間後、私は虚無に落ちていた。
鼓膜を破壊するレベルで入り乱れた様々な大音量の音楽と、視覚が混乱するくらいチカチカした装飾の施される筐体たち。
目の前で、それを楽しむ二人の先輩がいる。
「っしゃ、ぬいぐるみゲット!」
「予算内の回収だな」
「どうだ、綺丞。五百円でこの戦果、さしものお前でも無傷でこのクレーンゲームから商品を勝ち取るのは難しいだろう」
「どうあっても一回百円の負傷はあるけどな」
五回目で大きなぬいぐるみを獲得した――意外と上手――小野先輩に代わり、矢村先輩が百円を投入して操作を始める。
微妙な角度調整などを挟みつつ、最終的にボタンを押してアームを降下させる。
商品は小野先輩と同じ大きなぬいぐるみ。
果たして――何事もなく、それは穴へ落とされて矢村先輩の腕の中に収まった。
「お前、何でもありだな!」
「…………」
「でも、これ要らねえな。綺丞は扇っちにやるんだろ?」
楽しげな二人に、私は絶望しかない。
風紀委員の私まで、流れとはいえこんな所まで連れてこられてしまった。
こんな体たらくで、明日からどんな顔をして人々を取り締まれば良いのやら。
今日はゲーセンの為に学校を抜け出し、明日に風紀委員として不良に注意する厚顔な自分を想像して顔を覆った。
カモフラージュとして、私は今制服の上から小野先輩の上着を着て、前のチャックも留める事で正体を隠しているけど全く安心できない。
「じゃあ、俺は子犬ちゃんにやるよ」
「へ――――わぷっ」
私の顔に柔らかい物が押し付けられる。
離してみれば、小野先輩の戦果? とやらであるイヌのぬいぐるみだった。
「あの、これは?」
「子犬ちゃんへのプレゼント」
「え、純粋に要りません」
「貰っておく時に貰っておかないと、損するぜ? その人形、五百円もしたんだからな」
「相場からしたら逆に安すぎますから、それ」
私は人形を抱いて嘆息する。
これ、本当に持ち帰らないと駄目かな。
第一、学校に荷物を置きっぱなしの私がこれを持って学校に来たら、絶対に悪目立ちして欠席の理由もバレてしまう。
それを察してくれたのか。
「大志」
「あ、そうか」
矢村先輩が目配せでそれを止めるよう注意した。
それに、小野先輩もしまったという顔。
ど、どうやら最悪の未来は阻止できるようだ。
「なら、一回それを子犬ちゃんの家に置きに行ってから、夜の学校に行くか」
は? ん?
今、何て?
「実は今日、夜の校内を散歩する企画を綺丞と練ってたんだよ。な?」
「三週間前から計画してた。……止めても大志が聞く耳を持たなくて」
え? え?
わ、私の荷物をわざわざ夜取りに行くのか。
今、学校に戻れば良い話ではないか。
「今から取りに行けばいいじゃないですか!」
「何言ってるんだ。……ゲーセンは始まったばかりだろ!」
「いえ、開店から既に何時間も経ってます」
「俺達のゲーセンだよ!」
「もう一時間は遊んでます」
「あ、子犬ちゃん! 次あのダンスバトルゲーやろうぜ!」
「え、あ、ちょっと!?」
私の腕を引っ張り、連れて行こうとする先輩に抵抗する。
しかし――その直後、目眩を覚えて思わずその場にへたり込んだ。
小野先輩が屈み、私の顔を覗き込んで来る。
「もしもしもし、大丈夫か?」
「あ、はい、大丈夫、です」
まずい、ちゃんと睡眠摂った筈なのに。
「んー……綺丞、あのさ――」
駄目だ、先輩の声が遠くなっていく。
やがて、ぷっつりと私の意識が途切れた。
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