三章「いろはにほへと」

いろはにほへと1


「おはようございます」


「おはようございまーす!」


 陸斗根高校の風紀を乱す者は許さない。

 その意思の下で、私――如月いろはが活動する校内によって治安が保たれていると教師からも好評だ。

 現在も校門前で挨拶運動に取り組み中、通学する生徒たちを挨拶で迎える活動を行っている。先週から七日間、挨拶週間として生徒たちの心構えに風紀委員は目を光らせていた。

 今のところ、無視した者はいない。

 このまま………むむ、手強いのが来ましたね。


「おはようございます」


「…………」


 私の挨拶を華麗に無視したのは、校内でも女子から人気の高い生徒――矢村綺丞という先輩だ。

 かれこれ五日目に突入するのだが、毎度のこと挨拶を躱される。一向に態度を改めてくれた例が無いので、私は強硬策に出た。

 通過しようとする彼の前に躍り出て、両手を広げて封鎖した。


「もう何度目ですか。挨拶をされなら返す、それが社会のマナーですよ。さ、もう一度――おはようございます」


「おはよう」


 やや倦怠感を含む声で返された。

 うむ、これで良し。

 きっと、今回を皮切りに彼は挨拶に応えるようにはなるだろう。残り二日間も根気強く当たれば、きっと自発的な挨拶は無理でも返答には変化の兆しが望める。

 これだからやり甲斐があるのだ。

 風紀委員の仕事は心身共に取り締まる。中学時代からこの職務には誇りを抱いていた。

 だから、この私が僅かな弛みさえ許した憶えなど過去で一度も――。


『ははっ、いろはってば悪い子だな』


 不意に脳裏で響く声。

 蓋をしていた思い出から突然蘇ったそれに、私はかあっと顔が熱くなる。

 ちちちち違う違う!

 あれは、あれは気の迷いだ。


 私は緊張を誤魔化すように、思わずヘアピンに触れて――って、この癖もダメだ!

 思い出して体も熱くなってくる。


「いろは、顔真っ赤だけど大丈夫?」


「だ、大丈夫ですよ」


「でも、ねえ?」


 同じ風紀委員の先輩が手鏡で私を映す。

 そこには丁寧に編んだ髪と、きっちりシャツを第一ボタンまで留めた姿がある。

 問題は――前髪を留めたヘアピンに触れて、真っ赤になった顔。

 じ、自覚すると尚の事キツイな。


「や、やめて下さいよぉ」


「わが校有数の美少女が顔を赤くして悶えてたら誰でも気になるって。それも、校内に潜んでいた不純異性交遊の数々を断罪してきた『鉄のいろは』がそんな様子なら尚更ね」


「鉄の、何ですかそれ」


「もしかして、勇気を出してあの矢村様に話しかけた反動――」


「あ、それは無いです」


「否定はや、そして真顔になるな」


 私にその気はない。

 如何にイケメンとて、無口で反応しない氷のような男など眼中にはない。

 そもそも色恋に興味が無い。

 まあ、強いてタイプを挙げるなら自由な人、かな。


『いろはのことは普通に好きだぞ?』


 うおおおおお、違うのにいいいいぃ!!


 無性に全身を掻き毟りたくなる記憶のフラッシュバックに独り苦悶しながら、私は頭を振って挨拶運動に取り組むことにした。

 そう。

 あれは遡ること二年前。

 私の十六年時点で人生最大の屈辱と呼べるのは、あの時だと断言できる。


 あの時にだけ、私は悪い子になってしまったのだ。





 市立超瀬東中学校でも私は風紀委員だった。

 この頃――中学二年生は、既に風紀委員の責務にやり甲斐を感じていたので精力的に活動していたのだ。

 そうしていると、少なからず私の目に入る不穏分子もある。

 その最たる例だったのが、あの男だ。


 私は放課後の校内を歩き回っている。

 部活動に勤しむ学生たちの努力する姿が広がる中で、風紀を乱す者はいないかと探る。

 そして、三年の教室を観察している時だった。


「綺丞、どれ食べたい?」


「…………」


「あー、それ俺が食べたかったやつぅ。……ねぇ、本当に食べちゃうの? それ食べなかったら美味しいヤツをまた持って来――ぉあああ! 血も鼻水も無いヤツなのか、おまえは!?」


 一つの教室から悲鳴が上がった。

 私にはもう聞き慣れた声だが、聞くたびに頭が痛くなる。

 舌打ちしたくなる気分に堪え、早足でその教室へ向かう。


「またですか、小野大志!」


「お、この声は風紀委員の子犬ちゃん!」


「子犬じゃありません、如月いろはです!」


「変わんないじゃん」


「何がですか!?」


 皆が帰った後の教室で、二人の男子生徒が机上にスナック菓子の袋を積み上げていた。

 片方は心底から呆れている風の顔だが、ちゃっかり袋の一つを手にとって開封しようとしている。

 もうひとりは、恐らく彼を巻き込み率先して菓子を食そうとしていた人物だ。

 野暮ったい眼鏡にボサボサな髪で、誰の目にも梲の上がらない少年に見えるのだが、声は外見に反してとても明るく陽気な性格だと窺い知れる。

 そう、この人が私の中学時代の宿敵。

 問題児――小野大志だ。


「何度目の注意ですか!」


「そんな怒るなって。俺は開けてないし、悪いのはもう開けてる綺丞だって」


「確かに矢村先輩もですけど、そもそも菓子類の持ち込みが校則でも禁止されているのに平然とそれを破ったあなたにも問題があります!」


「平然とやってるワケないだろ!」


「え?」


「駄目だと分かりながらも、俺なりに迷いながら持ってきたんだ」


「心の持ちようがどうだろうと、ダメな物はダメです」


「そんなこと言わずにさ、ホラ」


「そんなことって――むぐ?」


 小野先輩がひょい、と身を乗り出して矢村先輩が開封した菓子の袋から一つ取り出し、厳しく注意しようと開いた私の口に押し込む。

 舌先に触れたしょっぱく、そしてどこか甘い味わいに思わず頬が緩む。――って、ダメダメ!


「な、何するんですか!」


「な?美味しいだろ?」


「っ〜〜いい加減にしなさああい!!」


 そう言って無邪気に笑う小野先輩に、私はとうとう怒りを爆発させたのだった。









 〜おまけ〜








「悪い、雫。もうお腹いっぱいでさ」


 そんな戯言に、私――夜柳雫は固まった。

 今日は受験勉強を頑張っている大志を応援しようと、彼の大好きなハンバーグを用意して待っていたのだ。

 それなのに、今、この男は……。

 いいや、聞き間違いという線もある。

 すぐ断定し、暴走する悪癖は直さなければ。大志の言葉をいちいち額面通りに受け取っていたら、人生百年時代で寿命が五十年と保たない。


「ハンバーグ、できてるよ」


「うん。でも食えない」


「何で?」


「だってお菓子をたらふく食べてきたから!」


 あ、ああ。

 少しでも慈悲の心を持った私が愚かだった。

 生徒会の仕事も少し早く切り上げてわざわざ用意していたというのに、それらが徒労に終えたという残酷な現実に顔を手で覆いたくなる。


「でも、ハンバーグかぁ」


「夕飯前にお菓子の食べ過ぎは駄目だって、小さい頃にも私……言ったよね? 何で守れないわけ?」


「だって美味しいじゃん」


「……もう、自分がバカに思えてきた」


「え? 菓子食ってきた俺が悪いんじゃないの?」


「そんなアンタに尽くす私が愚かしく思えてきたの。もうアンタに飯作るのやめる」


 絶望に私はそんな事を口走っていた。

 どうせ、こんな事を言っておきながら明日にはまた彼の事を考えて、美味しいって言って貰えると思ってウキウキしながら朝食を拵えているんだろうな。……本当にイライラする。


「雫が嫌なら良いけど。俺、雫無しだと生きていけないぞ」


「…………」


「あ! じゃあ、雫のハンバーグと切り干し大根の煮物の作り方だけ教えてくれよ。世界一好きな味だから自分でも作れるようになっておけば大丈夫だろ!」


「っ……………」


「今まで世話になったな!」


「うるさい」


 ああ、本当にイライラする。

 平然と人が好意で作った夕飯を拒否するこの男も。



「料理は教えない……ハンバーグくらい、いつでも作るから教える必要ないでしょ」



 このクソどうでもいいような言葉に揺れて、甘くなってしまう自分も嫌になる。

 ちら、と大志を見れば――無邪気に輝くような笑顔を見せた。

 幼い頃から全く変わらない表情である。


「まじで!? でも料理教えてくれないとかケチだな!」


 …………もう、どうでも良いや。

 どうせ、今晩もコイツがハンバーグを美味しいというだけで今の煩悶も忘れてしまうんだろうな。

 単純な人間で嫌になる。






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