番外編「帰省」3




 陽咲さん達との団欒の後、夜中に眠れず俺――小野大志は縁側に出ていた。

 野良ネコが闊歩する庭の景観に和む。

 ここは超瀬町よりも空気が澄んでいて、冴え冴えとした青白い月の浮かぶ空もまた綺麗に思える。

 老後は、こういう落ち着いた場所にいるのも悪くないかもしれないな。

 それにしてもネコが可愛い。

 何が可愛いかって?

 言語化できたら、それはもう可愛いとは言わない。心で考えるな、頭で感じろ。


 それにしても静かだ。

 俺の家の近所だと、隣の家のおばあさんのテレビの音声だったり、夜中になってブイブイ吹かし始めるバイクの排気音だったり、俺に向かって吠えてる遠くの犬の鳴き声がして意外と騒々しいのだが。

 ここは本当に静か過ぎじゃないだろうか。

 両隣にも向かい側にも家はあるのに。


「おや、大志くん」


「あれ、お祖父さん?」


 後ろから畳を擦る足音がしたので振り返ると、寝ぼけ眼をこするお祖父さんが現れた。

 襦袢姿で現れたが、前身頃を締めていないので完全にパンツが丸見えである。


「眠れないのかな?」


「ちょっと興奮して眠れなくて」


「ワシのパンツで?」


「いや別に。お祖父さんは?」


「ネコの足音がしたから」


「お祖父さんの聴力ハンパないっスね」


「でも朝に起こしに来てくれる陽咲の声では起きれないんだよ。その所為で毎朝呆れられてるんだが、相当小さい声で話してるか、起こしに来てるって嘘ついてるかだと思ってる」


「老後なのに朝起きるんスね」


「そこら辺は陽咲が厳しいから」


 欠伸をしながら、お祖父さんが隣に座る。

 すると、おもむろにネコが俺たちの方へと歩み寄って来る。

 両腕を広げて迎え入れようとしたが、そのままスルーして隣の床で体を丸く畳み、すやすやと眠り始めた。

 ふ、可愛いな。

 何が可愛いかって?

 こうやって俺の事を無視しながらも、なんだかんだで隣で眠れてしまう無防備さがな。あれ、言語化出来できたから可愛くはないのか。


「大志くん、雫と仲良くしてくれてありがとうな」


 何の脈絡も無く告げられた言葉に、俺は思わず首を傾げた。


「どうしたんですか、いきなり」


「見ていてわかったけど、雫は君に本気で気を許してる。そんなの、話を聞く限りでも相手はワシくらいしかいなかったから」


「両親とも仲良いけど」


「でもワシには分かるよ。本心までは明かしていない」


「本心?」


「うん」


 お祖父さんはそれから語り始めた。




 雫が生まれた年、お祖父さん――郁斗さんは大いに喜んだ。

 地方の実家から、超瀬町の病院にまで駆けつけて初孫を見に来た。疲弊した息子の妻を労りながら、その傍らで静かに眠る幼い寝顔を撫でたときの愛おしい感触は忘れた事が無いという。

 お祖母さん――陽咲さんには黙って出てきたので後に叱られたが、それすら苦にならない程には孫が可愛かったらしい。

 後で雫と命名され、年末年始と長期休暇には必ず遊びに来る雫を歓迎した。


 楽しげに訪問する彼女を、郁斗さんは快く迎えていつも遊んであげたそうだ。


 ところが、四歳の夏に雫は少し暗い面持ちで家を訪ねてきた。

 毎年見れる筈だった笑顔が無い。


『どうした、雫や』


『お祖父ちゃん、私っておかしいのかな』


『おかしいくらいに可愛いけど?』


『……みんな、私が何をしても悪いって言わないの。喜んで庇ってくれるし、私が言ったら嬉しそうに何でもしてくれる』


『そりゃ歪んだ光景だったろうな』


『お祖父ちゃん、私さ……悪い子なのかな』


 何をしても自分が許される。

 そんな異常な環境と、その要因となっている自分への違和感で雫は揺れていた。

 郁斗さんはそれに対して。



『安心しなさい。――雫は変な子じゃない』



 そう言葉をかけて、雫の頭を撫でる。


『雫が悪いことをしても叱らない人間はアウトだ。雫はそれがおかしいって思ってるんだろう?』


『うん』


『雫が変な子だったら、それをおかしいとも思わず、そのまま鵜呑みにして大人になっていく。いやあ、孫が賢くてワシ幸せ!』


『私、おかしくないの?』


『勿論。だって、雫は悪いことをしたら謝れるだろう?』


『うん』


『自分のせいで何かが蔑ろにされているのを見たら、悲しく思うだろう?』


『うん!』


『ほら、雫はただの良い子。ちょっと周りが助けたくなるくらい可愛いだけで、普通に失敗もするし反省もできる、ただのワシの孫。――な?』


 そう諭せば、雫は笑顔になったという。

 それ以来、また以前のような笑顔を見せるようになった――のだが、それが特定の誰か、それも身内な祖父だけだという事実に気付いたのはそう遅くはなかった。

 そして。


『え? その子が逃げる掏摸すりとぶつかりそうな雫を庇って怪我をした?』


『うん。……でも、そしたら皆はその子の事なんか見向きもしないで私に怪我が無くて良かったって』


『えぇ、何その狂気の世界。ワシ超瀬町に行きたくなくなってきた』


『やっぱり私って……』


『いやいやいやいやいやいやいや。その町の人がおかしいだけだって! ワシの近所でも、独身だった頃の陽咲以外でそんなケース見たこと無いって!?』


『お祖母ちゃんも?』


『ああ。それに、雫の時よりも苛烈な時代だったからなぁ。ワシが陽咲の隣にいる瞬間に街角を歩くたび頭上から植木鉢が落ちてきたし』


『…………』


『大丈夫! 雫はおかしくない! ワシが保証する! 後、雫は陽咲に似てるから、いつか必ずワシみたいなのが現れて雫を守って……守られると思うけど、ワシの代わりに保証してくれる! と思う、多分!!』





 そこまで話して、お祖父さんは苦笑する。

 お祖父さんがそんな表情をするくらいには、雫って昔から壮絶だったんだな。


「窮屈に過ごす孫に、ワシはただ笑って大丈夫としか言えんかった。だから、ワシ以外に見出したお隣さんの話はよーく覚えてる」


「そんな人がいたのか……」


「君だよ、大志くん」


「俺の話だったのか」


「君だよね?」


「そうかも」


 てっきり良い話だと思って聞いていたら、相手が俺だと聞いて一気に茶番感が増してしまった。

 雫……なんて悪い男に引っかかってしまったんだ。仕方ない、こうなったら極力イイ男になるしか……。


「だから大志くん」


「はい?」


「雫の事、真剣に頼んでも良いかな?」


 お祖父さんが俺の方へと真面目な顔を向けてきた。

 あれだけ心配していた孫を託すというのだから、その沙汰に冗談なんて一切無いだろう。

 そんなお祖父さんの決意に応えるには。


「任せて下さい。俺の人生に替えても、雫を守れるくらいの頭蓋骨になります」


 俺はそれに、決意を込めて応えた。

 そうだ、雫に守られてばかりじゃない。

 雫を守れる人間にならないと。


「頭蓋骨?」


「だってお祖父さんの時は植木鉢が落ちてきたんでしょ? お祖母さんに似てる雫ってことは、同じ事があるだろうし、危ないから頭の厚みを増やさないと」


「いやあ、アレはワシの時代だし。現代は鉄骨だと思うよ?」


「鉄骨か。そりゃ鍛え甲斐がありそうっスね」


 将来、俺にはサイ並みの頭蓋骨が必要かもしれない。

 いっそ人間やめてみようかな。


 俺とお祖父さんは、そうして夜が明けるまで語り合った。

 声がうるさくて何度か隣のネコに引っ掻かれたが、それはご愛嬌だ。

 何がご愛嬌だって?

 そもそも、よく愛嬌って雰囲気とか流れで言うけど愛嬌って何だ。単純に意味を知らん。






 そして翌日、俺は荷物を纏めて玄関に立っていた。


「お世話になりました!」


「早いのね」


「雫の祖父さん祖母さんと話してたら、俺も自分のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いたくなってきたから!」


 善は急げだっけ? 思い立ったが吉日だっけ?

 どっちでも良いが、家族の団らんを見ていたら俺も会いたくなってきた。

 そういうわけで、早朝から連絡を入れて俺は自分の祖父母に会いに行くことにした。

 その判断をお祖父さんには笑われ、陽咲さんには惜しまれ、雫は――。



「そう、将来的には友好関係じゃないといけないんだけど、夏休み中に私から大志を……」



 何か爪を噛んでぶつぶつと呟いている。

 爪を切りたいのなら、ちゃんと爪切りを使えば良いのに。歯だと切れないどころか傷が付くぞと忠告したい。


「大志、私も行きたい」


「いや、いくら雫でも俺の祖父母にとってはメチャクチャ他人だから流石にそれは」


「アンタは私の祖父母の家に図々しく来てたでしょ」


 風の音で聞き取れなかったが、まあ俺と離れるのが不満なのだろうと思っておく。


「じゃあな、雫! お世話になりました、お祖父さんと陽咲さん!」


「お気をつけて」


「また来るといい」


 笑顔の二人に俺は頷いた。――と、雫に力強く肩を掴まれる。



「いい?私が渡した地図に赤い線が引いてあるから、それに従って歩きなさい。絶対に、何があっても脇道に逸れちゃ駄目よ。地図も失くさないように持って、もし分からなければ人に聞きなさい。交通費分はあるだろうけど、何かあったら直ぐに私に連絡すること。車道を歩く時は必ず端を歩いて、足元にも注意しなさい。お腹が空いたら弁当を食べなさい。ただし食事が許可されたスペース、それも人目があってなるべく安全な場所で食べ――」


「あー、はいはい」


 つまり、いつも通りで行けという事だな。

 ったく、そんなに心配する事無いのに。

 やれやれ、と俺は肩をすくめて笑った。



「雫、安心しろ。陽咲さんやお祖父さんからおまえを任されたんだからな。決して怪我したり危ない目に遭うような真似はしないぜ!」



 そう宣言する。

 これで安心してくれるだろう。

 ほんの数時間前だから鮮度も高い決意だぜ。腐っていくのかは、これからの俺次第だ。

 でも、間違いない。

 この声が、言葉が、意思が響かない人間なんていない筈だ!

 確かな手応えを感じて雫を見ると、彼女は何故か心底から汚い物を見たような顔をしていた。



「その言葉に説得力があるとでも?」



 それから、俺は実家に帰る途中で何度も迷子になりながらも何とか辿り着いた。

 俺を迎えに行こうとする雫と、それを実力行使で止める陽咲さんの抗争があったらしいが、それはまた別の話らしい。









 

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