そういう男を目指します



「それで、申し開きの余地は無いでしょ?」


 般若――のような顔をしている程の迫力――の雫に睨め下ろされた俺は、彼女に平身低頭の姿勢で対する。

 雲雀は既に入浴中だ。

 彼女が風呂に入ってから、俺と雫はこの状態である。


「何か言ったらどうなの?」

「…………」


 結果から言おう。

 俺は風呂掃除をして風呂で溺れかけた。

 問題なく浴室や浴槽を洗う事は出来たのだが、湯を溜め終えてそれを確認して去ろうとした瞬間に足を滑らせて頭を湯に突っ込んだ。

 我が家、じゃなくて雫の家は湯を自動で張り、完了すればアナウンスする仕組みである。

 アナウンスがあったのに戻らない俺を心配した雫が見に来るまで五分間、湯の中でひたすらに耐えた。


 本来なら脱出できたのだが、片足が負傷中だったので上半身を突っ込んだ状態から起き上がれなかった。

 いやあ、あれで三回は天国を見たな。

 川の向こう側で手を振る永守梓の姿に危うく彼岸へと渡るところだった。

 気付いたらマックスヒート状態の雫の顔が目の前にあったが。 


「待て。いま返す言葉を探す」


「返す言葉も?」


「ございませんを言わない為に探す」


 待て。

 俺は自立の為の一歩を踏み出す筈だった。

 なのに、あの状況で足を滑らせたのは不運としか言いようがない。

 これでは、ますます雫を過保護にさせてしまう。

 俺が永劫にのんびりとした幸福に浸る人生が決定してしまう。


「俺は雫の為に頑張ろうとした」


「もう頑張らなくていい」


「い、良いのか! そんな事をしてみろ、一生雫に依存して生きていく腑抜け者が現れて、仲良く雫も泥沼にハマるだけだぞ!」


「そうね」


「俺は幸せだけど、それじゃ雫がダメだ」


 俺は説得を試みた。

 やはり言葉にしなくては分からない事もある。俺はアホだから言葉にされても分からないが、雫なら理解できるし納得する筈だ。


 人生道連れ、字面から言っても最高と言える。

 いや、違うな、最悪だ。どっちだ?


 とにかく、雫にとってはデメリットしかない。

 いずれは社会人になり、立派な大人として各々の人生を歩む事になる。

 その時に他人が足枷になってはいけない。

 少なくとも俺がそれを望んでいる!間違えた、臨んでない。


「雫の為に、俺は自立したいんだ!」


 くらえ、俺の熱意!

 あ、違う、伝われ波も…………でもなくて熱意!


 雫は俺の事を侮蔑一色の温かい眼差しで見つめて来る。これは、どういうリアクションだろうか。

 認めて貰えたのか、それとも柔らかく否定される前なのか。


「でも死にかけたでしょ。さっきも、今までも」


「確かに!」


「今日も足を怪我した時だって、相手の女が実は怪我させた事を口実にアンタの家にあのまま一緒に入って好き放題しようとしてたのにも気づいてなかったし」


「そそそそそうなの!?」


 それは惜しい事をした。……じゃなくて、俺は何度も雫に助けられてる。

 昔なんて、電線に留まった鳥を捕まえようとした俺を彼女が止めてくれたくらいだ。

 もし制止してくれる人物がいなければ、今頃は溺死していただろう。

 溺死?違うな、溺死だ。


 実際に雫は迷惑している。

 だが、それ以上に俺を見捨てる事の後悔が苦しいという優しい幼馴染の良心の呵責があって、仕方なく俺に世話を焼いているのだ。

 だから、変えなくてはならない。

 俺と雫の在り方を。


「そんなに私を心配させて楽しい?」


 その言い方に俺はむっとした。

 心配して貰える程度に親しいのは有り難いが、俺はそこまで雫に甘えたくない。


「それだと俺はずっと雫の臑を…………何だっけ、噛むんだっけ?」


「かじる」


「そう、爪先を齧るような生き方になる。それだけは男として、というか生物学的に駄目だと思う」


「アンタがさっき溺れかけて、私は肝を冷やした。アンタが危ない目に遭って、その度に傷を見た私がどれだけ驚いたり混乱させられたか知ってる?」


「…………ぜ、全身全霊で申し訳ない」


 床から頭を上げて謝罪する俺に対し、膝を抱えるように屈んで俺を少し上から見下ろす目線の高さで止まると、顎をそっと指で持ち上げられた。

 じっと見つめられると、何故か緊張する。

 思わず呼吸が止まった。




「このままだと私、大志を嫌いになっちゃうけど?」




 そっと囁く雫の声。

 俺はそれを聞いて―――ん?と疑問に思った。


「え、俺のこと好きだったの?」


「…………………………………………………………………もういい」


 雫が顔を背けて、そそくさとキッチンへ去ってしまった。

 一体、何がいけなかったのだろうか。

 雫の為の努力が、逆に不興を売る。

 もしや、頑張るべきポイントが違う??


 ここは発想の逆転だ。

 俺が常時アホというのなら、逆転させれば天才になる。

 いつも普段通りに物事を考えるから余計ややこしくなるのだ。

 俺らしくない発想、そこに懸ける。

 いつも苦労ばかりかけている雫の為に努力する事が駄目なら――――そうだ!


 俺の脳裏に新戦略が閃く。

 これならば、雫も納得するだろう。


「雫!」


 俺はキッチンへと走った。

 野菜を洗っている雫は、一瞥たりとて俺に向けない。その横顔は険しく、どことなく頑なにこちらを向くまいという意思を感じられた。

 ふ、それが俺に通じるとでも?

 俺は雫に無視されると寂しくなる男だぞ。


「雫、俺が悪かった」


「…………」


「俺が間違っていた、雫の為に頑張ることはしない」


「…………?」


 雫の瞳がこちらへと動く。

 手が止まり、野菜から跳ねる水の音だけがキッチンを満たしている。

 謎の緊張感に包まれているが、言うなら今だ。


「雫じゃなくて、皆の為に頑張るから!!」


「何処かで野垂れ死ね」


 雫から返って来たのは、そんな優しい一言だけだった。

 ううむ、分からん。

 これは、許可を得たと受け取って良いのだろうか。


「じゃあ、どうすれば雫は喜ぶ?」


「…………」


「俺は雫の言う通り、少しアレ?らしいから考えるほど迷走する」


「ふうん」


 雫が台所の水を止めた。

 それから俺へと振り向くや、手招きしてくる。

 一秒たりとて無駄にしまいと、俺は全速力で傍まで駆け寄った。


「じゃあ、私の言った通りに動く?」


「勿論」


「反論しない?」


「するけど逆らわない」


「…………まあ良いわ」


 雫は歎息しながら言葉を紡いだ。


「私は大志の世話が趣味だから。…………邪魔したらアンタの寿命が無くなるだけだよ」


「な、なるほど?」


「他の誰でもない、大志の世話が趣味だから」


「ほ、ほう」


「分かったら、今後は私からの自立は考えない事。あとは…………怪我しないこと。――わかった?」


 よく分からないが、取り敢えず頷いた。

 つまり、俺が自立しようと動く度に雫が不機嫌だったのは趣味を妨害されたからか。

 それならば納得だ。

 しかも、俺以外では駄目だという所が難儀だな。


「お風呂頂きましたー…………って、二人で何してんの?」


 丁度風呂から出た雲雀がタオルを肩にかけたままキッチンを通りかかる。


「なあ、雲雀」


「ん、なに?」


「俺、これから世話のしがいのある男を目指すわ」


「明日の病院で診て貰うとこ増えたじゃん。――頭とか」


 早速褒められた。





 三人揃っての食事になったのは二十時過ぎ。

 今日は雫の両親が新婚旅行らしいので、三人だけだ。でも二ヶ月前にも新婚旅行に行ってなかったか………?

 それはさておき、雫の料理に感銘を受けた雲雀は、わなわなと震えながら食べている。


 やっぱり他の人からしても雫の飯は美味しいか。

 そういえば、雫が作る弁当を食べたいと男子校で整理券を作ってまでの行列や予約が入ったことがある。

 それを知った雫が一週間弁当を作ってくれなくなったが。


 あれも、俺の世話という趣味の妨害でもある。

 だから雫は弁当を作らなかったのだ。


「雲雀は飯食べたらどうする?」


「食べたら朝一のバイトがあるから帰って寝る」


「なら、帰りに明日の分の朝食をタッパーで渡して置くわ」


「…………夜柳って、もしかしなくても女神なの?」


「先日は大志が晩ごはんまでお世話になったみたいだから」


 感動している雲雀の横で、雫は冷ややかな眼差しを俺に投げかける。

 なる程、これも趣味の妨害だったわけだ。

 だから俺は今睨まれている。


「ごちそうさま。………じゃー、食器洗ったら帰るよ」


「私がやっておくから、早く帰って寝なさい」


「めちゃ帰宅推奨してくるじゃん」


「目の下の隈を鏡で見た?」


「はいはい、りょーかい。夜柳は心配性だねー」


 く、二人とも仲良いな。

 何か腹立ってきた。

 雲雀は荷物をまとめて、すぐに立ち上がった。


「じゃ、帰るよ。お世話になりました」


「じゃあ俺がホテルまで送るよ」


「アタシの家に帰せ。っていうかアパートね」


「だって外は暗いだろ。夜道を女の子一人で歩かせるのは駄目だろ」


 そう言った瞬間、雫と雲雀が目を見開いた。

 何だそのリアクション、そんなに大きく目を開けないと俺の顔面が視界に入り切らないくらい大きくなったのか?


「あ、アンタにそんな常識があったなんて…………!? 夜柳に教わった?」


「違う、私じゃない。大志、誰にそんな事を教えられた? 女? また私の知らない女?」


「去年のネット記事だけど」


 それを聞いた途端、納得したように雫が頷く。


「そう………だから去年から毎日私が生徒会で遅くなっても校門で待ってたのね」


「アレだろ? 夜になると、女子だけを襲うウチの男子校の生徒が出るとかってサイトに書いてあったから」


「逆によく信じたわね、その内容」


 それもあるが、単純に心配だった。

 俺は雫がその生徒を退治してしまうのではないかと。

 だから、俺はその正体を見たいが為に毎回校門で待って暗い時間は敢えて雫と共に下校していたのだ。

 今では、雫ではない女子でないと出現率が低いのだと思って半ば諦めている。


「気遣いは嬉しいけど、アンタが来たら帰り道で死にそうじゃん」


「確かに」


「自分で言うなし」


 そうか、俺一人だと危ないな。

 そしたら男子が襲ってくる…………俺って女子だったのか。

 それに、雲雀ならばワンチャンス男子高生出現もあり得る。


「なら、私も行く」


「雫も?」


「大志は女の子を家まで送りたいんでしょ? なら、アパートまで実河さんを、家まで私を送ってくれれば良いわ」


 それだと襲撃者も出てこないような………。


「じゃあ、二人で頼むわ」


 雲雀が呆れ笑いをこぼして了承した。

 何故か二人でアパートに送ることになったが、これで襲撃者は期待できそうにない。


「ねー、夜柳」


「なにか?」


「またここに遊びに来てもいい? もち、都合が合えばだけど」


 雲雀が唐突によく分からない事を言い出した。


「…………なぜ?」


「アタシ、今まで放課後をこんな感じに過ごした事なかったからさ…………今日は楽しかったし。アタシを楽しませようと必死にする小野もそうだけど、幼馴染を取られるんじゃないかって必死になってる夜柳も可愛かったし」


「……………………………………………………………実河さんとは良い友だちなれそう」


「やっぱり?」


「じゃあ、次こそはアニメ観ようぜ!」


「血湧き肉躍るの頼むわ」


「オッケー! 盛大な血飛沫期待しとけよ」


「そういうのじゃない」


 その日、三人で談笑しながら帰った道はアパートに着いた事を寂しく思わせる程には楽しいものだった。

 雫もそれなりに彼女に心を許しているようだ。


「雫」


「ん?」


「楽しかったな」


「そうね」


 その日、素っ気ない声色で答えた雫が見せた笑顔は印象的で、明日の朝まで忘れられなかった。





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