3.
雨音がする。日はまだ上らない。俺はソファから身を起こすと、ベッドで眠るカナトを起こさないよう細心の注意を払いながら、暗いキッチンでコーヒーを淹れ始めた。
キャンプで使うような携帯ミルでコーヒー豆をひき、湯を沸かす。使い込んだサーバーとドリッパーをセットしたら、コーヒー豆の上にゆっくりと湯を注ぐ。膨らんだコーヒー豆から、オレンジのような香りが広がった。
夜明け前のコーヒーは、俺の日課みたいなものだった。まだ街全体がまどろんでいるような早朝に、一人ベランダでコーヒーを飲む。まるで時間が凍りついてしまったような一時、それは他人が思うよりもずっと清々しい朝の儀式だった。
カナトは気持ち良さそうに眠っている。
「……」
俺はコーヒーを持ってそっとベランダに出た。振り込むような雨ではないが、霧状の雨粒がどこからともなく俺の体を濡らしていく。遠くの家の庭に生えた朝顔をぼんやりと眺めながら、熱いカップを口に運んだ。
カナトがここに来て一週間経つ。最初は部屋に飾ってあった蝶の標本や昆虫図鑑を気味悪がっていたが、すぐにここに慣れたようだった。俺が研究室にいっている間、部屋の雑誌を読んだり、軽く散歩をしていて、帰る度に、やれあんな写真を見た、あんな店を見つけた、などと報告してくる。それから外には意外にも彼の『仲間』がいるという。彼らから情報を仕入れるのも、カナトの重要な日課だった。
料理は苦手らしい。火が怖いのだ。だから食事は俺の担当だった。たいした腕もない俺の料理を、カナトは文句も言わずに美味しそうに食べた。
すっかり人間としての暮らしを謳歌しているカナトと対照的に、俺は未だにこの暮らしに慣れていなかった。燻る気持ちはふとしたときに顔を覗かせる。今朝もベッドで眠るカナトの横顔を見て、胸の奥をくすぐられるような心持ちになった。
その隣で横になりたい。頬に触れ、その薄い瞼に口付けたい。それらはすべて、彼の顔に残る向井に向けた感情だった。それが二重の罪悪感を俺に植え付けた。
ふと、後ろで窓の開く音がした。めずらしくカナトが起きている。普段ならあと三十分は寝ている彼が、気だるそうな足取りでこちらに向かってきた。開ききらないまぶたが、酒を飲んだときの向井にそっくりだ。
「……脩さん、おはよう」
向井がそうさせていたように、彼には俺のことを下の名前で呼ぶように教えていた。
「おはよう。早いな、」
「なんとなく。それ飲んでいい?」
カナトは俺の飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。そのままマグカップを受けとると、そっと唇をつける。
「いい豆なんだから大事に飲めよ……」
「うーん、ちょっと酸っぱい……何て言うコーヒー?」
「コスタリカ・エルサルサルセロ」
「えるせる…」
「コーヒーをつくる施設の名前だ。コスタリカには面白いツノゼミがいる。そうだ、お前のいたインドネシアのコーヒーもあるぞ」
「へえ!じゃあさ、今度淹れてよ」
「お前が早起きできたらな」
結局彼は二、三口飲んだだけで俺にカップを返した。砂糖がないと飲めないらしい。戻ってきたマグカップを俺はしばらくもて余していたが、観念してそのカップにふたたび口をつけた。
雨雲の向こうが白い。タイマーでテレビがつく。六時だ。
「準備しなきゃな」
ベランダから部屋に足を踏み入れた。いつもの朝が始まる、そう思ったその時、
カナトが俺の背中にもたれ、腰に手を回した。
「外、寒いね」
予想もしていなかった彼の行動に、心臓が大きくまたたく。その場所を探るようにして、カナトの手のひらが這い上がってきた。耳の後ろには、彼の柔らかな唇が触れている。どうして。にわかに甘い期待が沸き上がってくる。だが、カナトの言葉は、その期待の表裏をひっくり返した。
「脩さんも、こういうの、ほしい? ――あの人みたいに」
まっ逆さまに落ちる心地がした。全身から血が抜けていくようだ。皮膚だけが、ビリビリとあつい。あのひと、というのが向井なら、二人は――。
「どっちがいい?」
気がつくと俺はカナトを振り払い、床に手をついて倒れ込んでいた。突き放されたカナトはよろめいて、ベランダの欄干にもたれている。心外だ、というような、そして、ひどく傷ついた顔。きっと俺も、同じ顔をしている。
そのまま無言で、お互いにじっと見つめあっていた。ほんの数秒、それが気の遠くなるような時間に感じられた。
俺は立ち上がると、何も言わずに最低限の身繕いをして、逃げるように部屋を出た。さっきはあんなに優しかった雨粒が、いつの間にか痛いほどの豪雨になっていた。その中を傘も持たずに走って、車に駆け込む。シートにもたれた体はずぶ濡れだ。ブレーキペダルを踏もうとする右足を見て、俺はカナトに初めて会った日と同じ靴を履いていることに気づいた。
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