4.

「高針せんせぇ、」

 女子生徒の声がして、研究室の戸が開いた。この声は、向井のゼミ生だった本郷だ。向井が死んで、俺のゼミに吸収された生徒の一人だった。

 眠るような格好でテーブルに突っ伏していた俺を見たのか、「聞いてますかぁ」と面倒くさそうに言った。ここの生徒にしては珍しく、俺に悪態をつくことがある生徒だ。腫れ物にさわるような態度の生徒すらいる中で、その歯に衣着せぬ物言いが気に入っていた。同類、というやつなんだろうか。

 なんにせよ俺は今、何も考えたくない。調子が悪い。うまく考えがまとまらない。机に伏せ、目を閉じて、頭に流れる信号を極力少なくする。そうすることで大抵の場合は頭のカンが戻ってくる。けれど今日は、どれだけその姿勢を続けても、頭の中のノイズが減ることはなかった。

「じゃあ、レポート、ここにおいておきますね」

 頭のそばで紙の擦れる音がする。俺は左手だけを軽くあげて、本郷に挨拶をした。

「……せんせぇ、みんな心配してますよ」

 去り際にかけられたその言葉に、不意に顔をあげる。

「向井せんせぇが亡くなって……この研究室もなくなるんじゃないかって」

 心外だった。だが確かに、共同研究の柱は間違いなく向井だった。俺一人でこの研究を抱えきれない。表向きは名を並列しているが、実際にはアシスタントのようなことばかりをしていた。俺にはそれが限界だった。向井のように、この世界に切りこんではいけない。生徒たちだって分かっている。恐らくは大学側も。この部屋の主は向井なのだ。

 俺は何もかもをなくしかけている。


 本郷が部屋を出たあと俺は再びうなだれた。瞑ったまぶたの奥に、カナトの姿が浮かび上がる。

『――あの人みたいに』

 そんな話は聞きたくなかった。消しても消しても、二人の姿はまた浮上する。体を重ねあう、二人の姿。

 もしそうなら俺にはチャンスがあったんだろうか。そしてそれをむざむざ捨てていたのか。それより本当にカナトに手を出していたなら、それはつまり、立場を利用したということじゃないか。庇護し、庇護される関係を利用して。向井は決してそんな人間じゃない、陽気で、優しくて、分別があって……根拠もなくそう思っていた。カナトは結局、向井に都合よく使われたんじゃないのか――。

 俺の中の向井がどんどん黒く塗りつぶされていく。

 帰りたくない。

 早めに研究室を出たあとも、大学の駐車場に置いた車の中で、三時間も四時間も閉じこもっていた。雨がフロントガラスを打つ音が、途切れることなく続いている。気づかないうちに日は沈み、暗くなった空に隣のドラッグストアが薄明かりをにじませていた。

 カナトは今どうしているだろうか。

 腹を空かせているかもしれない。冷蔵庫にはいくつか食べられるものがある。一人で食べているのだろうか。

 俺の家に住み始めてから、いつも二人で夕食をとっていた。三日前、思わぬ残業で帰りが遅くなったときも、カナトは何も食べずに俺の帰りを待っていた。今もひょっとして、待っているんだろうか。

『今度淹れてよ』

 今朝の何気ない会話が懐かしい。

 彼の、ひどく傷ついた顔――。


 俺は車をだし、アパートに帰った。部屋は真っ暗だった。開け放されたリビングの扉の向こうで、ベッドの横に座るカナトがいる。うつむいていて顔が見えない。電気をつける。

「……」

 振り向いたカナトの目は赤く晴れていた。

「脩さん、」

 その目にみるみる涙が溢れだす。

「よろこんでくれると思ったんだ。亮平さんはよく誘ってくれたから。よろこんでくれたから……」

「……」

「傷つけるつもりはなかった。知らなかったんだ。みんなそうしてほしいと思って、ただ、」

「もういいよ。」

 涙声になっていく彼の言葉を遮って、その肩を抱く。

「俺も、突き飛ばしたりして悪かった」

「……帰ってこないかと思った。怖かった」

 カナトはそのまま俺の肩に頭を預け、しばらく静かに泣いていた。カナトの柔らかな髪を撫でながら、その子供のような姿に、誰にも、向井にすらも抱いたことのない感情を覚えた。

「仲間の言ったことは嘘だったんだ。みんな、体は委ねておけって言う。男でも女でも、」

「手っ取り早いからな、」

「そうじゃない人がいるなんて、誰も教えてくれなかった。何もしなくても側においてくれる人がいるなんて、」

「……わかったから。腹が減ったろ。何か買いに行くぞ」


 玄関を開けると、いつの間にか雨は勢いを落とし、今は再び霧状の雨が舞うばかりだった。しばらく悩んだあと、傘は置いて出た。今晩はもうこれ以上降らない気がした。歩いて向かったコンビニで、カナトはカップのバニラアイスをかごに入れた。これが一番好きなんだと言う。いつも何でもよく食べる彼のいちばんの好物を、俺ははじめて知った。

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