2.

 それがまるで何かを予見していたかのように、一月後に向井は脳梗塞で倒れた。若いのに残念だな、葬儀場でそう囁きあう同僚のそば、横たわる彼は眠っているようだった。


 これでよかったのだろうか。死人を前にやや不謹慎な気持ちで俺は読経を聞いた。結局、彼に思いを伝えることはなかった。だから彼が俺をどう思っているのか、本当のところはわからなかった。99パーセント以上の確率でただの同僚だと思われていただろう。あるいは仲のいい友人、もしかすると嫌われていたのかもしれない。それすらわからなかった。向井にとってどんな存在だったのか、わからないまますべてが終わった。そのことが、余計に俺を未練がましくさせた。


 その葬式にカナトが来ていたことを知ったのは、霊柩車が火葬場に向かうのを見送った直後だった。

 ひどい雨の日だった。葬儀場の看板は雨粒と雨雲で灰色になり、景色との区別が困難になっている。向井を乗せた車は、雨の煙ですぐに見えなくなった。俺は屋内へ戻る人の流れを遠目で見ながら、なんというわけでもなくその場で立ち止まっていた。

「高針さん、久しぶり」

 振り向くと、喪服を着て傘をさす、背の高い青年がすぐそばに立っていた。青年は俺に向かって微笑んでいる。だが、俺には誰なのか見当もつかなかった。まず大学の疎遠な友人あたりから記憶を掘り起こしていく。カナト、という選択肢はなかった。なぜなら一月前の彼は小学生で、目の前にいるのは大学を卒業したであろう立派な青年だったからだ。

「カナトだよ、覚えてる?」

 嘘だと思った。そんなはずがない。だが、目元や鼻筋に残る向井の面影は、確かにあの少年とリンクした。他に思い付く人もいなかったので、俺は半信半疑で探るような会話を試みた。

「カナト、くん。その……お父さんの火葬にいかなくていいのか?」

 それを聞いて、カナトは驚いていた。それから、

「本当は気づいてるんでしょう、」

 と言った。

「亮平さんが、俺の父さんなんかじゃないってこと、」

 余計に訳がわからない。向井は彼を自分の子供だと言ったが、彼は向井の子供ではないという。向井の下の名前を呼ぶくらい、親しい間柄なのは確かだ。親戚?あるいは、昔からの友人?だがどの予測も、一月で人間を子供から大人にする説明にはならなかった。

 それに俺自身、彼の下の名前を呼んだことはない。それをカナトが易々と呼ぶことに、自分でも気がつかないうちに苛立ちを感じていた。


 カナトの提案で、俺たちは近くの喫茶店へ向かうことにした。俺はカナトを助手席にのせ、雨に煙る灰色の市街地を十分ほど走らせた。道中、お互いに一言も発しなかった。車内にはワイパーの鈍い音だけが周期的に響いていた。

「2年前の、海外出張を覚えている?」

 席でアイスコーヒーを一口飲んだあと、カナトはゆっくりと語り始めた。彼がガムシロップを三つも空けたことを意外に思いながら、俺はその話を聞いた。

「懇意にしている教授から、インドネシアでの研究に誘われたよね。それで亮平さんとあなたがついていった。三ヶ月間、現地の熱帯雨林に出たり入ったりして。楽しかったでしょう。二人とも、昆虫の専門なんだってね。覚えてないと思うけど、亮平さんは、その時こっそり卵を持ち帰ってたんだ」

「卵、」

「虫の卵。もちろんルール違反だけどね。それでね、ここからは秘密の話なんだけど、」

 カナトが言いながらだめ押しのガムシロップをもう一つコーヒーに注ぐ。くるり、と混ぜたあと、上体を少し低くして、俺の目を覗きこんだ。向井の眼だった。

「亮平さんが持って帰った卵が、俺なんだ」

 こんな突拍子もない話に、いつもの俺なら笑っているところだったろう。けれどなぜか、今は不思議な気持ちでその話を半分信じていた。それは、目の前にいる青年が一月前は確かに小学生だったこと、そして、向井の死を完全に受け入れられていない俺に向かって、彼の顔をした青年が微笑んでいるということ、それらがまとめて、俺の理性を狂わせていたからだった。


 カナトは、自分が蝉の一種であると説明した。――木中で卵の期間をすごし、孵化をすると土中にもぐる。ここまでは普通の蝉と同じ。カナトの「種」は、最初の脱皮で、人の子供の体になって土から這い出る。庇護してくれる人を探し、その人間のもとでさらに脱皮を繰り返して成長する。捨てられてしまわないよう、脱皮の度に顔形を周りの人間に似せていくのだそうだ。

「あれから今日まで、亮平さんが俺を“大切に”扱ってくれたお陰で、ここまで成長できたんだ。俺は本当に、あの人に感謝してるよ。あとは残すところ、羽化するだけなんだ。ほんの二、三週間ってところだ。それでね、高針さん。無理を承知でお願いするんどけど、それまで、あなたの家に泊めてほしいんだ」

――俺とお前、二人だけの秘密にしてくれないか。

 向井の声が脳裏に浮かぶ。

 俺と向井の他に、カナトが頼れる人間はいないのかもしれない。断れば路頭に迷うだろう。彼を受け入れるべきだと思った。だが同時に、どこかで俺の良心が頭をもたげていた。

 それは、未完のまま終わった恋と、その相手に似たカナトに対する、ある種の期待だった。夢の続きが見たい――そんなのは勝手な思いだと自分を諌めながら、俺は最終的に、カナトを自分のアパートに泊めた。

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