最終話 光の方へ、雲のように
次の日、まだ朝の気配がまるで感じられない闇が空を支配するうちに、カイは村を抜け出した。
今日旅立つと決めていた。ディートにそれとなく別れを告げた以上、もう、ここにはいられない。
昨夜は少しでも眠れるようにと早くに床に入ったが、目をつむってもさまざまな思いが頭の中をめぐって、結局眠ることはできなかった。だが、寝過ごしてしまうよりはましだと、気持ちを切り替えることにした。
静かに床を出て、ごそごそと旅装に着替えてマントをまとう。
こっそりと準備しておいた少しばかりの食料と飲物用の革袋、そして何枚かの衣類と一枚の毛布を入れた手作りの背嚢を背負った。懐には、革紐で腰帯に
中古で手に入れたカンテラを灯して手に持つと、カイは長く暮らした納屋の扉を静かに開いた。音を立てないように外に出て扉を閉じると、庭から道に忍び出る。大きく一つ深呼吸をしてからマントのフードを深くかぶり、歩き始めた。
満月は数日前に通り過ぎ、丸みを失い始めた月が煌々と照らす下を黙々と歩き町の中に入る。この時間、まだ街は静まり返り、道を行く人はいない。カイを見送る人がいるはずもない。
誰に声をかけられることもなく、町を抜けた。ほっとため息をつく。
防壁代わりの灌木の垣根を通り過ぎ、畑の間を抜け、やがてグリンティル峠へと続く山道に差し掛かった。しばらく登ったところで、カイは後ろを振り返った。
夜はようやく明け始め、黒さを失った空の中で星は一つ、また一つと姿を消し、月は中天を越え、ほのかに見えるロズラムの町の上で徐々に輝きを失いつつある。
これがこの町を見る最後になるかもしれない。
カイの胸の中を何か酸っぱいものが駆け抜け、鼻につんと痛みを感じた。だが、そんなものはつまらない感傷にすぎない。物心ついてからのことを振り返っても、今から引き返したくなるような思い出は何もない。あるとすれば、ディートの姿と彼に見守られながら励んだ魔法の練習、そしてこの出発の切っ掛けとなったオーガとの闘いぐらいだろうか。
カイは前を向いた。山道を登り始めると、もう、カイは自分が育った町を思い出すことはしなかった。
少しずつ空に溶け込み始めた月に背中を照らされながら、急な山道を登る、登る。道は険しくなっては緩み、緩んでは険しくなる。細い道の両側から伸びた木の枝が顔に当たりそうになるのを払い、地面に浮き出た木の根に滑りこけそうになっては踏みとどまる。疲れる膝を懸命に持ち上げて勾配を乗り越えていく。どのくらい登ったのか、山の上の方を見る暇はなかなかない。見上げたところで、頂上は見えないだろう。
カイは思った。
これまでの人生だってこんなもんだ。辛い毎日を、苦しい出来事の数々を乗り越えながら生きてきた。未来を見通すことなんてできなかった。それでも懸命に生き続けてきて、今日がある。明日からも、どこへ行っても同じかもしれない。
だけど、俺は生きていく。毎日を乗り越えていく。
楢や
草もウシクサのような膝ぐらいまでの高さになり、峠の頂上が見通せるようになると、分かれ道の印にされている大きな石の上に背の高い青年が座っているのが見えた。
その青年は峠の向こうの景色を見るともなく見下ろしていたが、カイの気配を聞き取ると振り返った。
「よう。遅かったな」
その青年、ディートフリートがカイに声をかけた。
「待ちくたびれて、迎えに行こうかと思っていたところだったよ」
「……ディート、なんでここにいるんだ」
別れを告げたはずの友の姿を見て驚きのあまり、カイの口からは単純な問いしか出てこない。
「なんで俺が今日旅立つってわかったんだ」
「そりゃわかるさ」
ディートは屈託のない笑顔で答えた。
「これでも、俺は保安官助手見習だったんだ。お前が何を買い集めてるかなんて、街を見回りしていたらすぐに耳に入って来た。そこへもってきて、昨日のお前のあの言葉だ。すぐにピンと来たさ」
「でも、なんでここへ」
「これを渡しそびれていたからな」
ディートはポケットに手を突っ込んで無造作に何かを取り出し、「ほらよ」とカイに投げてよこした。
「えっ?」
二人の間の宙を飛んだ二つの赤く微かな光をカイが慌ててつかむ。おそるおそる手を開いてみると、掌の上に乗っていたのは、二つに割れた魔核だった。
「これは、あのオーガのか?」
「ああ、そうだ。埋めちまう前に取り出したらしいんだが、使える者がいないからって、結局オーガを倒した俺の所に来た」
「いいのか?」
「俺にも使えないからな。結局、使えそうなのはお前だけじゃないか。お前が持っているのが一番だろう」
「わかった」
もっとも、カイにも使えるかどうかはわからない。魔物の魔核は高度な魔法に使うことができるらしいが、その分、制御するのも難しい。
「それから、これもだ」
ディートは傍らに置いていた一振りの剣を持ち上げた。昨日、カイがディートに贈った、カイの父の剣だ。
「それはお前にやったんだぞ? 返すっていうのか?」
カイが少しむっとして尋ねると、ディートは剣の鞘を持って立ち上がり、カイに歩み寄ってきて突き出した。
「ああ、返す。俺には使えないからだ」
「は? どういうことだ?」
「お前、これを抜いたことが無いだろう?」
「ああ、無いとも。俺には剣は使えないからな」
「やはりな。いいから、抜いてみろ」
ディートはそう言ってカイに剣を押しつけた。カイが躊躇っても、「さあ」と言ってぐいぐいと押しつけてくる。ここまでされては、やむを得ない。カイは剣を受け取り、右手で柄を、左手で鞘を握った。ちらっとディートを見ると、促すように励ますようにうなずかれた。
カイは一つ大きく息を吸うと、思い切って、手に力を込めて剣を抜いた。
鞘走る音がし、一気に抜き放たれる。だが、その刃が月の光を照り返して輝くことはなかった。
鞘から出てきた剣身は木製だった。もちろん刃はついておらず、切っ先も鈍く丸まっており、人を斬ったり突いたりして傷つけられそうには見えない。その代わりに、剣身の基部には四色の輝石が嵌められていた。緑、赤、青、黄。そして裏側には字が刻まれている。
「俺には使えない、その意味がわかっただろう?」
黙って木剣を見ているカイに、ディートが話しかけた。だが、カイは返事をできないでいた。胸の中に
試しに土の魔力を練ると、それに応じて黄色い石が光を放ち、あっという間に魔力が増幅されて剣身を取り巻いて褐色の
これは剣ではなく、魔法使いが使う
「文字が刻まれているだろう?」
ディートがまた声をかけた。剣身を裏返すと、輝石がはめられているのとは反対側に何文字かが綴られている。
『フランシスカ』。
「誰かの名前のようだけど、知っているか?」
「ああ」
知っている。よく知っている。
「俺の母さんだ」
酒に溺れて、有り金を呑み尽くして死んでしまった父親。この魔法杖であれば、さぞや高く売れたことだろう。だけど、何を思ってか、それはしなかった。死ぬまで大切にしていた。すべて失われたと思っていた母とのつながりが残っていたのだ。
杖を握り締めてうつむいたカイを見て、ディートは「そうか」とぽつりと言って口を閉ざした。
しばらくしてどうにか心を落ち着けたカイは、杖を鞘に戻すと、「ありがとう」と礼を言った。
「いや、もともとお前のものだからな。やはりお前のおふくろさんの形見か。大事にしろよ」
ディートがそう言葉を返すとカイは「ああ」と深くうなずいてから尋ねた。
「でも、これのためにわざわざ来てくれたのか?」
「そんなわけないだろ。それだけなら、すぐにお前の所に走って行って返したさ」
「じゃあ、なんでだ?」
カイの問いに、ディートは詰まった。夜明け前の風が、二人のマントをはためかせる。ディートがうつむく。薄暗がりの中、少し長い前髪がディートの顔に掛かって揺れる。その下の表情は読みとれない。顔を上げて何かを言おうとして、またうつむく。それを繰り返したのちに、ディートは決然と顔を上げてカイに向かって一歩踏み出した。
「俺も一緒に行かせてくれ」
カイには、その言葉が意外には思えなかった。なんとなく以前からわかっていたような気もした。それでも尋ねた。
「なんでだ?」
返事を待たせるかのように二人の間に強い風が吹く。
二人のマントが音を立てて翻る。
それが垂れ下がり、静けさが戻るのを待ってディートが答えた。
「多分、お前と同じ理由だ」
「……町を出るため、か?」
「ああ、そうだ。そのとおりだ。ロズレムから、そして親父のそばから離れるためだ」
カイの答えに被せるように肯定して、大きく一度呼吸をする。
「お前以外は、町の誰も俺のことを『保安官の息子』としか見ない。それがたまらなかったんだ」
そして、こらえきれずに叫んだ。
「……俺は俺だ!」
叫び声は草原の上を流れていく。カイはそれを黙って聞いた。静かな風の音が戻ると、ディートは「大声を出してすまない」と謝った。だが、一度口にしてしまったらもう止められない。そんな勢いでディートの言葉は続く。
「物心ついたころから、ずっとそうだったんだ。誰も彼も、親父のことしか言わない。剣術だって、俺を通して親父の技を見ているだけなんだ。オーガを倒しても、やっぱり『さすがは保安官の息子さん』だ。そんなのは、もうたくさんなんだ」
カイはうなずいた。薄々、感じていた。以前からディートが、父親のことに触れられるたび、父親の良い跡継ぎになれると言われるたびに、ふだん顔色を変えることが少ない友が、さらにまったくの無表情になることに気がついていた。
「俺も、『保安官の息子』ではない何かになるために旅に出る。そう決めたんだ。お前の魔法と同じように、この剣を磨くためにな」
ディートが腰に帯びていた長剣の柄をぽん、とたたく。オーガ退治のときの剣だ。
「そうか。でも、黙って出てきてよかったのか?」
「いや。実は、親父とおふくろには言ったんだ。跡を継がないって。お前が保安官助手見習になるのを断った後のことだ。あれで、お前がすぐにでも旅立つつもりだとわかったからな。そうしたら親父には『お前の人生だ、自分が思ったようにしろ』と言われた。おふくろも『頑張りなさい。食べ物と水にだけは気をつけて、お腹を壊さないように』って言ってくれた」
ディートは少し淋しそうに笑ってから、続けた。
「だから、もう戻らない」
「そうか。わかった。いつか、お前が保安官を、お前の父さんを超えたと自分で思えるようになったら、その時は戻って来てもいいんだしな」
「ああ。いつになるかはわからないけどな」
「そうだな。でも、お前なら、きっとそうなれるさ」
カイがうなずくと、ディートはほっとしたように表情を緩めた。そして続けた。
「これからは知らない土地に行くんだ。だったら、一人より二人のほうがいい、そう思わないか?」
「違いない。収穫祭の踊りと同じだな」
カイが右の拳を突き出す。昨日、保安官事務所の前で心の中で描いたように。ディートはそれに自分の拳を打ちつけた。カイが思っていたよりも力強く。
二人が話している間に夜はさらに明けていき、東の地平線から太陽が昇ってきた。遮る物のない峠の上で、朝日が二人の顔を照らす。
「カイ、眩しいな」
「ああ、眩しい。お日様って、こんなに眩しかったんだな」
「これほどに明るくて、それでいて、はっきりと見ることができない。まるで俺たちの未来のようじゃないか」
「そうかもしれないな。俺は、今まではあの雲のようだと思っていたけどな」
カイが指さす空に浮かんだ綿雲の色はもう白い。西風に乗り、東へ、王都プラウズベルグスタートの方角へと飛んでいく。
「それもそうだな。あの雲が飛んでいく方向へ、あの日が射す方向へ、か」
「ああ。行くとするか」
二人が顔を見あわせ、ふっと笑ってから一歩を踏み出した。追い風に煽られたマントをまとわりつかせながら、力強く歩く。波打つ草だけに見送られ、遥かに見下ろす平原に向かって山道を下っていく。
光の方角へ、明るい未来へと歩いていった。
魔法使いと剣士の卵 ーうすら笑いと仏頂面のカイとディートの物語ー 花時雨 @hanashigure
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