終章 光の方へ、雲のように

第28話 水汲み

 オーガ退治は終わった。カイもディートフリートも体中に擦り傷や軽い打ち身はあったが幸い大怪我はなく、翌日には二人ともほぼ普通に動けるようになった。


 それとともにヒツジ泥棒騒ぎも収束した。

 保安官たちがオーガの死体の付近を捜索すると、そう遠くない場所でバイスの剣や衣服の残骸、そして彼とヒツジの遺骸の一部が発見された。


 保安官はディートフリートとカイからオーガ退治の顛末を聴きとると、バイスの犯行も含めて、すべてを町長に報告し、助手のバイスの不始末の責任を取って直ちに辞任することを申し出た。

 だが、町長は町民からの信頼が厚い保安官がいなくなるのはよくないと判断し、なんとか丸く収めることを提案した。

 すなわち、ヒツジ泥棒はおらず、勝手に逃げ出したヒツジがオーガを呼び寄せてしまった。牧童上がりだった保安官助手のバイスは誰よりも早くヒツジの失踪の真相に気づき、穏便に済ませるために独断で単独捜索を行ったところでオーガに遭遇してその爪牙にかかってしまった。そしてその後を追ったディートフリートとカイが見事に仇を討った、という筋書きだ。


 保安官は難色を示したが、町長に強く説得されてやがて受け入れた。

 ディートフリートとカイも、とくに異存はなかった。バイスがなぜヒツジを盗み出しカイに罪を着せたのか、それは結局わからなかったが、カイにしてみればバイスと直接話したことは殆どなく、死んでしまった今となっては彼に思うことは何もなかった。

 町民たちも牧場主も町に運ばれたオーガの巨大な死体を見てただ恐怖におののき、自分たちの命が無事でよかったと、ハンスがカイに渡した呼び出し状のような細かいことは誰も詮索しなかった。


 その後、町の保安官や助手全員、保安官の門人や商家の用心棒たち、牧場の牧童といった腕っぷしに自信のある者が総出で山狩りを行ったが、カイとディートフリートが斃したオーガの足跡をたどっても高山へと消えてしまっていてどこから来たのかはわからずじまいだった。結局、どこか遠い場所から流れてきたのだろうということになり、またそれ以外の魔物やその巣や痕跡も発見されず、当面の危険は無いものと結論された。


 そしてバイスの死は職務を全うしての殉死となり、町の恩人として葬られた。


 ディートフリートとカイはそれ以上の英雄となった。

 カイが魔法を使ったことは保安官には話したが、町長への報告の際には二人の頼みで伏せられた。希少な魔法使いは目立ちもするし、奇異の目で見られもする。それを知っている保安官は叔父一家の中でのカイの微妙な立場を考慮して「わかった」と受け入れた。

 そのため、オーガとの闘いではカイはただの囮として走り回っただけで、斃したのは主にディートフリートの手柄だということになった。

 ディートフリートは親友の扱いが低くなると不服だったが、カイにしてみれば魔法を除いてみればまさにそのとおりなので不満はなく、それを見てディートフリートも納得した。


 ディートフリートとカイは表彰のために町長に招かれた。

 カイは町長の執務室へ行く前にその娘のベレニケに捕まえられ、「折角だから綺麗にしてから町長の前に出ましょう」と、オーガの火球で焦げた髪の毛を短く綺麗に刈り調えられた。刈り終わって鏡を見せられた時には、父親似だとディートに教えられた耳を久しぶりに見て、少しせつなくなった。


 町長からは、二人に称揚の言葉を授けられるのとともに報奨金も与えられたが、カイは付き添いで来た叔父に「これまで世話になっていたお礼」と言って全額を渡してしまった。叔父は嬉しそうな顔で望外の収入を受け取ったが、町長と立ち合いの保安官に白い眼で見られているのに気づくと、慌てて一部を小遣いとしてカイに返した。

 その夜だけはカイの食事も叔父一家と同じく豪勢なものになったが、数日のうちに元に戻ってしまったらしい。


 翌日の午後、叔父が一家で嬉しそうに出かけた後に、一人で残っていたカイが保安官の所に呼ばれた。

 まだ事情聴取の続きがあるのか、あるいは魔法のことを詮索されるのかと及び腰で事務所に出頭したが、実際にはまったく異なった。


 カイはディートと二人で並ばされ、かなりの額の金を渡された。

 保安官は、カイは報奨金を叔父に渡してしまうだろうと予想して、町長に依頼して報奨金の一部だけを前日に先渡ししてもらい、残りはカイが自分で使えるようにと「このお金は絶対に誰にも渡さず、必ず自分のために使いなさい」という言葉を添えて後から渡したのだ。

 ディートにも同じ額が渡され、二人はいつものように拳を打ちつけ合って互いを祝った。


 その後に、保安官はカイに「保安官助手見習になる気はないか」と尋ねた。町のために働き町民の信頼を得れば、魔法を使うことが知られても奇異の目で見られることはないだろうからと言って。

 だが、カイは断った。彼にはもう心に決めていることがあった。




 その日の夕方、先に家に戻っていたカイのところに、叔父一家が帰ってきた。

 ミエリがカイのいる納屋の扉を大きな音を立てて開いて入ってくると、粗末な腰掛けに座ったままでいるカイの前に仁王立ちし、着ていた新しい服をみせびらかした。


「どう? 今日買ってもらったばかりなのよ。似合ってるでしょ?」


 そう言って長いひらひらしたスカートの裾を舞わせながらくるくると回る。


「中身がいいから、何を着ても似合うんだけどね」

「ああ、そうだな」


 カイが以前と同じようにうすら笑いを顔に浮かべて返事をすると、ミエリは満足そうにした。


「そうでしょ。ま、当然よね」


 そしてまたカイに向かうと腰に手を当て背を伸ばして立って見下ろす。


「まあ、あんたも役に立つことがあるのね。たまたまでも、よかったわね。そうそう、あんたのその髪、今度伸びたら、あたしがもうちょっとましに切ってあげるわ。この服のお返しは、それだけだから」


 そう勝手に言い捨てて出て行った。

 カイがそれを見送って肩をすくめていると、入れ替わるようにこれも新しい服を着たギエリが入ってきた。


「おい、カイ。おふくろが、台所の水が足りないってよ。さっさと井戸から汲んで運んどけよ」


 カイの顔を上から見下しながら言う。


「……お前がやればいいだろう」


 カイがつぶやくようにぼそっと洩らした言葉を聞いて、ギエリは「何だと?」と目をつり上げた。

 カイはそれを見て、つい声を強めた。


「もともと、お前の仕事だったんだ。お前が言われたなら、お前がやればいいじゃないか」

「俺様に逆らう気か?」


 ギエリの返事が怒気を含んだ。


「おい、オーガ退治に一枚かんだぐらいで、偉そうにすんな。お前なんか、どうせ保安官の息子の後ろで逃げ隠れてしてただけだろ、この腰巾着が」


 そしてひときわ強く声を張り上げた。


「誰のおかげで生きてられると思ってんだ!」


 ああ、またか。

 ギエリが怒鳴る言葉を、カイは胸の中でため息を吐きながら聞いた。こいつに、そしてこいつの母親に、何度も何度も言われた言葉だ。もうたくさんだ。

 カイの体内に冷えた褐色の魔素が渦を巻き始める。握り締めるのをこらえる手に魔力が集まってくる。

 それを知らずに、目の前ではギエリが勝手なことをまくし立て続けている。


「お前なんか、親父とおふくろのお情けで家に置いてもらえんだ。俺が水汲みなんかしたら、この新しい服が台無しになんだろうが。いいか、俺が親父たちにひとこと言えば、お前は宿無しだ! それを黙って見逃してやってんだ、この恩知らずめ! お前を育てるために、親父とおふくろがどんだけ苦労したと思ってんだ! ほんのちょっぴりの報奨金で足りると思ってんのか! お前なんかがどんだけ働いても取り返せないぐらいだ!」

「だったら、働かなくても同じだな」

「ふざけるな! また痛い目にあわせてやろうか!」


 ギエリは右手でカイの襟首を掴もうとした。だが、その手は中途半端に突き出されたところで宙に留まった。カイが受け止めようとして左手を上げたのだ。


「そうだな。じゃあ、痛い目にあわせてもらおうか。オーガよりは歯ごたえがあるんだろうな」


 カイが目を細めて低い声で返しながらゆっくりと立ち上がる。

 ギエリは手を引っ込めて一歩後退あとずさった。


「そ、そんな脅し文句で、お、お、俺様が怯えるとでも思ってんのか」


 震える声でなおも凄む。


「いいや、思ってない。どうせただの脅し文句なんだ。やればいいじゃないか」


 カイは冷ややかな声で答えると、「さあ」と言いながら左足を前に出した。固く握った右手を少し引き、今にも突き出さんばかりに構える。

 ギエリはまた一歩、二歩と後退った。その膝ががくがくと揺れているのを知って、カイは少し哀しくなった。拳をほどき、手を下ろす。

 それを見てギエリがほっと息をついて肩を落とした。


「お前のことなんか、もう知るもんか! 勝手にしろ!」


 そう捨て台詞をすると、後ろを見ずに走り去っていった。


 カイはその後ろ姿を見送ると、自分の両手を見た。

 溜まっていた土の魔力を、あいつにぶつけることができたら、この濁った気持は晴れただろうか、と考える。

 そんなことはないとわかっていた。そんなことをしても、今より酷いことになるだけだ。魔法も拳も言葉も同じだ。人にぶつけて腹いせにするためにあるものじゃない。


「はぁっ」


 カイはため息をついた。


 結局、この家の誰かが水を運ばなければならないのだ。

 そしてこの家にいる限り、その役割は俺が果たすことになるのだ。オーガを倒そうが魔法が使えようが、関係ない。


 カイはまた顔にうすら笑いを取り戻すと立ち上がって外に出て、水を汲み上げるために井戸に向かった。




 それから二週間、カイは畑仕事の暇を見て、町でこまごまと買い物をした。

 物を買うなど、これまでほとんどしたことがない。そもそも、大きな金を持ったことがなかった。小さいころに、使いに出された先でもらった駄賃の小銭を溜めて、祭の屋台で駄菓子を買ったのがせいぜいだったのだ。


 靴や服や食糧、そしてカンテラなど、必要なものをおそるおそる求めては、うすら笑いを顔に浮かべて金を渡す。


 だが、カイのそのおどおどした様子など誰も気にせず、彼自身もすぐに慣れた。

 たとえディートフリートのおまけ扱いではあっても、彼もオーガ退治の英雄なのだ。今さら父親のことをどうこう言われることもなかった。

 報奨金の一部を叔父から渡されたことも町に伝わっていて、金の出どころを怪しむものもいなかった。


 やがて準備は整った。

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