第26話 オーガ

 ディートは呼子を取り出して空高く吹き鳴らした。

 だが、それにこたえて吹き返す音は聞こえてこなかった。他の地区の保安官たちは、もう自分の担当区域の奥深くまで入っているころだ。叫び声を上げようが笛を吹こうが届かない所にいるのだろう。


「カイ、逃げろ。保安官に知らせるんだ」


 ディートは友を逃がそうとした。

 死ぬのは一人で十分だ。自分が闘っている間に逃げ切ってくれれば、後の始末は親父がなんとかするだろう。


 だが、同意は返ってこなかった。


「いや、俺は逃げない。お前が行け。お前のほうが足が速い」

「いや、だめだ。俺は保安官助手見習だ。お前を守る義務がある」

「そんなことどうだっていい! 俺はお前を死なせたくない、死なせるわけには行かない!」

「それは俺だって同じだ!」


 二人が言い争う間にも、オーガは一歩、二歩と近づいてくる。そのたびにその姿が大きくなる。

 もう距離は40ヤードもない。


「逃げても俺の足じゃあ、追いつかれるかもしれない。ばらばらになって一人ずつやられるより、一緒に戦ったほうがましだろ? 保安官も言っていたじゃないか。『離れるな』って」

「覚悟はいいんだな?」

「ああ、もちろんだ」

「わかった」


 立ちつくし、つぶやくような小さな声で話す二人を見て、恐怖で動けずにいるとでも思ったのだろうか、オーガは「クワン」と高い鳴き声をあげた。『そこで待っていろ、いま食ってやるから』とでも言わんばかりに。

 だが、ディートが静かに腰の剣を抜くと、その声は低いうなり声に変わった。「グルルル」と喉を鳴らしながら前のめりに姿勢を低くする。二人の認識を『獲物』から『敵』に変えたのだ。


「カイ、お前は武器がない。とりあえず、俺の後ろにいてくれ。隙があれば、使える魔法で援護を頼む」

「おう」


 ディートが二歩前に出てオーガに正対し、両手で持った剣をまっすぐに構える。カイはその後ろから友の肩越しに魔物を観察した。

 オーガは「グワーッ!」と大きく咆えると、両足を大地に踏ん張り、拳を握り締めて両腕を曲げ、肘を広げて高く持ち上げて頭上で両方の拳を打ちあわせている。盛り上がった筋肉をこちらに見せつけようとしているのだろうか。バイスが持っていたはずの剣は見当たらない。刃物を使うような知恵は持ちあわせていないようだ。あるいは、己の肉体さえあれば、それ以上の武器は必要ないということだろうか。


 オーガが「ガッ、グワーッ!」とまた咆える。

 だが、その声に慣れてきた二人はもう動揺を示さない。示威行動も咆声ほうせいも効果がないと知ると、オーガは実力行使に出ることに決めたのだろう、両手をだらりと下げ、「ゲッ、ゲッ」と何かを言いながらこちらに向かってゆっくりと歩き始めた。


「ディート、あいつの顔につぶてをぶつける。隙ができたら前に出てくれ。だめなら、左に回って距離を取ろう」


 カイがディートにささやいた。「わかった」という返事を聞きながら、魔素を練り始める。オーガにさとられないようにディートの大きな体の後ろに隠れ、土の魔素を魔力に練り上げて三つに圧縮し、鋭くとがらせて固めて右手に宿らせる。

 相手の虚を突くのが重要だから、長い呪文や大きな身振りは禁物だ。

 魔物との距離が10ヤードほどまで近づき、相手が次の一歩のために右足を上げた瞬間に、カイはディートの右に出た。


飛礫キーズヴェルフェン!」


 叫びながら右手を振って放つ。

 放たれた三つの石礫はオーガとの間の短い距離を一気に飛ぶ。二つは外れたが、一つがオーガの頬に突き刺さった。


「くそっ」


 カイが毒づく。赤い不気味な目を狙ったのだが、当たらなかった。

 だが、いきなり襲った顔の痛みに、オーガは「グゲッ」と悲鳴を上げてのけぞった。頬に手をやり、刺さった石礫を抜こうとする。

 ディートがその機に乗じて剣を振りかぶりながら前に出た。それに気がついたオーガは後ろに大きく飛び退いて距離を取ろうとする。


「そうはさせるか!」


 ディートはなおも間合いを詰めようとしたが、そのとき、急にオーガの腹に赤い光が灯った。


「ディート、待て! 下がれ!」


 カイの警告の声とともに、ディートが足を止める。

 オーガの腹部の赤光しゃっこうが激しく明滅する。するとオーガが右手を高く掲げた。その手に炎がともり、丸く膨らんでいく。


「火魔法だ! 気をつけろ!」


 カイが叫ぶのに一瞬遅れてオーガがこちらに向けて右手を振り下ろした。その手に込められた魔力は大きな火球となってこちらに目がけて飛んでくる。


「よけろ! 左だ!」


 ディートが叫ぶ。二人は左に跳び、頭から転がった。

 的を失った火球は二人がいた後ろの樹の幹に当たると焦げ跡を残して消えた。

 オーガが悔しそうに「ゲゥッ、ゲゥッ」と声を上げる。二人が火球を受けて燃え上がる姿を思い描いていたのだろうが、そうはならなかった。


「カイ、大丈夫か?」

「おう、大丈夫だ」


 体術を身に着けているディートはきれいに回転してすぐに立ち上がったが、そうでないカイはあちらこちらに擦り傷を受けた。幸いに大きな怪我はなく、体に着いた土や枯葉を払い落としながら応じた。


「魔法を使う奴とは、ますます厄介だな」

「あいつも同じように思っているかもな」


 急いで態勢を立て直した二人の向こうで、オーガの脾腹ひばらのあたりがまた鈍くゆるやかに明滅している。魔素を魔核に蓄積しているのだ。おそらく魔核は背中側にあるのだろう。

 オーガは頬に手をやり、まだ刺さったままになっていた石礫を引き抜くと地面に投げ捨てた。傷口から紫色の血が流れ出し、それを舌で舐め取るとひときわ高く叫び声を上げた。その怒りに身を任せて、二人の方にまた進んでくる。その足はさっきよりも少し遅く慎重だ。視線はディートに据えられており、再び石礫を喰らわないように、顔の前で拳を組んでいる。

 今度は似たような手は使えないだろう。


「カイ、奴の狙いは俺だ。合図をしたら先に左に逃げろ」

「わかった」


 ディートはオーガが数歩の距離にまで近づき、十字に組んだ拳を解いて振り上げるのを見計らって合図を出した。


「カイ、今だ!」

「おう!」


 オーガは、カイが左に走るのに見向きもせずに、ディートの頭上に右拳を振り下ろす。ディートが一歩下がってそれをかわすと、今度は左拳を横ざまに振り回した。

 だが、それが空を切ったときには、ディートはもうカイの所に走り去っていた。

 オーガがこちらに向き直り、悔しそうに「ゲッ、ゲッ」とうなるのを聞きながら、二人は言葉を交わした。


「どうする?」

「石礫が刺さるんだ、剣も効くだろう。だが、魔核を突くには背後に回る必要がある」

「二手に分かれるか? 俺が釣っている間に、お前が後ろから剣で狙うのはどうだ?」

「それは危険だぞ。あの力だ、一撃でもくらうとまずい。互いに助けられる位置にいたほうがいいんじゃないか?」


 だが、話がまとまるよりも早く、オーガがまた襲ってきた。カイが魔力を練るいとまがない。

 二人は再びオーガの拳を避けて走り、距離を取った。


 カイが提案した。


「目くらましをやろう。砂の煙幕を張る。その間に背後に回れるか試そう」

「いいだろう」


 友の同意を聞いて、カイは土の魔素に気を集めた。魔力を練り、砂の幕がオーガを取り巻く光景を頭に描く。

 だが、カイが魔法を放つ前に、オーガの腹部が激しく明滅した。今度は挙げた両手に、そして角にも炎が宿る。


「まずい、あいつ、連発してくるぞ!」


 ディートが警告を叫ぶと同時にオーガが両手を振った。

 放たれた二つの大きな火球は二人の左右に迫る。


「外れる! 動くな!」

「おう!」


 二人が動きを止めた瞬間に、オーガが角から三つ目の火球を放った。

 今度は真正面から飛んでくる。最初の二発は二人の動きを止めるための牽制だったのだ。

 まずい、避けることができない。

 カイはとっさに魔法を切り替えた。すでに練った土の魔力の使い道を変える。


防護土障エルトバリエル!」


 叫びながら両手を振り上げて空中に方陣を描く。たちまち大地から立ち上がった土の壁は間一髪間に合って、オーガの火球を遮った。

 だが、安堵して逃げるのが遅れた二人の前に、いきなりオーガの拳が土壁を砕いて現れた。

 オーガは魔法を放つや走って間合いを詰め、土壁の向こうから狙いもつけずに横ざまに振ってきたのだ。

 その拳は慌てて構えた剣ごとディートを薙ぎ払った。狙いをつけない探り打ちで、さらに土壁に勢いを殺された一撃だったが、それでも虚を突かれたディートは吹き飛ばされ、受け身を取れないままに転がった。剣は手を離れて遠くに飛ばされたのか見当たらない。


「ディート!」


 カイは急いで倒れた友に走り寄った。

 呼吸はある。だが、頭を打ったのか意識がない。


「ディート、しっかりしろ!」


 揺すってみても反応はない。

 振り返れば土壁はすでに消え、まだ残る砂煙の中からオーガの姿が現れた。

 有効打を与えた喜びか、天を仰いで「グォーッ!」と雄叫びを上げたあとにこちらを見た。剣を構えていた面倒そうな男が倒れているのを見てにたりと笑っている。


 あいつをディートから引き離さなければ。

 カイは立ち上がると、左へ走った。だが、オーガはカイの動きはちらっと見ただけで、視線をディートに戻した。

 まずい。なんとかこちらに意識を向けさせないと。


 オーガの体がまた光る。用心して、離れたところから火球を放ってディートにとどめを刺そうというのだろう。あの薄い本を書いた著者のアルヴィセントという奴、何が全知アルヴィセントだ。『知能が低い』なんてでたらめを書きやがって。十分知恵が回るじゃないか。

 だが、そうはさせるか。


 カイは急いで魔力を練ると、火をともし始めたオーガの角に向けて放った。


抗火水弾ゲーゲンヴァッサー!」


 飛び出した水の塊は狙い違わずに命中し、蒸気を上げながら炎を消し去った。

 妨害されたオーガは憤ってカイをじろりと見ると、邪魔者を取り除くのが先だったかと向き直った。


 これでいい。カイは少し安堵した。

 このままあいつをこっちに引きつけるんだ。

 ディートがくらったのは砂煙の中を探りながらの一撃だった。それほどの威力はなかったはずで、たぶん、大けがはしていないだろう。だが、打ち所が悪かったのか、ディートは転がったままで、まだ動いていない。

 意識を取り戻すまで、俺がなんとかしなければならない。俺があいつを守らなければ。


 カイはふと母親のことを思い出した。


 きっと母さんもこんな気持ちだったのだろう。自分がどうなろうとも、仲間を見捨てて逃げ出すことはできない、と。


 でも、少しは父と自分のことを思い出してくれただろうか。


 いや、今はそれどころじゃない。

 よそごとを考えている場合ではないと、母への思いを振り切った。


 どうすればいいのか。ディートを逃がすためには、あいつが意識を取り戻すまで、なんとかオーガの意識をこちらに惹きつけ続けて足止めしなければならない。

 だが、自分がこれまでに習得した魔法では、ろくに攻撃できない。

 火と風の魔法はまだ使えない。水の魔法では、まるで攻撃力がない。

 石礫は、もう相手が警戒して当たらないだろう。砂嵐で目を眩ませても、こちらへの興味を失うかもしれず、こちらからも相手の様子がわからなくなってしまう。

 じゃあ、どうすればいい? 何か、新しい手を考え出して。ぶっつけ本番でもなんでも成功させてみせなければ、ディートを守ることはできない。何をすれば、どうすればいい? 


 カイは必死になって今までの経験を思い起こした。

 物心ついてからの記憶が、次から次へと脳裏をよぎって消えていく。だが、幼いころのことなどほとんど憶えていない。叔父の家に引き取られてからは、単調な畑仕事や家畜の世話の繰り返しだ。鮮明な記憶は、そのことごとくがディートと殴り合ってからのことばかりだ。

 感慨にふけりそうになって、カイははっと我に返った。ディートと自分の命の瀬戸際に、こんなことをしている場合じゃない。だが、オーガはまだ動かずにいる。どうやら自分はほんの一瞬の間に一生を振り返ったらしい。


 カイは心を決めた。ただ一つ、使えそうな記憶を反芻する。


「ふん」とオーガに嗤ってみせながら右手を前に出し、立てた人差し指を二度三度と折って招いてみせる。


「グガッ」


 挑発に乗ってオーガがこちらへ一歩踏み出した。

 遠くへ放っては、魔力も効果も弱くなる。少しでも引きつけるんだ。

 また一歩、こちらへ来る。二種の魔素を別々に練り、純化する。

 もう一歩、起こすべき光景を頭に描き、焼きつける。

 あと一歩、両手を回して、二つの魔力をそれぞれに宿す。

 その一歩、オーガが拳を振り上げながら左足を出そうとした瞬間に両手で螺旋らせんの渦を描きながら叫んだ。


「捕らえ、留めよ、ヤードの深み! 拘束泥濘ドレックスペーレン!」


 両手から放った魔法は、オーガが力を込めて踏みしめた左足の下を黄青二色の光で輝かせた。黄光は大地を砂に変え、青光は水を生む。二光はすぐに混ざり合うと大地を深い泥に変えた。カイがはまり込みかけてディートに助けられたあの沼のように、砂の微粒子と水とが一体となって、すねまで潜ったオーガの脚を捕らえて放さない。


 オーガは不快そうな叫び声を上げ、ぬかるみから足を引き上げようとした。だが抜けない。深くはまった左足は簡単には動きもしない。オーガは地面の上にある右足に力を込めて、強く踏ん張ろうとする。そこを狙ってカイは再び両腕を振って「拘束泥濘ドレックスペーレン!」と叫んだ。

 たちまちオーガの右足も地中にぬぶりと沈み込む。それを見守るカイの息も荒く、目の前が薄暗くなっていく。体内の魔素が消耗しているのだ。あと、何度、魔法を打てるのか。

 ディートが起き上がる気配はまだない。


 オーガが再び叫びを上げる。今度の叫び声には怒りと焦りが滲んでいる。オーガは猛り狂って、両足を取られたままに右手を振り上げた。すぐ目の前で「(ディート、早く、早く逃げてくれ)」と祈るカイを目がけて、倒れ込むように拳を振り下ろす。


 カイは転がるように跳びのきながら、もう一度同じ魔法を放った。大きな魔法はもうこれが限界だ。魔素切れが近い。ふらつき始める頭を持ち上げて見ると、カイがいたはずの地面も泥沼と化し、オーガの右手を捕らえていた。


 カイにはその姿はもうおぼろげにしか見えなかった。必死に転び歩いてでき得る限りオーガから離れる。力が尽きて地面に体を投げ出すと、転がったまま身動きが取れない。めまいと頭痛と疲弊とで、体を起こすこともできない。


 その様子を見て、片手両足を大地に捕らえられたオーガが口角を上げた。嗤ったのか勝ち誇ったのかはわからない。

 残った左手を頭上に上げる。それとともに、オーガの腹部の魔核が鈍く明滅した。カイを狙って火球を打とうとしているのだろう、左手に魔力が込められ赤く光り出す。


 かわせるか、動く力が自分の体に残っているかはわからない。だが、最後の最後まで戦わなければ。ディートの時間を稼ぐために。心優しい親友を護り助けるために。


 必死にカイが眼を見開くと同時に、オーガが左手を振った。火球がカイの顔を目指してまっすぐに飛んでくる。

 だが、カイの体力はほぼ尽きていた。

 身を起こすことも転がることもできなかった。

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