第13話 人喰い沼

 あれから何日か経った日の午後のことだ。

 ディートが今日も剣術の自主練習をしようと町の外れに行くと、そこには彼を待っている若者がいた。もちろん、カイだ。カイはあれから毎日ここへ来て、ディートから魔法書を借りてただひたすらに読んでいた。

 ところが、一昨日に、「この本は十分に読んだからもういいよ。ありがとう」と言い、今まで読んだことを基に一人で魔法に取り組みたいからと、昨日は姿を現さなかった。

 それが、今日は来たということは。

 ディートはちょっとわくわくしながらカイに声をかけた。


「よう。調子はどうだ? できたのか?」


 カイはそれには応じず、きょろきょろと左右に首を振って近くに人がいないのを確かめてから低い声で尋ねた。


「ディート、どこか、人目に付かなくて、広くて火を使っても問題ない場所を知らないか?」

「火? できたのか?」


 ディートも声を潜めようとしたが、期待で目が輝き声がつい高くなるのは抑えづらい。

 しかし、カイの首は横に振られた。


「いや、まだだ。あの本を読み始めてから毎晩、それから昨日の午後もずっと、一人でこっそりと試してみた。まだ魔法にはならないけど、何かがこう、体の中に一杯になる感じはする」

「例の、『魔素を純化して魔力にする』ところまではできているということか?」

「わからないけど、ひょっとするとそうかもしれない。少なくともあと一歩のような気がするんだ。それで、魔力を実際に魔法にして放つのを広い場所で思い切り試してみたいんだけど、お前以外には見られたくない」

「そうだな」


 ディートにはカイの気持ちが理解できた。

 魔法に限ったことではない。自分の技術が未熟な間は他人に見られてああだこうだ言われるのは嫌なものだ。視線を感じるだけでも練習に集中しづらいだろう。

 それに魔法使いが一人もいないこの町だ。カイが魔法を使おうとしているということがいきなり広まったら、騒ぎになるのは目に見えている。カイが周囲から何を言われるか、わかったものではない。

 それに、もし火の魔法が暴発して町で火事でも起こしたら一大事だ。


 ディートは少し考えた後に提案した。


「良さそうな場所はある。少し遠いが、それでもいいか?」

「ああ、いいとも。人目を避けたいから、そのほうがいい」

「じゃあ、ついてきてくれ」



 ディートが先に立って歩きカイを連れてきたのは、町の南西の森だった。

 この森は、人の役に立つ木が少なく、町の人間は近づかない。鬱蒼と茂る樹の枝葉をくぐり森の奥深くに入ると、開けた場所にちょっとした大きさの沼があった。石を投げても向こう岸には届かなそうなぐらいの広さはある。

 その岸辺の広い砂地に立って、ディートはカイに聞いた。


「ここでどうだ?」


 カイはディートに肩を並べながら答えた。


「ああ、申し分ない。こんなところがあったんだな。知らなかった」

「そうだな。ここはいわくがあって、町の人が近づかない」

「いわく? どんな?」


 そう尋ねるカイに、ディートは肩をすくめて答えた。


「つまらない話さ。ここは『人喰い沼』と言われているんだ」

「『人喰い沼』?」

「ああ。この沼自体が生きた魔物で、一歩でも足を踏み入れると捕まえられてどんどん引き込まれ、やがて頭まで飲み込まれて二度と帰ってこられない、そういうつまらない怪談だ」

「本当か?」

「いや、ただの作り話だろうな。だが、随分と昔に、この森にいい木はないか探しにきたきこりが、足を滑らせてはまり込んで溺れ死んだらしい。他にも死人が何人か出て、もうこの沼には誰も来なくなったそうだ。お前も、沼の中には入るなよ」

「へえ」


 カイは返事をしたが、話を聞いて興味を持ったのか、無造作に水辺に歩み寄った。

 砂地にカイの足跡が深く刻まれていく。何の気なしに底を覗こうと水の上に顔を出す。

 沼の水は澄み、その底も岸辺と同じく一面に粉のように細かい砂地になっている。藻も水草も生えていない。その中を小魚が素早く泳ぎ過ぎていくのが見えてカイが身じろいだときだった。


「あっ」


 いきなりカイの足元の砂地が崩れた。

 ディートが「気をつけろ!」と叫ぶ間もなく、カイはバランスを失って体を泳がせ、前に、沼の中に右足を一歩踏み込んでしまった。たちまち細かい砂が舞い上がり、沼の水は一瞬のうちに褐色に濁って、踏み込んだ足が見えなくなった。ただ、ぬぶぬぶと沈みこんでいく感触だけが伝わってくる。

 カイは慌てて足を抜こうとしたが、沼の底に深くはまり込んだ足の裏も甲も足首も泥に強固に吸いつかれて離れない。全身に嫌な汗が一気に流れる。ともすればすねにまで泥の触覚が這い上がってくる。力を入れようとしてもかえって踏ん張った左の足元までが崩れ始め、体重が沼のほうに掛かってあわや倒れそうになったとき、カイの体がぐいと引き戻された。

 ディートの力強い手がカイの腕をつかんで支えたのだ。


「動くな! 力を抜け!」


 ディートの声に、カイはぴたりと体を止めた。


「ここの泥は粘りついて、力ずくでは抜けないんだ。俺が支えているから、足の力を抜いて細かく振れ。泥を少しずつ、洗い落とすんだ」


 カイは黙ってディートに言われたように、泥に取られた右足を震わせる。最初はほとんど動かせなかった足がすこしずつ揺らせるようなり、その後はすぐに自由が利くようになってずぼっと抜けた。

 右足を陸に引き戻し、半ば倒れるように砂の上に腰を落として「はあっ」と大きく息をついた。


「喰われるところだったな」


 真面目な顔のままでディートが言う。カイがむっとして見上げて睨んでも、ディートは気にするでもなく続けた。


「『人喰い沼』といっても、別に沼が生きているわけでも魔物が棲みついているわけでもない。砂がとても細かいだけだ。見てみろよ」


 ディートが二人の前の岸辺を指差す。カイが見下ろすと、確かに粒も見えないような細かさで、さっきまでカイが立っていた足跡は深くえぐれて水がじわっとしみ出している。


「この砂に水が混じるとねばねばの泥になって、足を速く動かそうと強く力を入れれば入れるほど、逆に引っ張られて態勢を崩してしまうんだ」

「そうだったのか」


 カイは、沼に踏み込んだときに足にまとわりついた泥の何とも言えない触感を思い出して、気味が悪くなった。確かに、『何かの魔物が水底にいて引っ張られた』と言われたら信じ込んでしまいそうだ。

 カイが黙り込んでいると、ディートが手を伸ばしてカイの腕をつかんで立ち上がらせた。


「ま、水辺に近づかなければどうっていうことはない。噂のせいで誰も近づかないから、魔法でも剣術でも、秘密の鍛錬がし放題だ」

「お前もここで鍛錬しているのか?」

「人に見られたくないときにはな。例の踊りの練習もここですればいいかもな。さ、さっさと始めるとしようか」


 そう言ってディートは水辺から離れていった。カイも首を振りながらのろのろとその後に続く。

 さっきのことはしばらく忘れられそうにない。足に粘りつく泥の触感だけではない、踏み込む前の澄んだ水も、踏み込んだ後の濁りの色も目に焼きついて消えそうにないと思いながら水辺から離れていった。

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