第5話 カイの両親

「いってえ……」


 カイはうめいた。

 右頬がずんずんと痛い。眼をぎゅっと閉じて顔をしかめる。仮面のように張りついていたうすら笑いはどこかへ飛んで行ってしまった。頭がくらくらして持ち上げられない。陽射しが瞼の裏を赤くし、顔から汗が流れるのを感じる。それでも寝ころんだままでじっと動かずにいると、痛みはすぐに引いてきた。幸い、骨や歯が折れた感じもない。

 たぶん、ディートフリートはかなり手加減してくれたのだろう。そうでなければ、この大男が力一杯殴ったのであれば、自分が大けがをせずに済むわけがないだろう。

 頭のふらつきも治まってきたので目を開けて体を起こすと、ディートフリートも横で脚を投げ出して座り込んでいた。


 ディートフリートはカイが殴った腹と頬を両手で撫でさすっていたが、カイがもぞもぞと動き出すと声をかけてきた。


「カイレム、大丈夫か」


 殴られた相手に気づかわれるのも変なものだ。

 カイはそう思ったが、素直に返事をした。


「ああ。何とかな」

「そうか。それはよかった。ここは日差しが暑い。あっちの木陰へ行こうか」


 ディートフリートはそう言うと顔と腹を撫でるのをやめてカイが立ち上がるのに手を貸し、黙って肩を並べて歩いた。

 さっきまでディートフリートが木剣の素振りをしていた木陰に着くと、二人は向かい合って座り込んだ。

 ディートフリートはあぐらを組んだ両膝に手を置き、身を乗り出してカイの顔をじっと見つめてから口を開いた。


「お前のおふくろさんのことだが」

「ディートフリート、もういい」


 母親のことを蒸し返されそうになって、カイは思わずさえぎった。紛れていた怒りがまたよみがえりそうになる。


「もういいんだ、ディートフリート。殴らせてもらったんだから。もういい。頼むからやめてくれ」


 立てた膝の間に顔をうずめ、両手で頭を抱える。

 カイのその様子をディートフリートはしばらく黙って見ていたが、やがて静かに声をかけた。


「いや、違う。そのことじゃない」

「違う? 何が違うんだ?」


 カイはまた冷えていきそうな心を抑え、顔を腿に埋めたままで尋ねた。


「お前のおふくろさんを侮辱するような話じゃない。聞いてくれないか? 俺は、親父から聞いて知っているんだ。おふくろさんが亡くなったいきさつも関係する話だ」

「何だって?」


 カイは驚いて顔を上げた。

 自分自身もよく知らない母親のことを赤の他人のディートフリートが知っているなんて。どういうことだ。


「落ち着いて聞いてくれるか?」

「……ああ」


 カイは一つ深呼吸をしてから答えた。答えた後に、また深呼吸を繰り返す。冷えかけた心を何とか抑える。

 そのカイの様子を見ながら、ディートフリートは慎重に口を開いた。


「俺が知っているのは、親父に聞いた話だけなんだがな。知っているか? 俺の親父は、昔、お前の親父さんと親友だったそうなんだ。親父さんがこの町を出て王都に行く前は、とても仲が良かったらしい。剣術の腕前も同じぐらいで、好敵手だったそうだ」

「……いや、知らなかった。父さんは、そんな話は全然していなかった」

「そうか。俺の親父も、俺には何度か話をしたきりだからな。親父が言っていたが、カイレム、お前はお前の親父さんによく似ているそうだぞ」

「そんなわけはないだろう。顔も、髪も目の色も違うんだぞ」


 カイは思わず反射的に言い返した。お世辞か取り繕おうとしたのか知らないが、あまりに的外れでかえって腹が立つ。

 だが、ディートフリートは首を横に振った。


「いや、そこじゃない。耳の形がそっくりだそうだ」

「耳?」


 カイは聞き返しながら耳に手をやった。切る暇が無く伸びた髪に埋もれてしまって見えない耳など、普段は気にしたことがない。

 髪の毛をかき分けて耳を探っていると、ディートフリートが今度は首を大きく縦に振って答えた。


「そうだ、耳だ。親父が言うには耳の形は親子で伝わりやすいそうだ」

「知らなかった。そういうものなのか」

「ああ。保安官が言うことだから間違いない。お前は間違いなく親父さんの子だ」


 耳をつかんだカイの手に力がこもる。ディートフリートは簡単に言葉を返してから話を続けた。


「それで、お前の親父さんがお前を連れて町に帰ってきた後に、何度か会って話をしたそうだ。親父さんが俺の親父を避けて、その、酒場に入りびたりになる前のことだな。お前も俺もまだ小さかったから、お前が知らないのも無理はない」

「そうか」

「それで、そのときに、この町に帰ってきた事情も少し聞けたそうだ。その話だ。続けてもいいか?」


 尋ねられて、カイは迷った。

 あの飲んだくれの父親が語ったことだ。本当の話かどうかはわからない。それに、いまさらでもある。

 だが、眼の前で返事を待っているのは、その表情どおりのこの上なく真面目な男だ。俺の耳が父親似だというのも、保安官が本当に言っていたのだろう。

 こいつは、いい加減な話をして傷つけようとか、適当なことを言って慰めようとかする男じゃない。たぶん、以前から機会を待っていて、今なら自分の話に耳を傾けてくれると思ったのだろう。


 カイは首を縦に振った。


「ああ、ディートフリート、話してくれ」


 その答えを聞いて、ディートフリートも顔の緊張をゆるめた。上がっていた眉が下がり、目尻が少し下がる。そしておもむろに立ち上がるとカイの隣に座り直してから話し始めた。


「お前の親父さんが国軍の士官だったことは知っているな?」

「ああ。もちろんだ」

「そうか。お前のおふくろさんも国軍に所属していたことは?」

「そうなのか?」


 カイは驚いて尋ね返した。

 そんなことは、父親から一度も聞いたことがなかった。父親自身の話もほとんど聞かされていなかったのだ。

 父親は、時折は、昔使っていたらしい剣を取り出してきてその柄や鞘を愛おしそうに撫で、酒をあおっては、『軍にいた時はよかった。まだあいつも生きていた時はよかったんだ』と繰り言をしていた。そんなときにはカイは、迂闊なことを言って父親の気にさわって怒鳴られるのを恐れて、寝床に潜り込んで毛布を被っていたのだった。

 いま、その剣は父親の形見として衣装櫃チェストの底に収まっている。カイは父親が酒に酔いつぶれる姿を思い出したくなくて、取り出してみることもない。もう一つの形見である父親が使っていた折り畳みナイフも引き出しに入れたままだ。


 カイの様子を見ながら、ディートフリートは慎重に言葉を選んで話し続けている。


「ああ、そうなんだ。お前の親父さんは若いときにこの町を出て、軍に入るために都に行った。町長の推薦状を持って行ったので、入隊試験を受けるのに問題はなかったそうだ。そして優秀な成績で合格した。剣術であっという間に五人抜きしたそうだ。そして軍の第一大隊に配属された。そこでお前のおふくろさんと出会って結婚したらしい」


 そこまで語るとディートフリートは顔をカイに向けた。カイの濃銀色の瞳がこちらに向けられるのを待ち、その視線を自分の緑の目でしっかりと捕らえた。


「カイレム、おふくろさんは、同じ第一大隊所属の魔法使いだったそうだ」


 カイの眼が大きく見開かれた。


「魔法使いだって?」


 それだけを絞り出したきり、カイは口を半開きにしたままに言葉を失った。


 驚くのも無理はない。

 魔法使いは希少だ。もちろんこの町には一人もおらず、話に聞くだけの存在だ。国全体でも少ないはずで、しかもその大抵は、少しばかりの火や水を出してみせることができるだけで、大道芸人と大して変わらない。国軍や王宮に仕える魔法使いの中には強力な魔法を使える者もいるとは噂されているが、まさか、自分の母親がその一人だったとは、と。


 二の句を継げずにいるカイに、ディートフリートは前に向き直りながら穏やかに答えた。


「ああ、そうなんだ。しかも優秀な魔法使いだったそうだ。だが、しばらくして軍の組織変更があって、魔法使いは一つに集められて独立した隊になった。人数が少ないので効率的に運用するためと、それから魔法使いの秘密と安全を守るためにらしい。なにしろ貴重で、よその国から狙われやすいからな。お前が知らなかったのもそのせいかもな」

「そうか」


 カイはまだ驚きながらも、何とか言葉を返した。ディートフリートは大きく呼吸をして息を継いでから続ける。


「で、そのころにお前が生まれた。お前のおふくろさんはお前を産むために隊から離れていたんだが、一年ほどして、お前の世話を人に頼んで復帰した。そしてしばらくは何事もなく過ぎた。何年間かは、な」


 ディートフリートの声が急に硬くなり、言葉が切られた。首を振ってカイの顔を見る、その動きが重々しく、表情も硬い。

 おそらく、この後は厳しい話になるのだろう。カイは覚悟を決めて無言でうなずき、続きを待った。


「……それは、あるとき、お前の親父さんが隊の演習でしばらく王都を離れたときのことだったそうだ。

 演習から帰ってくると、家にはお前と、お前の世話をしてくれていた人しかいなかった。おふくろさんはどこへ行ったのかとその人に聞くと、何も言わずに出て行ったらしかった。ただ、親父さん宛の短い手紙が残されていて、『極秘の任務でしばらく戻れない』とだけ書かれていたそうだ。魔法使いの部隊が極秘任務に就くことはそれまでにも時々あって珍しくなかったから、そのときはお前の親父さんはどうも思わなかったそうだ。

 だが、それから二週間ほど後のことだった。おふくろさんの遺品だけが戻ってきたのは。お前の親父さんはおふくろさんの上官や同僚に、どういうことなのか必死になって尋ね回った。だが、任務の内容は極秘で、詳しいことは誰も教えてくれなかったそうだ。どこへ、何のために行ったのかもな。

 ただ、戦った相手は魔物だったらしい。おふくろさんは傷ついた戦友を魔物の魔法から守ろうとして大きな魔法を連発して懸命に戦って、疲れ切ったところを狙われたらしい。庇われた戦友の人が、それだけを教えてくれたそうだ」


 ディートフリートはカイの母親の最期を一気に話すと、手を伸ばしてカイの腕を掴み、語気を強めた。今度は自分の一言一句がカイのに落ちるのを確かめながらつなげていく。


「カイレム、お前のおふくろさんは、お前の親父さんを裏切るような人じゃない。後ろ暗いことをしたりしていない。その逆だ。仲間をかばい、自分を投げ出して助けようとした人だ。偉い人なんだ」


 ディートフリートの手の力は強い。つかまれた腕からその熱が伝わり、カイの頭が熱く、顔が赤くなっていく。肩が震え、眼がしばたたかれ、慌てて膝に顔が埋められるのを見て、ディートフリートは目をそらして空を仰いだ。手はカイの腕を強くつかんだままだ。


 しばらくしてカイの肩の震えが収まるのを待って、ディートフリートはぽつりぽつりと言った。


「親父は、自分が言うよりも齢が同じ俺から言ったほうが、お前の心の耳に届きやすいと思う、と言っていた。それまでは、お前が酷い目に遭わないように気をつけてやれとも言われた」

「そうだったのか。ディートフリート、これまで、俺が誰かにからまれたら助けてくれてたのはそれでだったのか」


 どうにか顔を上げられるようになったカイも一言一言をかみしめるように言う。


「ああ」

「そうか。ありがとう」


 カイがしみじみと言った礼の言葉に対する返事はあっさりとしたものだった。


「いや、それは気にしないでくれ。これでも保安官助手見習だからな。揉め事を見たら、それが誰であっても止めるさ」


 それを聞いて、『こいつは強いやつだ』と、カイはそう思った。

 俺のように、今を嫌っているのに何をするでもなくうじうじとしているわけではなく、自分のやるべきことを知っていて、そこに向かって進んでいる。たぶん、早くから、大人になろうとしているのだろう。

 こいつのようになれれば。

 強くなれれば、誰に何を言われても気にしないようになれるだろうか。そして、こいつのように大人になれれば、一人でも生きていけるようになれるだろうか。

 考えているうちに、カイの口から言葉がこぼれ出た。


「強くなりたい」

「え? 何だって?」


 意識せずに出た言葉だったが、一度口にしてしまえば、その続きはもう以前から準備してあったように次から次へと流れ出た。


「強くなりたいんだ。ディートフリート、頼みがある」

「何だ?」

「俺も剣術や体術を習いたい」

「俺の親父に弟子入りしたいのか? それは俺ではなく、親父に直接言えよ」

「いや、お前の父さんに習うには、それなりの謝礼が必要だろう? 俺にはそれは払えない。お前が教えてくれないか?」

「俺がか?」


 ディートフリートが驚いて問い返す。

 カイはディートフリートにまっすぐに向き直ると、頭を深く下げた。


「頼む。今日みたいな手が空いている日に、少しだけでもいいんだ。後は自分で練習する」

「それはできなくはないが…… なぜだ?」

「強くなりたいんだ。とにかく強く。少しでも」

「今日みたいにからまれないためにか? それならもう大丈夫だと思うぞ。お前が俺を殴り倒したのをあいつらが見ていたからな。たぶん、町の皆に言って回るだろう。むしろこれからは、皆の方がお前を怖がると思うぞ」

「いや、そうじゃない。俺は、できるなら、自分で稼げるようになりたい。今みたいに叔父さんの手伝いをして、養われて生きていくのは嫌なんだ。強くなれれば、父さんのように軍に入ったり、それがだめでも傭兵になったりできるだろ? 自分の力だけで生きていけるようになりたいんだ」


 カイの言葉に熱がこもる。ディートフリートにとっても、誰かからこんなにもまっすぐに将来の希望を打ち明けられたことはこれまでになかった。


「そうか。それはわかる」


 ディートフリートは力強くうなずいた。


「わかるんだが……」


 しかし、その後の言葉は濁した。曇った顔が、引き受けたくないことをはっきりと表している。


「嫌か? じゃあ、仕方がないな……」

「嫌なわけじゃない」


 がっかりしてうなだれたカイの言葉を、ディートフリートは急いで強く打ち消した。


「嫌じゃないんだが……」


 それでも再び言葉を濁す。ディートフリートの煮え切らない態度にカイはちょっとむっとして、強く問い返した。


「嫌じゃないんだったら、どうしてだ?」

「わかった、言うよ」


 ディートフリートは両方の掌をカイに向けて優しく押さえるような仕草をしてなだめた。そして、できる限りの柔らかい声で続けた。


「気を悪くしないでくれよ? こう言っては悪いんだが、あれだ。たぶん、お前には剣術や体術は、その、向いていないんじゃないかなと、まあ、そう思うんだ」

「……俺には素質がないということか?」

「はっきり言ったほうがよければだが、まあ、そのとおりだ。俺の見立てでは、見込みは、まるでない」

「本当にはっきり言う奴だな。もうちょっと、こう、言い方ってものがあるんじゃないのか?」

「すまん」

「いや、まあ、そのとおりだろうけどな」


 カイは口をとがらせて文句を言ったが、ディートフリートが頭を下げるのを見ながら、こいつの言うとおりだろうな、とも思った。

 さっきも、こいつが無防備でいてくれたから殴れただけで、その後は拳が当たる気がまったくしなかった。殴るというよりもむやみやたらに腕を振り回しただけで、まるで子供が大人にじゃれついているようだと自分でも呆れていたのだ。

 やっぱり、俺はだめなんだ。


 思わずうすら笑いに戻ってくすっと自嘲を洩らしてしまったカイを見ながら、ディートフリートは思わぬことを言い出した。


「それよりも、お前なら、剣士よりも魔法使いになったほうがいいんじゃないか?」

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