第4話 諍い

「お前、誰の子だ?」


 母親を中傷されて、カイの頭に血が逆流した。さっきまで顔に浮かんでいた薄笑いが消え、血相が変わる。


「何だと?」


 一度蒼褪あおざめた後に赤くなっていく無表情なカイの顔と冷たい声に、暴言をした以外の周囲の少年たちは息をのみ、一歩二歩と後退っていく。


「もう一度言ってみろ」

「お、おう、言ってやる! お、お前の母ちゃん、淫売女!」


 真っ青になった少年は叫ぶなり、身をひるがえして逃げようとした。だが、そうはできなかった。

 半ば無意識に動いたカイの手が少年の腕を捕らえた。振りほどこうともがく少年を引き戻すともう片手で襟首をつかむ。残りの連中はすでに逃げ去り、遠く離れたところからこちらの様子を窺っている。


 カイが冷え切った声でつぶやくように言った。


「母さんの悪口は許さない」


 少年は破れかぶれで、カイの小さな声に被せるように金切声を出す。


「へん、だったらどうしようってんだ。オレだけじゃない、みんなが言ってんだ。お前の母ちゃん、よその男と逃げ出して」

「いい加減なことを言うな」


 カイの声が少しずつ大きくなっても、少年は叫び続ける。


「いい加減なもんか! 町の大人も言ってんだって! お前の父ちゃんを捨てて逃げ出して、その挙句に逃げた先で死んだって! それでお前の父ちゃんは飲んだくれになったんだって!」

「黙れ」

「黙るもんか! 何度でも言ってやる! お前だって、父ちゃんの子じゃないだろうって! 『カイは父親に全然似ていない、どこの馬の骨の落とし種かわからない』って、みんな言ってんだ!」

「この野郎」


 カイの顔が真っ赤になった。だが、煮えたぎっていた頭は急に冷え始めた。

 これまでに父親のことで悪口を言われたことは多かった。飲んだくれだの、酔いどれだのと。従兄妹のギエリやミエリにも何度も言われた。働きもせずに酒場に入りびたりで、酒に溺れて死んだようなものだから、ある意味、本当のことだったから、どう言われても仕方がないと聞き流していた。

 だが、母親のこととは。


 この町で以前にささやかれたカイの母親の噂はろくでもないものばかりだった。

『浮気女』『あばずれ』『夫とカイを置き去りにして間男と逃げたあげくに、逃亡先で死んだ』

 カイの父親に何も告げずに家を出てどこかわからない場所で亡くなり、遺体も返ってこなかったためにそう言われた。カイの父親はそれを無視していたが、妻の話をされると飲酒の勢いが増す様子を見て、そうに違いないとますますかまびすしくなった。

 やがてカイの父親が亡くなり、しばらくたつと母親の噂話をする者も減っていった。だが、その残滓ざんしはいつまでも消えずに残っているのだ。この悪ガキどもも、町のどこかでそれを耳にしていたのだろう。


 カイの手と言葉が震えた。


「こうしてやる」


 相手の胸倉をつかんだ左手に力が入る。少年は何とか逃れようと暴れるが、普段、叔父の家で当たり前のように力仕事をさせられているカイは見た目よりも力が強い。相手の足が宙に浮きそうなぐらいに持ち上げると、右の拳を固めてふるおうとした。


 だが、報復は果たせなかった。二人の間に横から割り込んできた者がいたのだ。


「よすんだ」


 大きな体でカイを遮り、振り上げられた拳をてのひらで止めながら落ち着いた声でそう言ったのは、ディートフリートだった。

 彼はカイと同じ齢だが、保安官である父親から剣術や体術を幼いころから習っているうえに、普段から良いものを食べているのだろう、並の大人よりも背が高く筋骨逞しい。

 保安官助手見習として父親の手伝いをすることもあり、町の住民からも一目置かれているほどだ。


「ディートフリート、邪魔するな」


 カイが低い声でうなってもディートフリートは動じない。落ち着いた声で応じる。


「カイレム、話は聞こえた。だが、年下に拳をふるうなど、やっていいことじゃあない」

「こいつは母さんを侮辱したんだ。このままじゃあおけない」

「そうだな。だが、それでも暴力が許される理由にはならない」


 ディートフリートはそう言って、息絶え絶えで声も出せなくなっている少年の胸倉を握り締めているカイの左腕を取った。

 軽くひねられると、たまらず手から力が抜けて少年が放たれた。

 少年はそのまま地面に崩れ落ちた。首が半ば締まっていたようで、「げほっ、げほっ」と赤い顔で咳き込みながら、地べたを這いずって二人のところから離れると、遠巻きに見守っている仲間たちの方へと逃げていく。後に残されたのは、ディートフリートと、その端正で引き締まった顔を睨みつけているカイだけだ。


「どうしてくれるんだ。ディートフリート、母さんを侮辱したあいつの肩を持つのか」

「いいや。あいつらには、後で謝らせる」

「そんなことで済むか! あいつが何を言ったと思ってるんだ! 母さんの名誉が、俺の気持ちがそれで済むと思うのか!」


 カイはさっきあの少年が言った言葉を思い出して再び煮えたぎる気持ちを、今、目の前にいるディートフリートにつかみかかりたくなる衝動を、必死に抑えて言った。それでもディートフリートの声は冷ややかなまでに落ち着いたままだった。


「カイレム、一発殴ればそれで気が済むのか?」

「ああ、何もしないよりましだ!」

「いいだろう、じゃあ、俺を殴れ。一発だ」

「お前は関係ないだろう!」

「さっき、あいつらに言っていたじゃないか。『ハンスの代わりに殴ってやろうか』と。お前がハンスに代わっていいのなら、俺があいつらに代わっても構わないわけだ。それとも、俺もお前のおふくろさんのことを何か言ったほうが殴りやすいか?」


 ディートフリートが真面目くさった顔を変えずに言った言葉に、カイは自分の中で真っ赤に猛り狂っていた怒りが、勢いだけはそのままに、何か褐色に濁った、冷えたものになっていく気がした。

 目の前の逞しい体、そして自分のより随分と上にある整った顔を見上げながら思った。

 所詮こいつは保安官の息子だ。揉め事が収まりさえすればそれでよいのだろう。俺の母さんの名誉など、俺の気持ちなど、どうでもいいのだろう。

 これまでに何度も助けてもらって、『こいつは、こいつだけは違う』と、そう思っていたのは自分の勝手な思い込みだったのだ。こいつも他の奴らと同じなのだ。


 体を巡る血が、赤く熱せられていたものが、黒く冷たく沈んでいく。こいつを殴っても仕方がない。それはわかっている。こいつの言うとおり、人を殴る理由にはならない。それもわかっている。わかり切っている。

 それでも、この心のおりはどうしてもこのままにしてはおけないのだ。


 カイは視線を下げ、両手を握った。固く握りしめた。心に溜まったものと拳とが石のかたまりになったように思えるまで。


 うつむいて黙り込んだカイを見て、ディートフリートが声をかけた。


「どうした? もういいのか?」


 煽るように聞こえる台詞。

 カイはちらっと見上げた。

 ディートフリートにはそんなつもりはないのかもしれないが、整った真面目な顔と冷静な声音がカイには余計に皮肉に響き、すでに満ちていたものを溢れ出させた。


「いいわけがない」


 うなる様に言いながら、カイは拳を引き上げた。

 ディートフリートの顔は、まともに殴るには高すぎる場所にある。カイは右ひじを引き、体が半身になるぐらいまでひねると、視線の先にあった腹を目がけて全力で突き出した。


『どんっ』という鈍い音。拳から伝わる、待ち構えていた分厚い筋肉の中に埋まる感触。それをカイが感じると同時に、ディートフリートが息とともに吐き出す声が聞こえた。


「ぐふっ」


 予想していた以上の衝撃を受けたディートフリートの腰が落ち、体が二つ折りになる。目の前まで下がってきた顔を狙って、カイはためらいなく左腕を振った。


 拳が頬にぶつかる『がつっ』という衝撃音に続いて、地面を『どうっ』と響かせて、ディートフリートの体がカイの目の前から消えた。


 まさか。

 カイの口がぽかんと開いた。

 鍛え上げたディートフリートの逞しく大きな体が、これまで殴り合いをしたことがない小さな自分の拳二発であっけなく倒れるなんて。


 驚きのあまり、冷えて凝り固まっていた怒りを忘れてカイが呆然と立っていると、ディートフリートがよろよろと立ち上がった。頭を二度、三度と振ると、態勢を立て直して両拳を顔の前に上げて構えを取る。口の中を切ったのか、唇の端からひと筋の赤い血が流れ落ちている。

 ディートフリートはそれをぺろりと舌で舐め取ってから口を開いた。


「カイレム、効いたぞ。やるじゃないか」


 相変わらず真面目な顔と冷静な声で言葉を続ける。


「だが、俺は『一発』と言ったはずだ。二発目の分は、お返しさせてもらうぞ」


 言いながら、構えた拳に息を『ふーっ』と吹きかける。


 そうはさせるか。

 カイはまたディートフリートの腹を狙って右拳を突き出した。だが、今度はさっきのようにはいかなかった。ディートフリートが肘をスッと下げると拳は簡単に防がれた。慌てて左拳を振っても、相手が軽く体をそらせば、空を切って虚しく流れてしまう。


「さっきの勢いはどうした?」

「うるさい!」


 カイは必死に両拳を振り続けたが、すべて簡単にかわされ、あるいは受け止められてしまう。普段、体術を真剣に鍛錬している者と完全な素人とでは、こうも違ってしまうのか。


 カイが腕を振るたびにその速さはどんどん落ちていく。やがては、腕を持ち上げるのもつらくなってきたときだ。


「終わりのようだな。今度はこちらの番だ」


 言うが早いか、ディートフリートは左手を軽く振った。

 カイは『あっ』と思ったが、防御の訓練などしたことがない上に疲れ切ってしまっているのだ。防ごうと上げた腕が間に合うはずもない。


 気がついたときには、カイは地面に横たわって「いってえ……」とうめいていた。

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