第3話 ディートフリート
カイが十七歳になってしばらく経ったある日のことだった。
彼はいつものように朝早くから、畑仕事やヤギの世話や叔父夫妻に言いつけられた雑用をこなしていた。
午後になって仕事が一段落して解放されると、ほつれの目立つ作業着のままで町外れの原っぱに出かけた。家にいては、また何を命じられるか、従兄妹のギエリやミエリに何を言われるかわからないからだ。
ギエリとミエリは、午前中は商人組合が開設している教室に通っている。授業料としてそれなりの費用が掛かるその教室に通えるのは、商人や職人の長男長女だけだ。読み書きも計算も、商人や職人の親方やその妻にはどうしても必要な技能なのだ。
命じられるままに働くだけの労働力にすぎない次男次女以下の子供は、朝から家の手伝いをさせられる。よほどの金持ちでもなければ、子供全員に教育を施すような贅沢はできない。時間のあるときに兄や姉に教えてもらって読み書きを憶えるような向学心のある子もいるのかもしれないが、そこまでして学んでも、それを活かす機会は片田舎のこの町にはなかなか無い。
当然、カイのような家の厄介者が教室に通わせてもらえるわけがない。午前中ずっと働くと、午後には教室から帰ってくるギエリたちと顔を合わせないように、家から出るようにしていた。
町の子供たちの多くが、午後になるとあちらこちらで連れだって遊んでいる。教室から帰ってきた長男長女も、午前中に家の手伝いをしていた次男以下の子も、そして教室など縁のない貧しい家庭の子供たちもだ。よほど貧しい家庭で十分に食べられず遊ぶ暇も元気もない子供は別だが、幸いこの町には、教会の施設に食べ物をもらいに行かねばならないようなそんな子供は少ない。
子供たちは町の広場や街路など、思い思いの場所で走り回り、追いかけあい、あるいは遊戯をして遊んでいる。
カイはそんな子供たちと関わり合うのが鬱陶しくて、昔からずっと、
あたりには、同じように一人でいることを好む者もいるようだ。
たとえば、あそこの樹の影の中で木剣を振って鍛錬に励んでいるディートフリート・シェールライフがそうだ。
引き締めた顔から汗を流してひたすらに素振りを繰り返している。木漏れ日が当たると輝いて金髪にも見える薄い栗毛色の短い髪に緑色の瞳の大きな目。対称性の良い整った顔立ちと高い鼻。要するに、右から見ても左から見てもいい男ということだ。
ディートフリートは子供のころから体が大きかったが、今ではそこらの大人よりもずっと背が高い。同じ年齢の中では小さい方のカイからすれば、見上げなければ顔が見えないほどだ。
ディートフリートの父親のデーニスは、町の、カイが住んでいる南東地区の保安官に任命されている。
ロズラムの町中から信頼を受けている名士である保安官の息子ということもあって、ディートフリートは町の多くの少女たちからきゃあきゃあと声を上げながらの憧れの眼で見られている。
本人はそういったことには一向に興味がないらしく、いくら声をかけられてもまともには取り合わない。むしろ、武術の鍛錬の邪魔をするとディートフリートの端正でいつも真面目な顔の眉間に
カイはディートフリートと話をしたことは少ない。
カイがこの町に来て、そして叔父の家に引き取られてからしばらくの間は、一人でいると、年齢が上の子供たちにカイの父親のことでからかわれたりからまれたりすることが何度もあった。
そんなときに、ディートフリートはいつも相手との間に割って入ってかばい、仲裁してくれた。保安官の息子だけあって正義感が強く、カイだけでなく、子供同士、若者同士の
体が大きく、どんなときにも冷静で真面目な顔を崩さないディートフリートが間に入ると、たいていの諍いは丸く収まった。そうでない場合もディートフリートが「わかった。俺の仲裁で不満なら保安官を呼んでくるから、両方とも静かに待っていてくれ」と落ち着いた声で言うと、揉めていた者たちはぶつくさと文句を垂れながらも散っていくのだった。
カイが年齢を重ねて大きくなり、からかってきていた連中も大人になってカイにからむような暇がなくなると、ディートフリートが仲裁に入る機会も無くなった。ディートフリート自身も保安官助手見習として、父親の下で少しずつ修行を始めている。
今では、この同じ原っぱで出会っても目顔でなんとなく挨拶を交わすだけだ。
保安官の息子でしかもその助手見習というのが居候身分でぼろぼろの服を着たカイにとってはなんとも
カイは相変わらず木剣の素振りを繰り返しているディートフリートから目を離すと、両手両足を広げて草の上に寝そべった。
つまらなく青い空を見上げ、淡々と何事もなく流れていく白い雲を何とはなしに眺める。そして考えるでもなく思いをただ巡らせる。
雲のように自由にどこへでも行ければ。いや、あの綿雲だって、自由に動いているわけじゃない、風に流されているだけだ。じゃあ、その風はどこからどうやって吹いているのだろうか。
子供が喜ぶ昔話のとおりに、精霊が自分の思うがままに吐く息が風となって空気を、そして雲を押し流していくのだろうか。
……などととりとめもないことを考えていると、騒がしい声が聞こえてきた。
カイは起き上がって声の方を見た。少年たちが集まってはしゃいでいる。……いや、違う。
何人かのこのあたりでは見かけない少年が、ひとりの小さな子供を取り囲んで何かを言っているのだ。町の離れた地区の連中が遠征してきたのだろうか。
よく見ると、取り囲まれているのはハンスだった。
ハンスは仕立て職人の次男だが、赤ん坊のときに大きな病気にかかってしまった。何とか命には関わらずに回復したのだが、その後遺症か、大きくなっても言葉をしゃべれないままになってしまった。七歳になった今も変わらない。ただでさえ教室に通えず読み書きができないうえに言葉も不自由なため、両親は仕事を手伝わせるのも諦めて、一日中自由にさせている。
ただ、本人には悪気があるはずもなく、あちらこちらと歩き回っても悪戯などせずに、町の誰かに何か言われてもいつもにこにこと笑っているような子供だ。
だが、その態度がかえって気に
どうやら今も、ハンスが言い返さないのをよいことにして取り囲まれているようだ。ハンスの顔に今も消えずに残っているあばたのことを、口汚い、文字にできないような言葉で大声で罵っている。
カイはそれを聞いて嫌な気分になった。
カイは「(面倒だな)」と思った。
放っておこうか。放っておけば、いずれディートフリートが気づいてやめさせるだろうし。
木陰で木剣の素振りを続けているディートフリートの方をちらっと見ると、随分と熱を入れ集中しているようだ。それを中断させるのも気の毒な話だ。
「(以前には、俺もあいつに何度もかばってもらったしな)」
心の中でつぶやいて、カイは立ち上がった。
揉め事の輪に早足で近づいていくと、悪ガキの中で一番体の大きいやつが、ハンスを
「何をニヤニヤ笑ってんだ! 文句があるなら、何か言ってみろ!」
無茶な話だ。ハンスは喋ることができないのだ。それに気づくほどの分別もないのだろう。
「俺たちを馬鹿にしてるなら、こうしてやる!」
悪ガキの手がハンスの服を掴もうと伸びる。
だが、その手は寸前で別の手に当たって止まった。カイが横から伸ばした手だ。
「やめな」
悪ガキどもが一斉に邪魔者の方を見る。
カイはできるだけ落ち着いた静かな声を出そうと努めた。自分を助けてくれたときのディートフリートの声を思い出して、真似をしようとする。
顔もディートフリートのような真面目さを取り繕おうとしたが、そちらはあまりうまくいかず、うすら笑いを浮かべたままになってしまった。
「お前、そんなことを言ったら、殴られても仕方がないぞ」
カイは悪ガキを静かに
「へん、こんなチビに殴られたって、ちっともこたえないや! どうってことあるもんか!」「殴られたら殴り返してやる!」「そうだ、かえって都合がいいぐらいだ!」
「そうか」
カイはやれやれと思いながら応じた。声が硬くなりそうだったが、なんとかこらえる。うすら笑いの顔は、感情を隠すのにちょうどよい。
「じゃあ、ハンスの代わりに俺が一発殴るとするか」
そしてハンスの方を見る。
「なあ、ハンス、それでいいか?」
カイがそう言うと、悪ガキどもはぎょっとして一斉に後退りした。仲間たちの中で背の高低はあっても、全員がカイより小さい。こいつらはたぶん、何歳か年下なのだろう。カイも背は低い方だが、毎日の畑仕事で体つきはそれなりに
少年たちは一様に不服そうにしたが、カイがハンスに「どうだ?」と尋ねると、ハンスの胸をつかもうとした少年が「ふん、偉そうに! へらへらしてやがって!」と悪態をついてから「おい、行こうぜ」と言って
取り巻き連中もその後を追って走って離れていく。かといってどこかへ行ってしまうでもなく、それぞれに落ちていた木の枝を拾って剣術ごっこを始めた。こちらのことは忘れたかのように走り回っている。
後は好きなようにさせておけばよいだろうと思い、カイはハンスに向いた。
ハンスは何事もなかったかのように、相変わらずニコニコと笑っている。
「ここにいたら、またあいつらが何か言ってくるぞ。今のうちに、よそへ行け。しばらくの間、ここには来ない方がいい」
カイがそう言ってもハンスは変わらない笑顔のままだ。どうしようか、ハンスの家まで送り届けたほうがいいだろうかとカイが困っていると、ハンスはカイの右手を取り、両手でぎゅうっと握った後に、いきなり街中の方へと走り去ってしまった。
わかったのかわからなかったのかはわからないが、まあ
悪ガキどもはまだ走り回っている。
嫌な連中だ。子供も大人と一緒だ。弱い者を見つけるとあれこれと言って
そんな愚かな時間の無駄をせずに、自分のことをしていればよいのに。
けれども、今の俺も偉そうなことを言えたものではない。畑仕事が無い今も、こうやってごろごろしているだけだ。このままでは、大したものにはなれずに一生を無駄にして終えてしまうことになりそうだ。
もしも両親が生きて働いてくれていれば。ギエリやミエリにあれこれ言われずに、自分も教室で習うことができれば。自分で自分の身を立てることができるようになれれば、もっと違う暮らしができるかもしれないのに。
カイは考えても仕方がないのだとは思いながらも、またとりとめもないことを考え続けた。
「おい、起きろ」
しばらくして、カイは物音と人が呼ぶ声、そして肩に何かが当たったのに気づいてはっと目を開けた。知らないうちにうたた寝をしていたらしい。
「みっともない、汚らしい服を着て、間抜け面で寝てやがって」
カイが体を起こすと、周囲に数人の少年がいた。さっき、ハンスにからんでいた連中だ。すぐ横にいる者が声をかけ、手にした枝で肩をつついてきたのだろう。
「何だ?」
カイが低い声で返すと、中でもひときわ幼い顔つきの少年が周囲から押し出されて前に出てきた。
少年は顔を赤くしながら、高い、上擦った声で言った。
「お、お前、カイだろ」
小さい子供だ。悪ガキ連中のうちで一番背が低い。ハンスより少し大きい程度だ。たぶん、仲間内で一番の年下なのだろう。
「だから、何だ?」
カイが眉を寄せてその少年を見ると、少年はびくりと体を動かし、周囲をおどおどと見回した。だが、仲間たちに拳で小突かれ、「お前、負けたんだからな」と指でつつかれるとカイの顔を見上げ、じろじろと眺めまわしたあげくにゴクリと喉を鳴らしてから叫ぶように言った。
「お前、お前の父ちゃんの子じゃないんだって? 母ちゃんがどっかに行って作ってきたんだろう? お前、誰の子だ?」
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