第11章 試練
1493年が明けた。
去年は随分不在にしていたので、イザベラは失った時間を取り戻そうと、勉学と仕事の両面に精を出した。
イザベラは沢山の画家や彫刻家、音楽家、文人たちに、マントヴァへ来てくれるよう手紙を書いた。
イザベラは、自分自身魅入られているのかと思うほど芸術や文学を愛していたが、それとともにもう一つ大きな夢があった。マントヴァをヨーロッパの文化の中心にすることだ。
イザベラが初めてこのことを決意した時、フランチェスコは激励してくれた。イザベラは、あの雪の日のことが忘れられなかった。 あの時、大きく目を見開いてイザベラの言葉に聞き入ったフランチェスコの瞳を思い出すと、イザベラは新たな決意で胸がいっぱいになった。
マントヴァの宮殿のあちこちで、様々な芸術家が仕事をしていた。
彼らは何かあるとすぐにイザベラを呼んで仕事上の相談を持ち掛けた。イザベラは食事中も何度も呼ばれて立たねばならなかったし、何時間も話が長引いて、一つ終わればまた次という具合に一日中縛り付けられどおしだったが、こういう中にこそ生きがいを感じた。
また、イザベラはデメトリウス・モシュスを雇って、プルターク英雄伝などの大がかりな翻訳を依頼した。
さらにイザベラは、ユダヤ人の学識者に依頼して聖書の詩編を原典から翻訳してもらい、現在流布している訳に誤りが無いかを調べた。
3月、エリザベッタがやって来た。イザベラは、どんなにこの日を待ち焦がれたことであろう。去年も一年中エリザベッタに手紙を書き続け呼び続けた。
今年2月のカーニヴァルはエリザベッタが来ると信じて様々な準備をしていたのに、全て不意になってしまった。全てエリザベッタの病気のせいである。
それが今、本当にエリザベッタが目の前に立っているのを見ると、イザベラは泣いていいのか笑っていいのか分からないまま、涙が溢れた。
「3年ぶりね。すっかりお妃様らしくなって。」
イザベラは頬を染めた。
「おねえ様、あれからいろんなことがあったんです。」
イザベラはこの3年間のことを話しながら感無量になった。エリザベッタは奥深い微笑みをたたえて静かにうなづきながら聞いていた。
イザベラはエリザベッタを案内して宮殿中の新しい壁画や、芸術家たちの仕事場を見せて回った。エリザベッタが感心するたびにイザベラは子供の様にはしゃいだ。
数日後、イザベラは大変な話を聞かされた。 新大陸の発見である。
3月15日、コロンブスというジェノバ出身の船乗りが新大陸を発見して帰って来たというのだ。
イザベラは一瞬大地が揺れる様な気がした。
世の中が変わる。
世の中がどんどん変わっていく。
イザベラはそんな気がした。 自分は大変な時代に生まれてきたという思いでいっぱいだった。
ベアトリーチェに男の子が誕生したという知らせがミラノから届いたのは、それから数日後である。イザベラはベアトリーチェに手紙を書いた。
「私は今すぐ坊やを抱きしめ、キスを浴びせかけたくてたまりません。」
4月になってヴェネツィアからフランチェスコが帰って来た。そしてイザベラに、招待を受けたのですぐヴェネツィアに行って欲しい、と言った。
大国ヴェネツィアとの関係はマントヴァの存亡に関わる問題であり、18歳のイザベラは責任の重さを思うと押しつぶされそうな気がした。
5月の初め、イザベラは船でヴェネツィアに旅立った。
イザベラは、マントヴァのエリザベッタに手紙を書いた。
「おねえ様から離れて、独り川面を見つめていますと、心が闇に暮れ、自分は今どこにいるのか、何を望んでいるのかもわからなくなります。
私を哀れに思ってか、風も波も船に逆らい、マントヴァへと押し戻します。」
同じ日、エリザベッタも手紙を書いていた。天候は悪化し、自分は部屋を一歩も出ず、イザベラのいない部屋で半ば死んだ様な毎日を送っている、と。
5月13日、イザベラはフランチェスコの弟ジギスムントに付き添われてヴェネツィアに上陸した。
イザベラは、先ず行政長官の邸宅に案内され、非常に手厚くもてなされた。
晩餐の後、ヴェネツィアの貴族ピサノ、コンタリーニ、カペッロが統領からの歓迎の言葉を伝えた。この3人は、イザベラの結婚式に参列した人々である。
イザベラは、彼らに付き添われてフランチェスコのヴェネツィアの宮殿に行ってみた。
フランチェスコがヴェネツィアの総司令官として、ここで日々生活しているのかと思うとイザベラは胸がいっぱいになった。
翌朝早くイザベラはマラモッコの砦の間を通過して港に入った。
そこには、統領とナポリ、ミラノ、フェラーラの大使たちが待っていた。
「ここで私は上陸し、統領閣下と大使の方々にお会いしました。そして統領閣下の御手に接吻し、お互いに丁重な御挨拶を交わしました。その後、閣下は私を御自身の御船に御案内下さいましたが、そこには沢山の紳士淑女が私を待っていて下さいました。その93人の方々は美しく装われ、見事な宝石を付けていらっしゃいました。
私は閣下の横に座り、様々なお話を致しましたが、その間も船は歓迎の鐘やトランペットや銃声の鳴り響く中を大運河を遡って行きました。
ああ、殿、私がここでどれほどの熱狂的な歓迎と暖かい心尽くしを受けて居りますか、筆舌には尽くし難うございます。ヴェネツィアの石までが喜びに震えて私を歓迎してくれているかに見えます。 これは全て殿に対するこの国の人々の心の表れに他なりません。
明日は統領閣下と正式に会見致します。 私は全身全霊で、殿の御心をお伝え致します様、力の限りを尽くします。
殿が何度もいらっしゃいましたこの町の美しさを、私はとても表現することはできません。ただ、殿にとっても私にとってもヴェネツィアは今までに見た最も美しい町です。」
翌日、イザベラは40人の貴族に付き添われて議事堂へ行った。出迎えた統領はイザベラの手を取ると中央の席に案内した。
全員が席に就くとイザベラは立ち上がり、一礼した。
そして、澄んだ声で統領への言葉を述べ始めた。
「この様にして相まみえ、閣下への私の誠意と敬愛の念を述べさせていただけますことは誠に喜びに堪えません。
侯爵は日々、閣下との友愛の中に生き、そして死ぬことをのみ願って居ります。
侯爵も、我が国も、そして私も、貴国との親交以外に安んずる道はございません。」
議事堂は水を打った様になり、人々は皆イザベラの言葉に聞き入った。
天井の窓から差し込む光が壇上のイザベラの姿を暗い堂内に浮き上がらせていた。
イザベラの顔は蒼白く、黒い眼は大きく見開かれていた。
そして、その澄み渡る声は18歳の幼い響きを帯びていた。
言葉が終わっても、人々は動かなかった。
イザベラは壇上に立ち尽くしていた。
その時、不意に拍手が起こった。拍手はどんどん大きくなり、堂内に反響して窓を震わせた。
統領が壇上に駈け上がり、イザベラの手を握りしめた。統領の顔は紅潮し、目はうるんでいた。 イザベラは気が遠くなりそうだった。
イザベラは統領に案内されて様々な儀式に列席したり、教会や宮殿や法廷などを訪れた後、5月20日過ぎにマントヴァに帰った。
「おめでとう。 大成功だったんですってね。」
エリザベッタが駈け出して来た。 その後ろからフランチェスコが満面に笑みを浮かべて出て来た。 イザベラは思わず微笑んだ。
「お妃様、大変です。」
不意に執事が走って来てイザベラの袖を掴むや、ぐいぐい引っ張って行った。
「これは・・・」
イザベラは呆然とした。
「新しい顔料を実験的に使ったのですが、今来て見ると、こんな色に・・・」
リオンベニは頭をかきむしった。イザベラはそれから長時間かけてリオンベニと対策を講じた。
やっとイザベラが戻って来ると、フランチェスコの姿は無かった。イザベラはがっかりしたが、それでも夢中になってエリザベッタに旅の模様を語って聞かせた。
エリザベッタは、その一つ一つに目を輝かせ、まるで自分のことの様に喜んでくれた。 それがイザベラには何よりも嬉しかった。
翌朝、イザベラは朝食の最中にエリザベッタに言った。
「ねえ、おねえ様、後で『国家の間』へ来ていただけます? あそこの壁画の構図について相談に乗っていただきたいんですけれど。」
その時、フランチェスコが言った。
「僕が相談に乗ってやるよ。」
「まあ、有難うございます。 でも、こういうことはおねえ様が一番ですから。」
イザベラの言葉が終わらないうちにフランチェスコは立ち上がると、何とも言えない顔をして走って出て行った。
イザベラは、ちょっと悪かったかしら、と思った。
宮殿の壁画は、イザベラが少しいない間に見違える様な変貌を遂げていた。イザベラは、時々エリザベッタにも相談に乗ってもらいながら、以前にもまして芸術家たちの仕事場へ足を運んだ。
また、芸術家たちが相談のためにイザベラを呼ぶ回数も増えた。
イザベラは、この3週間の空白を埋めようと必死だった。食事中に呼ばれて帰って来ると、フランチェスコの姿は無く、エリザベッタだけが待っていてくれることもしばしばだった。
フランチェスコもこの頃忙しいのか、よく宮殿を空ける様になった。
イザベラはちょっとさびしかったが、エリザベッタがいてくれるのだからわがままを言ってフランチェスコを困らせてはいけないと思った。
「早くおねえ様に見ていただかなくちゃ。」
イザベラは小走りに階段を駈け上がった。フレスコが乾く前にエリザベッタに見て欲しいのだ。イザベラはエリザベッタの部屋の前まで来た。すると、中で言い争っている声が聞こえた。
「まさか、あのもの静かなおねえ様が・・・」
イザベラは、胸騒ぎがして耳を澄ませた。それはエリザベッタとフランチェスコだった。
「お兄様、テオドラの所へ行くのはやめて。」
「うるさい。 お前の知ったことではない。」
「お兄様は間違ってます。」
イザベラは、雷鳴に打たれた様な気がした。
やがて、イザベラはふらふらと部屋の前を離れた。
ストゥディオーロの窓からイザベラは湖を見つめていた。涙が後から後からこぼれ落ちて、頬を伝って流れた。
それっきり、フランチェスコは帰って来なかった。
イザベラは、とうとう病気になってしまった。決して深く眠れず、イザベラはまどろんだり目を覚ましたりを繰り返していた。
イザベラは泣きながらうとうとと寝ついてしまった。
何時間経ったことであろう。イザベラは熱くて目が覚めた。ふと見ると枕元にフランチェスコが座っていた。部屋の中には他に誰の姿も無く、灯も無く、夕方らしかった。
イザベラは涙が出て来て顔をそむけた。
フランチェスコは一歩も部屋を離れなかった。
そして全く無言で、時々気がつくとこちらを見ていた。
イザベラはフランチェスコと目を合わせない様にした。
次の日からエリザベッタまでイザベラの部屋に入り込んだ。そして、あのもの静かなエリザベッタが、と驚くほど、頻りに冗談を言った。イザベラは、とうとうつられて笑ってしまった。その途端、フランチェスコは満面に笑みを浮かべ、それから急に喋る様になった。イザベラは、怖い顔をしていようと頑張ったが続かなかった。
次の日も、その次の日も、フランチェスコは部屋を離れなかった。イザベラは、エリザベッタがいてくれるので助かった。二人っきりになったら、また沈黙してしまうことが分かっていたから。
エリザベッタはなおも冗談を言い続け、フランチェスコは子供の様にふざけたりはしゃいだりした。イザベラは、そっと目頭を押さえた。
「大変です、お妃様。」
突然、執事が飛び込んできた。
「壁画に大きなひびが入ったのです。」
「えっ」
「とにかく早くいらして下さい。」
イザベラはガウンを羽織った。
「イザベラ、行くな。」
フランチェスコが荒々しく手を掴んだ。
「行くんじゃない。まだ病気じゃないか。」
「もう大丈夫です。ちょっとですから。」
イザベラはフランチェスコの手を振り放すと、まだふらふらする身体に鞭打って廊下を伝い歩きながらリオンベニの仕事場へ行った。
「お妃様、申し訳ございません。御病気のところを。」
「いえ、大丈夫です。それより・・・」
「これなんです。」
イザベラはため息をついた。大きなひびである。
イザベラはじっと見つめ続けた。
「先生は、どうお考えになりますか?」
イザベラは苦しいのを忘れて必死で対策を講じた。
やっと目途がついたので、イザベラはまた廊下を伝い歩きながらそろそろと部屋へ帰って行こうとした。
食堂の前まで来た時、イザベラははっとした。
エリザベッタが、独り立ち尽くしているのだ。エリザベッタは食堂の横の裏玄関の扉を呆然と見つめ、体中が小刻みに震えていた。
イザベラに気づくと、エリザベッタはうつむいて走り去った。
寝室の扉を開けると、やはりフランチェスコの姿は無かった。
イザベラは力無くベッドに横になった。涙が目からこぼれ落ちて、枕の上に玉を成した。
「イザベラ、具合はどう?」
翌日、母がフェラーラからやって来た。イザベラは母の前では精一杯明るく振舞った。エリザベッタもまじえて三人で夜まで談笑した。
「ねえ、そろそろおば様にもお休みいただかないと。」
エリザベッタが言った。
「どちらのお部屋がいいかしら?」
「そうねえ。」
その時、母がイザベラに言った。
「私は今日はここで、貴女と寝たいの、昔の様にね。」
やがてエリザベッタはお休みの挨拶をして出て行った。
部屋の中は母とイザベラの二人だけになった。母は楽しげだった。
イザベラは、思わず目を伏せた。
「イザベラ、どうかしたの?」
不意に母の声が降って来た。
「イザベラ、貴女は今、泣きそうな顔をしていたわ。
何かあるのなら言ってちょうだい。」
母はベッドのへりに腰かけてイザベラの顔を見つめた。
「お母様、もうおしまいなんです。」
イザベラは、わっと母の胸に泣きついた。イザベラは、堰を切った様に泣き出した。
母は非常に驚いた様子だったが、それでも取り乱さずに静かに言った。
「何があったのか、全部聞かせてちょうだい。」
イザベラは泣きながら今までのことを全て話した。
母は暫く黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「ねえ、イザベラ、これは落ち着いて聞いて欲しいの。
今、貴女は運命の分かれ道に立っているのよ。
イザベラ、貴女は今日までよくやったわ。
マントヴァに来てまだ3年にしかならないのに、貴女がどれほどこの国の文化に貢献したか、それはフェラーラにもよく聞こえているわ。
いいえ、フェラーラだけじゃなくて、イタリア中の国々が目を見張っているの。
私は今日まで、そんな貴女の評判を聞くたびに嬉しさと誇らしさで胸がいっぱいになった。
でもね、イザベラ、貴女はそのためにフランチェスコ様に寂しい思いをさせなかったかしら?」
イザベラは身動きもせず一点を凝視していた。
「フランチェスコ様はね、子供の様に全身で寂しさを表していらっしゃるの。
フランチェスコ様はね、芸術に貴女を取られると思っていらっしゃるの。
病気の間、貴女が何処へも行かなくなったら、どんなにお喜びになったか考えてみて。
それを、あんなにお止めになったのを振り切って、貴女は仕事場へ行ってしまったの。
フランチェスコ様は、もうどうにもならない瀬戸際に立たされたお気持ちなのよ。
イザベラ、貴女はどこまでもフランチェスコ様を信じなさい。
あの方は、命がけで戦って勝ち獲られた神聖な優勝旗を貴女に捧げて下さった御方ですよ。」
うなだれて聞いていたイザベラの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
翌日、母は帰って行った。
夕方、イザベラは服に着替えると階下に降りて行った。
食堂の扉を開けると、エリザベッタが独りテーブルに就いていた。
「まあ、今、侍女たちがお部屋へお食事を運ぼうとしていましたのに。」
「私も今日からこちらでいただくことにしましたの。」
「嬉しいわ。 ずっと独りぼっちでお食事していたんですもの。」
イザベラは顔を挙げた。
「ごめんなさい、おねえ様。私、殿のお帰りを待とうと思うんです。」
エリザベッタは、イザベラの目を見た。イザベラには、その目が限りなく奥深い色に見えた。
「それでは、悪いけれど先にいただくわね。」
イザベラは、ほっとした。エリザベッタが気を使って、自分もフランチェスコの帰りを待つと言い出したらどうしよう、と内心案じていたのだ。
やがて食事を終えるとエリザベッタは立ち上がった。
「今年は例年になく気温が低いの。夜は底冷えがするから、気をつけてね。」
エリザベッタは立ち去り際にそう言った。イザベラは、その言葉のぬくもりに胸がいっぱいになった。
イザベラは、何時間も待ち続けた。
「お妃様、どうなさいますか?」
「皆さんは、構わずに休んでちょうだい。
今日は裏玄関の灯りは消さないでね。」
侍女たちは皆、行ってしまった。
イザベラは独り食堂の椅子に座って待ち続けた。
窓の外ではざわざわと木の枝が風に揺れる音がした。
夜が更けるにつれ、食堂はしんしんと冷えていった。
夜半になってもフランチェスコは帰って来なかった。それでもイザベラは待ち続けた。食堂は底冷えがして体は凍てつく様だった。
東の空が白んできた頃、不意に食堂の扉が開いた。振り返ると、エリザベッタが立っていた。
「まだ、待っていたの?」
エリザベッタは駈け寄った。
「冷たい手・・・」
エリザベッタは、イザベラの氷の様な手を自分の両手の間に挟んでさすった。イザベラは、後から後から涙がにじんで止まらなかった。
朝になっても、お昼になっても、フランチェスコは帰って来なかった。
夕方、食堂でイザベラはエリザベッタに言った。
「おねえ様、どうか先にお召し上がり下さい。私は殿のお帰りを待たなくてはなりません。」
「今日も待つの? この底冷えのする食堂で」
イザベラはうつむいた。
「心配なの。 貴女のお体が心配なの。 ゆうべだって私、一睡もできなかったわ。」
イザベラは静かに言った。
「有難うございます。 本当に有難うございます、おねえ様。
でも、私が救われる道は、これしか無いのです。」
イザベラは待ち続けた。燭台の蝋燭の火が時折りゆらめいた。
イザベラは、はっとした。足音が聞こえるのだ。遠くからこちらに近づいてくる足音が。 それは、重い、乱れた足取りであった。イザベラは、身を固くして聞いていた。足音はやがて近くで止まった。食堂の横の裏玄関の辺りであることがわかった。イザベラは、とっさに飛び出して行こうとしたが、体が動かなかった。
やがて足音は、また、もと来た道を引き返して行った。その遠ざかっていく足音を、イザベラは身じろぎもせずに聞いていた。
次の夜、イザベラは耳を澄まして待ち続けた。 しかし、聞こえるものは風に揺れる枝の音と、時折り飛び立つふくろうの羽音だけだった。
夜はしんしんと更けていった。
イザベラは、はっとした。
聞こえる。 あの同じ足音が。 時計を見ると、昨日と同じ時刻だった。
足音は、重くこちらに近づいて来た。イザベラは、息をひそめた。足音は裏玄関の前で止まった。イザベラは、体が金縛りになって動けなかった。
どれほど経ったであろう。不意に裏玄関の扉の開く音がした。イザベラは、我を忘れて飛び出して行った。
「殿、お帰りなさいませ。」
フランチェスコは顔を挙げなかった。イザベラは、構わずに話しかけた。
「お待ちしていましたの。お食事の支度が出来ていますわ。」
フランチェスコはうつむいたまま突っ立っていた。イザベラは、軽くフランチェスコの背中を押して食堂の中へ入れた。
イザベラが椅子を勧めると、フランチェスコは黙って座った。
イザベラは、フランチェスコのお給仕をしながら二人だけで食事をした。
朝になると、フランチェスコはまた出かけた。
それでも、フランチェスコは毎夜帰って来る様になった。 あの同じ時刻に。
そしてイザベラは、その足取りがだんだん速くなり、裏玄関の前に立ってから扉を開けるまでの時間が短くなってきたことに気がついた。
イザベラは毎日、真夜中に二人だけで食事をした。
初めのうちは笑みを絶やさない様にしながら出来るだけ静かに振舞っていたが、だんだんと楽しい話題を持ち出す様にしていった。
毎日ほとんど寝られないのでふらふらになったが、それでもイザベラはやめなかった。
フランチェスコはだんだん、イザベラが面白い話をすると笑みがこみ上げてくるのを隠さない様になってきた。 しかし、決して自分からは話しかけてくれないし、イザベラが何を言ってもぽつりぽつりと二言三言しか受け答えしなかった。 イザベラは、時折り情けなくなり途方に暮れたが、決して諦めてはいけないと思った。
ただ、こう毎日寝られなくては今に倒れるのではないかと、それが恐ろしかった。
或る夜、イザベラは瞼がじりじりと下がって来るのを必死でこらえていたが、とうとうテーブルの上にうつ伏して眠ってしまった。
はっと目が覚めると、鎧戸の隙間から曙の光が差し込んでいた。
イザベラは青くなった。フランチェスコは何処にいるのだろう。イザベラは、慌てて立ち上がろうとした。その時、イザベラは肩に何かが掛けられていることに気づいた。見ると、それはフランチェスコの上着だった。イザベラは体中が微かに震え、いつまでも立つことが出来なかった。
お昼頃、ストゥディオーロにエリザベッタがやって来た。
「まあ、おねえ様。」
「あの・・・明日の湖水祭りのことなんですけれど。」
湖水祭りは、マントヴァのお城を三方から囲む三つの大きな湖、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖に祈りを捧げ、恩恵に感謝するお祭りで、マントヴァの中でもこの地域だけに伝わる小さなお祭りだった。
エリザベッタは目を伏せて言った。
「実は私、明日は行けなくなりましたの。」
「えっ、お姉様と二人で行くのをとても楽しみに致して居りましたのに。」
「本当にごめんなさい。」
「おねえ様、何とかならないのですか?」
「それがどうしても駄目なの。 だから、ねっ、お兄様と一緒にいらしてちょうだい。」
エリザベッタはイザベラの目を見た。
イザベラはその夜、フランチェスコに言った。
「殿、おねえ様が勧めて下さいましたの。明日の湖水祭りに殿と二人で行く様に、って。
殿、いいですか?」
フランチェスコは
「ああ。」
とだけ言った。
早朝、もうお祭りは始まっていたが、まだ宮殿の中は寝静まっていた。
イザベラは食堂の横の長椅子に座ってフランチェスコが来るのを待っていた。もうすっかり用意が出来て、あとはフランチェスコが部屋から出てきたらすぐに出発である。
「どうなさったのかしら。 まだお洋服が決まらないのかしら。」
フランチェスコはなかなか現れなかった。
やっぱり行く気がしなくなったのかも知れないと思うと、イザベラは心が暗然とした。
「まあ、殿」
イザベラは立ち上がって目を丸くした。 やっと出て来たフランチェスコは、色とりどりの派手なフランス風の服に身を包んでいるのだ。イザベラは笑いがこみ上げてくるのをこらえながら
「とっても素敵!」
と言った。フランチェスコはうつむいたまま背を向けた。
その時、裏玄関の扉が激しく叩かれた。イザベラは慌てて開けに行った。
「あっ、お妃様。」
フェラーラに派遣した執事だった。
「実はアニキノ先生が明日から暫くヴェネツィアへお発ちになりますので、是非今日中に詳細な取り決めを行いたいとおっしゃっています。
つきましては、急ぎお妃様にお越しいただきたく、お迎えに上がりました。」
イザベラは、ため息をついた。
「本当に申し訳ないんですけれど、今日はどうしても無理なんです。
もう少しアニキノ先生にお待ちいただけませんか?」
「それが、どうしても今日でなければ、とおっしゃるんです。」
イザベラは、フランチェスコの背中を見た。
そして、執事の方に向き直るときっぱりと言った。
「それでは、そのお話、破棄して下さい。
折角お骨折りいただいて、誠に申し訳なく思います。
でも、皆さんにはお分かりにならないかも知れませんが、今日は私たちにとって本当に大事な日なんです。何物にも代え難いほどに。」
しかし、執事は言った。
「もうここまで御話が決まって、アニキノ先生も予定を組んで居られますのに、この期に及んでお断りしてはマントヴァの信用に関わります。」
イザベラは歩み寄ると、フランチェスコの背中に向かって言った。
「本当にごめんなさい。 でも、信用は命より大事です。
お祭りは明け方までやっていますから、それまでに必ず戻ります。
私が戻るまで待っていて下さいね。 それから二人で参りましょう。」
イザベラは気が気ではなかったが、執事と一緒に出て行った。
イザベラは、大急ぎで船に乗った。
「風よ、もっと吹いて。」
イザベラは船の上でも落ち着かなかった。
お昼過ぎにフェラーラに着くと、船着き場には馬車が迎えに来ていた。イザベラは船の上で考えておいた手順で手早くアニキノに説明しようとした。しかし、名人気質の彼は、暫くずっと黙り込んだり、気が済むまで一つのことを繰り返し追及したりするので、日頃はこの様な彼の姿勢を賛美してやまなかったイザベラも、今日は時計の針が気になってじっとしていられない気持ちだった。
日が暮れる。 日が暮れる。
イザベラは、窓の外に何度も目をやった。
やっと話が終わった時、空は茜色に暮れなずんでいた。
「イザベラ、もう少しゆっくりして行きなさい。」
急いで帰ろうとすると、父が呼び止めた。
「お姉様、もう帰るの?」
アルフォンソが言った。 母は黙っていた。
「お母様、私は殿と今日お祭りに行くお約束をしたんです。殿は今も私の帰りを待っていらっしゃるんです。」
「イザベラ、早くお行きなさい。」
「有難う、お母様。」
イザベラは走って馬車に乗り込んだ。
マントヴァに帰り着いた時は真夜中だった。イザベラは大急ぎで裏玄関から入った。
「あっ」
イザベラは立ち尽くした。
フランチェスコが食堂の横の長椅子で、大の字になって寝ているのだ。もう皆寝静まって、あたりに人気は無かった。フランチェスコは、朝見た時と同じ服のまま、子供の様な顔をして寝息を立てていた。イザベラの目に涙が光った。
燭台の光に照らされたその寝顔を、イザベラはいつまでもたたずんで見つめ続けていた。
ストゥディオーロは秋の日差しでいっぱいだった。
イザベラは、窓辺の机で母に手紙を書いていた。 この頃また体調を崩していると先週の手紙に書いてあった。イザベラは今も毎週母に手紙を書き、母も毎週欠かさずくれた。
イザベラは顔を挙げた。秋の湖は刻々と色が変わり、一時もとどまることは無かった。 そして、秋の空は何処までも澄み渡り、見つめていると吸い込まれて行きそうな気がした。
その時、フランチェスコが入って来た。
「イザベラ、今、フェラーラから使者が来た。お母さんの御加減が思わしくないらしいんだ。」
イザベラは驚いて立ち上がった。
「僕は今からフェラーラに行く。君は待っていなさい。」
フランチェスコの声には、思いやりといたわりがこもっていた。イザベラは何も言えずにうなづいた。
1493年10月11日フェラーラ公妃エレオノーラ永眠。 享年43歳。
国中が悲嘆に暮れ、すすり泣く声が満ち満ちた。
フランチェスコは、自分が帰るまで決してこのことをイザベラに知らせぬ様、固く命じた。
イザベラは独りストゥディオーロの長椅子に座っていた。その目は虚ろに窓の方へ向けられていた。
その時、静かに扉が開いた。 見ると、フランチェスコが立っていた。
フランチェスコは一歩部屋の中に入るとそのまま直立して動かなかった。 その顔は蒼白で、唇が微かに震えていた。
「知っているのよ。」
イザベラは、静かにフランチェスコの目を見て言った。
フランチェスコは蒼白のまま、力無くイザベラの横に座った。そして何か言おうとしたが、そのまま唇を震わせた。
「知ってるの。」
イザベラの目にみるみる涙が溢れた。
イザベラはフランチェスコの胸に泣き崩れた。
そして、いつまでもいつまでも泣き続けた。
フランチェスコは、何も言わずにイザベラの髪を撫で続けた。
イザベラは、やがて顔を挙げた。黒い瞳も長いまつ毛も涙に濡れていた。
フランチェスコは、初めて口を開いた。
「間もなく生まれる子供が女の子なら、お母さんの名前をつけよう。」
イザベラは、静かにうなづいた。
1493年12月31日、イザベラに女の子が誕生した。
侯爵家第一子御誕生にマントヴァの国中の鐘が鳴り渡り、祝砲がとどろいた。
そして、約束通り、その子はエレオノーラと命名された。
イザベラは祈った。
「お母様の名と徳が、この子の中に甦ります様に。」
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