第10章 すれ違い

或る日フランチェスコは、今年(1492年)の夏ミラノへ行ってもいい、と言ってくれた。イザベラは夢かと思った。

ベアトリーチェに会える。   ベアトリーチェに会える。

イザベラは毎朝自分の喜びの声で目を覚ました。


8月10日イザベラはミラノへの旅に出た。

しかし、船が途中まで来た時、イザベラはあまり喜び過ぎて帽子を忘れてきたことに気がついた。

「お妃様、今すぐ取りに戻ります。」

「でも、そんなの悪いわ。 もう、いいです。」

「いいえ、あれが無かったらお困りになりますよ。 

第一、マントヴァのお妃様がミラノへいらっしゃるのにお帽子が無くては。」

執事はちゃんと心得ていて、イザベラの一番弱い言葉を言って来た。「マントヴァのため」と言われるとイザベラが何も言えなくなることを知っているのである。イザベラにもそれが分っていて、黒い長持の鍵を執事に渡した。

「それでは、御言葉に甘えて。」

執事は相好を崩すと、馬でマントヴァに向かった。

執事がなかなか帰って来ないので気を揉んでいると、やっとミラノに着く直前に息せき切って駈け込んできた。汗びっしょりの彼の姿に、イザベラは頭が下がった。


船はミラノに着いた。船着き場にはロドヴィコとベアトリーチェが迎えに来ていた。

「お姉様」

ベアトリーチェが駈け出した。イザベラも我を忘れて駈け寄り、ベアトリーチェを抱きしめた。イザベラは涙が溢れてどうすることも出来なかった。

ベアトリーチェも泣いていた。

夏のミラノは太陽の光でいっぱいだった。

ロドヴィコとベアトリーチェがイザベラのために準備してくれた様々な催し、特に一連の劇は、隅々にまで二人の優しい心遣いが感じられ、イザベラは目頭を熱くした。

ミラノの人々の熱狂的な歓呼に、イザベラは感激で胸がいっぱいになった。

イザベラは、この一部始終をフランチェスコに書き送った。

「でも、私は残念でなりません。ここに殿がいらっしゃいましたら、この何倍も素敵だったに違いありませんから。」

イザベラは政治のことを書き送るのも忘れなかった。今回のミラノ滞在中に、ロドヴィコの弟である枢機卿アスカニオ・スフォルツァの強力な後押しによってアレッサンドロ・ボルジアがローマ法皇に選ばれたのである。ロドヴィコは、これを大変喜んだ。

フランチェスコからの手紙には、疲れているだろうが、招待を受けているので帰途ジェノヴァを訪ねて欲しいと書かれていた。


ベアトリーチェたちと名残を惜しみながらミラノを発ったイザベラは、10月1日ジェノヴァを訪問した。

ジェノヴァの長老アドルノと沢山の貴族たちが飾り立てられた馬に乗ってイザベラを出迎えた。その壮観に、イザベラは目を見張った。

その時、大変なことが起こったのである。

「私たちは夕方6時にジェノヴァの市内に入りました。あたりは鉄砲やラッパの音で騒然としていました。私は、クリストフォロ・スピロノ様の邸宅に案内されました。そこには、アドルノ様の奥様やお姉様、そして沢山の貴族の御婦人方が私を待っていて下さいました。

その時です。私が騾馬(らば)から降りないうちに、一群のただならぬ気配の人々がなだれ込んで来て私を取り囲み、やにわに騾馬のくつわを捉えたのです。アドルノ様が飛んで来て止めに入って下さいましたが、ものかわで、たちまち私の手から手綱を奪うと馬具をずたずたに引き裂いてしまいました。

私はとっさに判断し、抵抗しませんでした。これは最高の歓迎を表すこの地域の風習だったのです。

私はこんな恐ろしい思いをしたことはございません。何か起こらないかとはらはら致しましたが、幸い取り乱さずに済みました。

やっと解放されました時は、可哀想に騾馬が犠牲になって居りました。この騾馬はロドヴィコ様がお貸し下さったのです。ロドヴィコ様に馬具と騾馬の償いを致さねばなりません。」


イザベラは行く先々で熱烈に歓迎された。

そして、一か月にわたる滞在を終え、イザベラはいよいよジェノヴァを発とうとした。

その時、ミラノから急使が駈けつけベアトリーチェの急病を告げたので、イザベラは取るものも取りあえず慌ててミラノへ飛んで行った。

イザベラは、ベアトリーチェが回復したのを見届けてから、やっとマントヴァへの帰途に就いた。


マントヴァに帰り着くと、お城の前には沢山の侍女や執事たちが待っていてくれた。しかし、フランチェスコの姿は無かった。

「あまり長い間留守にしていたので、怒っていらっしゃるのだわ。」

イザベラはフランチェスコの部屋の前まで来ると、恐る恐る扉を開けた。

フランチェスコはこちらを向いて坐っていた。そして、イザベラの顔を見ると、すっかり青白く瘦せてしまった顔に子供の様な笑みを浮かべた。

イザベラは、思わず涙がこみ上げた。


帰りの船の中で気分が悪いと言っていた女官のベアトリーチェ・ディ・コントラリの容態が急変したのは、それから数時間後であった。

彼女は眠り続け、高熱で、息は荒かった。イザベラは枕元に坐ってじっと見つめ続けた。苦しげなうわ言を聞くと、イザベラは心臓に針が刺さった様に痛んだ。

そんなに何日も寝ずに看病していたら身体を壊すと皆から言われたが、それでもイザベラはやめることが出来なかった。


或る夜、イザベラは看病疲れから、うとうととベッドのへりにもたれかかって眠ってしまった。

イザベラは、はっと気がついた。カーテンの隙間から、夜明けの青白い光が差し込んでいた。

「息が止まっている。」

イザベラは蒼白になった。イザベラはとっさに耳をベアトリーチェ・ディ・コントラリの鼻に押し当てた。すると、静かな寝息が聞こえるではないか。額に手を当てると、いつの間にか熱は下がっていた。イザベラの目からとめどなく涙が流れた。病人の顔は、明け方の光の中で青白く安らかに見えた。イザベラは涙が止まらなかった。その時、微かにまつ毛が動いたかと思うと、ベアトリーチェ・ディ・コントラリはうっすらと細く目を開けた。そして枕元のイザベラを見た。イザベラはたまらなくなって彼女の首にかじりつくと声を挙げて泣き出した。


ベアトリーチェ・ディ・コントラリは、めきめきと良くなっていった。イザベラは彼女がお粥を食べる様子を嬉しそうに見ていた。

その時、フランチェスコが入って来た。

「イザベラ、お母さんが御病気なんだ。すぐ帰ってあげなさい。」

「えっ」

「そんな、心配する様な病気ではないらしいが、とにかく早く行ってあげなさい。」

フランチェスコは青白い顔で言った。イザベラは、またフランチェスコが元気が無くなるのではないかと思うと、たまらなかった。

イザベラは、後ろ髪を引かれる思いで船に乗った。


母は夏から体調を崩し、体が弱って寝ていたが、それほど心配な様子ではなかった。

イザベラは母に、ミラノへ行った時のことを詳しく語って聞かせた。母は寝たまま何度も嬉しそうにうなづきながら聞き入っていた。イザベラは、その顔を見ていると涙がにじんできた。

母が眠ったので、イザベラは、窓際の小机でベアトリーチェ・ディ・コントラリに手紙を書いた。そして、毎日健康状態を報せて欲しいと頼んだ。

「貴女がどんな有様か、いつもいつも聞き続けていたいの。」

数日後、彼女から返事が来た。

「殿様は昨日お見舞いに来て下さいました。そして2時間も様々なお話をなさいましたが、終始ため息をおつきになってお妃様の御不在を嘆いて居られました。そして最後に

『妃が戻って来るまでは、そなたを奥さんだと思っておくことにしよう。』

とおっしゃいましたので、私はすかさず申しました。

『おあいにく様。お妃様はお若くてお美しくあらせられますが、私ときたら見ての通りのお婆ちゃんで、醜女で、ひね鳥でございますわ!』」

イザベラは笑い転げた。


イザベラはもう一通のゴルフォ先生からの手紙の封を開けた。なんと、それは長いラテン語の手紙だった。

「これ、宿題のおつもりかしら。」

イザベラは意気込んで読み始めた。それは、マントヴァの宮廷の近況報告だったが、読み進むにつれ、何かあまり上品な話ではなさそうなことに気づき始めたので、イザベラは読むのをやめ、便箋を取り出して羽根ペンを走らせた。

「先生、申し訳ございませんが、私は不勉強がたたりましてラテン語を随分忘れてしまいました。せっかく先生がお書き下さいましたお手紙も、とても読むことが出来ません。畏れ入りますが、もしも重要なお話でございましたら、もう一度イタリア語でお書きいただけませんでしょうか?」

ゴルフォ先生からの返事には、次の様に書かれていた。

「全くあの手紙はイタリア語に訳す価値はございません。平に御容赦下さいませ。」


やがて母は順調に回復し、一度ミラノへ行ってみたいと言ったので、イザベラはマントヴァとミラノの国境まで母を送り、そこで別れた。

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