第9章 プリマドンナ・デルモンド
フランチェスコが帰って来て、イザベラはやっと元の生活に戻ることが出来た。
イザベラはストゥディオーロの壁画をマントヴァの画家ルカ・リオンベニに依頼した。 ところが、名人気質のこの画家は、気が向かない限りいつまでたっても仕事をしないのである。
イザベラは、もう少し真面目にやって欲しいと思ったが、芸術家というのは普通の人間には測り知れない魂の持主なのであろうと考え、じっと我慢した。
しかし、いつまで待っても少しも進む様子が見られないので、イザベラは悩んだ末に、はっきりとリオンベニに自分の意見を言った方が良いのではないかと思うに至った。 それ以来イザベラは、或る時は婉曲に、或る時は単刀直入に、リオンベニに自分の考えを話した。 それでも、少し言い過ぎたかな、と思うとイザベラは慌てて謝った。
「ごめんなさい、今のは冗談です。」
マンテーニャは広間で、あの「大勝利」という壁画の続きを今日も黙々と描いていた。来年(1492年)の暮れまでには完成するということだ。
マンテーニャもリオンベニも事後承諾ということはせず、何か疑問が生ずるとすぐイザベラに相談してくれるので、イザベラはそれに応じられるよう、必死で美術の勉強をした。 透視法についても学んだ。
1492年が明けた。
イザベラは焦った。 去年の夏からラテン語の勉強が中断したままなのだ。政治や経済や画家との交渉に明け暮れて、最近は殆ど一字も読んでいない有様だった。
あれほど精魂傾けて学んできたのに、こんなことで一気に錆びついてしまうのかと思うと、イザベラは涙が出るほど情けなかった。 イザベラはたまらなくなって、最初にラテン語を習ったグアリノ先生に悩みを書いて送った。
グアリノ先生の返事には、どんなにつらくてもラテン語の勉強をやめてはいけない、近い将来きっと当代随一のラテン語の名手と言われる日が来るであろう、と書かれていた。
イザベラは、熱い涙がこみ上げた。 イザベラは、決意も新たにマントヴァの学者ジギスムント・ゴルフォに師事した。
イザベラは最近新しい喜びを発見した。詩作である。今までは詩人の作品に感心ばかりしていたが、フェラーラの若き宮廷詩人テバルデオから詩を捧げられて以来、急にイザベラは詩作に燃え出したのだ。
イザベラは困ってしまった。誰かに詩を見て欲しいのだが、とても気恥ずかしくてフランチェスコにも父母にも弟妹にも見せることが出来ないのだ。考えあぐねた末にイザベラは、やっぱりこれはテバルデオに見てもらおうと思った。アントニオ・テバルデオは、若手ながらもフェラーラの宮廷で既にかなりの名声を獲得していた。
イザベラは、我が目を疑った。返事の中でテバルデオは、落葉した木々を謳ったイザベラの詩を絶賛していた。純粋な、どこか子供の様な素直さが心を打つ、と。 イザベラは、その手紙を誰にも見せなかったのに、その噂はあっという間に広まった。そして、新しい詩を書きかけていることがいつの間にか知れ渡り、北イタリアの宮廷はどこもその話題で持ち切りになった。
「お妃様、どうして見せて下さらないのですか?」
「少しくらいよろしいではありませんか。」
イザベラは毎日侍女たちに追い掛け回された。
「ごめんなさいね。これは私の恥にはなっても誉になる様な作品ではないのです。だから、許して。」
イザベラは、そう言って逃げ回った。
イザベラは燃えていた。フェラーラの僧フラ・マリアーノの評判がイタリア全土で急上昇していると聞くと、イザベラはすぐフラ・マリアーノに手紙を書き、今度の四旬節にマントヴァで説法をしていただきたいと要請した。彼は快諾し、2月半ばにマントヴァに来ると、灰の水曜日から説法を始めた。イザベラは涙を浮かべて聞き入った。フラ・マリアーノの滞在中にイザベラは、今まで疑問に思っていたことを全て質問した。彼は温厚に誠実に一つ一つ答えてくれた。
フラ・マリアーノが帰って行った数日後、母から手紙が届いた。それには、彼がイザベラの知性と信仰心にどれほど心を打たれたか語ってくれたと書かれていた。
「フラ・マリアーノ様があんまりお褒め下さるものだから、愚かな母はもう少しで、本当に貴女がそんなに立派になったのかと信じてしまうところでしたよ。
でもね、イザベラ、私は今日までこの世に生きて、これほど嬉しかったことは無かった。」
イザベラは頬を染めて読んだ。
これを機にイザベラは、カルメル修道会会長フラ・ピエトロ・ダ・ノベラーラ、マントヴァのカルメル会修道士バチスタ・スパニョリ、ドミニコ修道会会長フラテ・フランチェスコ・シルヴェストリ等と文通を始めた。
或る時ミラノの宮廷で、当代の婦人についての様々な議論が行われた。良きにつけ悪しきにつけ、諸侯の奥方、姫、貴族の婦人、その他イタリア全土のありとあらゆる女性の名が出た。
その時、ニッコロ・ダ・コレッジオが立ち上がった。
彼はフェラーラ戦争での華々しい武勇で知られ、詩人としても非凡な才能を謳われた人物である。彼は風貌にも恵まれ、その高潔さ、そして優雅な振舞いは、彼に当代随一の騎士の名を欲しいままにさせていた。
場内は水を打った様になった。
人々の視線は一斉に彼に注がれた。
彼は言い放った。
「マントヴァ侯妃イザベラ・デステ様こそ、プリマドンナ・デルモンド(世界第一の女性)です。」
この話はたちまちイタリア全土に広まった。
そしてアルプスを越え、フランス、ドイツ、オーストリア、スペイン、ハンガリー、遂にはイギリスまで及んだ。
後日そのことを聞かされたイザベラは心臓が止まるほど驚いた。 そして、顔を挙げることが出来なかった。
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