第8章 初めての政務

その夏(1491年)、フランチェスコは何度もベネツィアへ行かねばならず、イザベラは政治の一切を任されることとなった。

17歳になったばかりのイザベラは絶えず神様に祈りながら、全身全霊で政務に当たった。

イザベラは、今日どんなことがあったか、それに対して自分はどう考えどう行動したか、その結果はどうであったか、人々は何と言ったか、毎日詳しくフランチェスコに書いて送った。

分からないことはどこまでも調べ、フェラーラやミラノに関わる問題では、父やロドヴィコにも相談した。

その誠実で揺ぎの無い仕事ぶりに、年取った顧問官たちは皆 驚嘆し、圧倒された。


その年(1491年)の夏、隣接するミランドラの領主ガレオットが造った堤防のためセキア川の水がマントヴァに来なくなり、マントヴァの多くの農家が危機に瀕した。 ガレオットは、イザベラの父エルコレ一世の妹ビアンカ・デステの夫である。

そもそも水争いは老練な領主でさえ最も頭を痛める難題であった。水争いが原因で大きな戦に発展した例など枚挙にいとまが無い。

ゴンザーガ家は数年前に全ての大人が亡くなり、今年25歳のフランチェスコを筆頭に、20歳のジギスムント、17歳のジョヴァンニとイザベラしかいない。

まして今はフランチェスコが不在の折り。 全ての政務は17歳の侯妃の肩にかかっていた。 老獪なガレオットは、この機を狙ったのである。

それでもイザベラは一歩も引かず、度重なる要請をミランドラに送った。

しかし、ガレオットは全く応じなかった。

イザベラは遂に、この問題をロドヴィコの裁断に委ねることを思い立った。

イザベラは即座にその提案を手紙に書き、ミランドラへ使者を送った。


「お妃様、ただ今使者が戻りました。」

イザベラは、はやる心を抑えて政務室へ走った。

「お妃様・・・」

イザベラの顔を見るなり使者は肩を落とした。

「どうだったのです。」

イザベラは、我を忘れて言った。

「それが・・・」

使者は拳を震わせた。

「ガレオットは、お妃様の御手紙を読むなり

『これは面白い。 ロドヴィコはゴンザーガより我がミランドラに対して遥かに好意的であることを、よもやお忘れではあるまいな。』

と言って笑ったのです。」

使者の顔は怒りで蒼白だった。

イザベラは唇をかみしめた。

「わかりました。 今すぐミラノに手を打ちましょう。」

イザベラはすぐさま羽根ペンを走らせた。

イザベラはロドヴィコに今までの経緯を全て書いた。 この問題をロドヴィコの裁断に委ねようというイザベラの提案に対してガレオットが吐いた暴言も。

「しかし」

と、イザベラは書いた。

「スフォルツァ家とゴンザーガ家は、婚姻および血縁ばかりでなく、深い友情によっても固く結ばれて参りました。

そして、閣下が我が殿にも私にも深い愛情と慈父の様な思いやりを抱いていて下さいますことは周知の事実でございます。  ガレオット様は御自分の方が閣下に愛されて居られますなどとお考えになるには及びません。」

イザベラは父エルコレ一世にも至急手紙を送った。 父はすぐペレグリーノ・プリシアニという敏腕な法律家をマントヴァへ派遣した。

イザベラは書類の山を前に自らペレグリーノに一つ一つ説明した。 ペレグリーノはその間中、身じろぎもせずに聞き入っていた。

1491年9月13日イザベラは満ち足りた心で父に手紙を書いた。

「ペレグリーノ先生は、昨日お発ちになりました。

セキア川の堤防のことはよくご説明致しておきましたので、ガレオット様が反論なさることは不可能でございましょう。 ただ、今までの様に事実を歪曲なさいましたら別ですが。

それから、お父様、一つ嬉しいことがございました。この度の調査では建築の知識を必要とされましたので、私は建築学を勉強致しました。これからはお父様の建築のお話もよくわかるのではないかと思いますと、楽しみです。」


やっと平穏な日々が戻って来た。

この夏はセキア川の堤防のことに取り紛れていたが、イザベラはずっと前からこの9月をどれほど心待ちにしていたことであろう。あのマンテーニャが帰って来るのだ。彼は三代にわたってゴンザーガ家に仕えてきた画家で、マントヴァの宮殿の壁に沢山の優れたフレスコ画を描いた。マンテーニャとゴンザーガ家の人々の間には代々深い信頼と友情が育まれてきたのである。

彼は2年前、法皇インノセント八世の熱烈な要請によりローマに派遣されたが、マントヴァを恋しがってフランチェスコに、

「自分はゴンザーガの家の子で、マントヴァに生き、マントヴァに死にたい。」

と書き送った。

イザベラは船着き場まで迎えに行った。 船から降りて来たマンテーニャを一目見るなりイザベラは、気難しげで、こぶしの様な人物だと思った。

イザベラに気づくとマンテーニャは一瞬鋭い研ぎ澄まされた目つきをしたが、やがてだんだんと穏やかな表情になっていった。

マンテーニャはその日の夕方から仕事にかかった。イザベラは、マンテーニャのすぐ後ろに座って、黙々と壁に絵筆を走らせる姿に見入っていた。

「ローマにいる間は、この絵が心配でな」

不意にマンテーニャが声を出した。

「夢にまで見て、窓から雨が入らんように侯爵様に手紙を書いて頼んだくらいだ。」

イザベラは大きく目を見開いてマンテーニャの横顔を見上げた。

「マントヴァに帰れて、夢の様だ。」

マンテーニャは壁から絵筆を離すと、全体を見渡した。

そして、イザベラの顔を見下ろし、初めて笑みを浮かべた。


イザベラはフランチェスコが不在で多忙だったが、それでも毎日時間を見つけてはマンテーニャの仕事を見に行った。 イザベラは、マンテーニャのすぐ後ろに座って、何時間でも黙って見ていた。 マンテーニャは時折り、独り言のようにぽつりぽつりと喋った。

イザベラは殆ど黙って、目でマンテーニャと話をした。


「お妃様、大変です。」

或る日、マンテーニャの仕事場に執事が飛び込んで来た。 そして、やにわに歩み寄ると小声で耳打ちした。

「えっ」

イザベラは立ちあがり、

「先生、失礼致します。」

と早口で言うと、小走りに執事について政務室へ向かった。

「お妃様、これなんです。」

執事は手紙を差し出した。読み進むにつれイザベラの顔から血の気が引いた。

フランチェスコのヴェネツィアの領地の一つが借金のため商人パガーニョに差し押さえられたというのだ。イザベラの知らないうちの出来事だった。

イザベラは政務室の戸棚や引き出しを片端から調べて、それに関する文書を探し出すと、すぐにヴェネツィアの長老に手紙を書いた。

イザベラは、今すぐ2000ドゥカーティを支払うから、残りは分割払いで、長老に保証人になっていただきたいと要請した。

数日後、長老から返事が来た。それによると、パガーニョを呼んでその話をしたところ、なかなか応じようとしなかったが、それでも諦めずに、

「自分が保証人になるから」

と強く要請して、やっとのことで承諾を取り付けたというのだ。

イザベラは長老のためにも絶対に期日に遅れまいと心に誓った。 それは17歳のイザベラにとって非常に骨の折れる仕事だったが、それでもイザベラは遂行した。

やがてイザベラは歓喜に満ちてフランチェスコに手紙を書いた。

「パガーニョ様も私たちのことを信頼して下さっているみたいです。

私は、ひとたび口にした約束を違えるくらいなら死んだ方がましだといつも思って居ります。

信用は命より大事だ、と。」

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