第6章 マントヴァの雪
窓の外は、雪が静かに降っていた。そして、部屋の中は不思議な明るさに満ちていた。
イザベラは静かに窓辺に歩み寄ると外を見た。 マントヴァのすべてが純白の雪に覆われていた。
この青白い光・・・イザベラには、雪の降る音が聞こえる様な気がした。
その時、扉が開いてフランチェスコが入って来た。
「何を見ているんですか?」
イザベラは微笑みながら
「雪を見ていたんです。マントヴァの山野に降り積もる雪を。
そして、考えたんです。」
イザベラは口をつぐんだ。
「一体、何を考えたんですか?」
「お笑いにならないで下さいね。 私、考えたんです。
『彼女が一歩足を踏み入れた時からマントヴァの運命が変わった』
そう言われる人になりたいな、って。」
思い切ってそう言うと、イザベラはうつむいた。
「素晴らしいことです。 私は貴女が、この国に新しい光をもたらす人だと信じています。」
イザベラは、思わず涙ぐんだ。そして、フランチェスコの目を見つめて言った。
「殿、私は考えました。
マントヴァは小さな国です。この国が超一流になれるとしたら、それは芸術や文化です。私はマントヴァを、ヨーロッパの芸術や文化の中心にしたいと思います。」
フランチェスコは大きく目を見開き、身を乗り出して真剣な面持ちで聞いていた。
イザベラの部屋は塔の二階で、窓からは湖と聖ジョルジョ橋がよく見えた。
15歳のイザベラはこの部屋を「ストゥディオーロ」と呼ぶことにした(註:これは歴史的瞬間である)。
イザベラは、まず手始めにストゥディオーロから取りかかろうと考えた。ここに優れた芸術品を集めるのだ。
「やっぱりこれはロベルティ先生にお願いするのがいいみたい。」
イザベラは立ち上がった。 ストゥディオーロの壁画を誰に頼もうか、と独りで悩んでいたが、結局、イザベラと一緒にフェラーラから来た画家の一人エルコレ・ロベルティが最適任の様に思われた。 フェラーラから来た画家は皆、じきに帰ってしまったが、エルコレ・ロベルティだけはマントヴァにとどまっていたのである。イザベラは、頼みとするロベルティがいてくれるので心強かった。
「ロベルティ先生にお願いして、今日からでも取りかかっていただきましょう。」
イザベラは、希望で胸が高鳴った。
しかし、ロベルティの部屋まで来ると、何か様子がおかしいと感じた。小間使いの少年や少女たちが部屋を片付けているのだ。
「あの・・・ロベルティ先生は、どちらにいらっしゃるのでしょう?」
イザベラが声をかけると、床を掃いていた少女が顔を挙げた。
「あっ、お妃様、ロベルティ先生は先程フェラーラにお帰りになりました。」
「えっ。」
「実は、御結婚式の御支度とポー川での船酔いのためロベルティ先生は随分お身体が弱って居られました。そして、もうどうにも我慢できないほど御気分が悪いとおっしゃって、先ほど取るものも取りあえずフェラーラにお帰りになりました。具合が悪くて御挨拶も出来ずに帰らせていただき、お妃様によろしくお伝えして欲しい、とおっしゃっていました。」
イザベラは、全身の力が萎えしぼむほど落胆した。
とうとうみんな帰ってしまったのだ。
ストゥディオーロに戻るとイザベラは、湖を見ながら物思いに沈んだ
「私も帰りたいな。」
初めてそんな気がした。
その時、侍女が入って来た。
「お妃様、フェラーラからのお手紙でございます。」
「有難う。」
イザベラは飛びついた。それは、ガルリーノ先生からの手紙であった。イザベラは封を開ける時間ももどかしかった。
「姫様が私の横でヴィルギリウスをお読みになり、澄んだお声で繰り返し田園詩を暗唱なさった、あの幸せな日々を思うたびに老師は涙を禁じ得ません。」
イザベラは、手紙の上に泣き伏した。。
イザベラはすすり泣きながら、ガルリーノ先生に手紙を書いた。
「先生の御教えを忘れないために、どうか、フェラーラに残して来たラテン語の教科書をお送り下さい」と。
イザベラは、使者の帰りを待ち焦がれた。ストゥディオーロの窓辺に座り、東の空を見つめ続けた。この空の向こうにフェラーラがあるのだ。
2日後、使者は帰って来た。懐かしい古い教科書を目にした途端、一気に涙が溢れ出てイザベラは本を抱きしめて泣きじゃくった。
他に何通か、侍女や執事の手紙が添えられていた。
「姫様の御部屋を日々私はさまよい歩き、かつてここに姫様がお住まいだった、あの天使の様な御顔で私に微笑みかけて下さった、ここであのお優しい考え深い御言葉をおっしゃったのだ、と、ただそれをしのぶばかりです。」
「お城の中は、姫様が行ってしまわれてからは火が消えた様です。道化師が何を言っても誰一人笑う者も居りません。」
「お妃様は姫様をマントヴァまで送ってお帰りになりましたその足で、真っ先に姫様の御部屋へいらっしゃいました。そして、よろい戸を下して真っ暗な御部屋を御覧になり、さめざめと涙を流されました。」
イザベラは、泣き疲れて頭がぼうっとした。
イザベラは便箋を取り出すと、腫れぼったい眼で机に向かい、何時間も返事を書き続けた。そして、一人一人に高価な布地を選んで贈り物とした。
「そうだわ、フリテッラはどうしているかしら。」
フェラーラの船着き場で子供の様に泣きじゃくって別れを惜しんでくれた道化師のフリテッラの顔を思い出すと、イザベラはまた涙が出た。イザベラはフリテッラにも心を込めて手紙を書き、黄色のサテンを贈り物として添えた。
数日後、イザベラは驚きの声を挙げた。
「フリテッラの、フリテッラの手紙だわ!」
イザベラの贈り物に対する沢山のお礼状の中にフリテッラの手紙があったのだ。イザベラは震える手で封を開けた。インクのしみのある、間違った綴りもあるフリテッラの手紙・・・一生懸命書いたフリテッラの真心が溢れる様に感じられ、イザベラは胸がいっぱいになった。
イザベラは、もう泣くのはやめようと心に誓った。
そして、これからはフェラーラの母に毎週手紙を書くことにした。
手紙と言えば、難題な手紙を一つ書かねばならないのだ。 フランチェスコの叔父ロドヴィコ・ゴンザーガは、フランチェスコの弟ジギスムントと争って枢機卿の地位を獲得して以来、弟思いのフランチェスコと不仲になっていたのだが、それがどういう風の吹き回しか、結婚のお祝いに高価な宝石をイザベラに贈ってくれたのである。 イザベラは、何とかこの機会にフランチェスコとロドヴィコ・ゴンザーガを仲直りさせたいと思った。
ところが、あまり気負い過ぎて、まだお礼状が書けていないのだ。イザベラは、フリテッラがどんなに思い切って手紙を書いてくれたかと思うと、涙がこみ上げ、勇気が湧いた。上手く書こうとするよりも誠心誠意書けばいいのだ、と自分に言い聞かせ、イザベラは脇目も振らずに書き始めた。
夕食に呼ばれてもまだ書き続けていると、フランチェスコがやって来た。フランチェスコは、最近イザベラが元気が無いのを気にして、態度もどこか兄の様な感じになっていた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
そう言ってフランチェスコは背後から手紙を覗き込んだ。。
「あっ、駄目です。 出来上がったら読んでいただきますから。」
イザベラは机の上にうつ伏して手紙を隠した。
「いいじゃないか。まあ、いいや。ご飯食べないの?」
「もうすぐ出来ますから、先にお召し上がり下さい。」
フランチェスコは出て行った。
しかし、手紙はなかなか出来上がらなかった。読み直すと、どこかおかしいのである。イザベラはまた手を加え、そのたびに何度も読み直し、出来上がった時は真夜中になっていた。
翌朝、イザベラは食堂でフランチェスコが来るのを待っていた。
「おはようございます。 ゆうべはごめんなさい。
あの・・・これ。」
イザベラは便箋をフランチェスコに差し出した。フランチェスコは食い入る様に読み始めた。イザベラは立ったまま目を大きく見開いてフランチェスコの横顔を見つめていた。フランチェスコが何と言うか、イザベラは身を固くして待っていた。
フランチェスコは、読み終わっても暫く黙っていた。その目はどこか一点を見つめる様であった。
やがてフランチェスコは顔を挙げると、一言
「有難う。」
と言った。 イザベラは、この人にこんな優しい顔があったのかと驚いた。
少し自信が出てきたので、イザベラはフランチェスコのもう一人の叔父ジャンフランチェスコにも手紙を書いた。彼とフランチェスコの間も今一つ上手くいっていなかったのである。
数日後、二人の叔父たちから非常に好意的な返事が来て、イザベラは涙が出るほど感激した。そして、大変だけどこれからもずっと文通を続け、一族の中に決して不和を起こすまいと決意した。
イザベラはフランチェスコのきょうだいたちともすぐに親友になった。
ゴンザーガ家のきょうだいは上から順に、長女キアーラ、長男フランチェスコ、次男ジギスムント、次女エリザベッタ、三女マダレーナ、三男ジョヴァンニの6人である。長女キアーラはフランスのモンパンシェ公爵夫人でイザベラより10歳上、聖職者のジギスムントは5歳上、そして3歳上のエリザベッタは、あのウルビーノ公爵グイドバルドの夫人であった。2歳上のマダレーナは昨年(1489年)10月ジョヴァンニ・スフォルツァに嫁いだばかりであり、末弟のジョヴァンニはイザベラと同い年であった。
エリザベッタは体が弱く、ちょうど今、療養のためお里帰りしているのだ。フランチェスコは昨年23歳の若さでヴェネツィアの総司令官を委託されて居り、しょっちゅうヴェネツィアに行かねばならなかったので、イザベラはエリザベッタにせがんで、6月までマントヴァにいてもらった。
エリザベッタが帰ってしまうと、イザベラは毎日が切なかった。
独りぼっち・・・この広いお城に自分は独りぼっちだとイザベラは感じた。ストゥディオーロの窓からぼんやり湖を眺めていると、不意に窓の下から賑やかな声が聞こえた。見ると、イザベラと同い年くらいの小間使いの少女たちが手に手に箒を持ってやって来たのである。少女たちは庭を掃きながらお喋りを続けた。
「今日は早く帰らないとお母さんに叱られるの。」
「へえ、お母さん、怖いの?」
「うん、怖いと言えば怖いかな。」
「うちのお母さんは、とっても口やかましいの。」
聞いているうちにイザベラの目から涙がこぼれた。
イザベラは窓を閉めると部屋の中ほどの長椅子に座った。この椅子にエリザベッタと並んで座って様々なお話をしたことを思い出すと、また涙が出たが、イザベラはそれを振り払い、ストゥディオーロの計画を考えることにした。このことを考える時だけは、まるで人が変わった様に全身に力が湧いて来るので、イザベラは自分でも不思議だった。
フランチェスコはイザベラの計画に大賛成で、イザベラはそんなフランチェスコのためにも立派なストゥディオーロにしたいと思った。
その時、イザベラははっとした。部屋の前で誰かが低い声で話をしているのだ。何とも言えない不安がこみ上げ、イザベラは思わず耳を澄ました。一人はフェラーラから来た女官ベアトリーチェ・ディ・コントラリだった。もう一人は誰だかよくわからなかった。
「お願いです。もう少しだけお待ち下さい。」
ベアトリーチェ・ディ・コントラリが言った。
「そうおっしゃっても、この様な重大なことをお知らせしない訳には」
「今、姫様、いえお妃様は大変沈んで居られます。その上、この様なことをお聞かせしては。」
イザベラはたまらなくなって扉を開けた。二人はびくっとして振り返った。もう一人はマントヴァの執事だった。
「どうしたのですか?」
イザベラは感情を抑えて聞いた。執事は言った。
「畏れながら申し上げます。去る8月8日、マダレーナ・ゴンザーガ様がお亡くなりになりました。享年18歳であらせられました。」
イザベラは体中に戦慄が走り、足がわなないて膝をつきかけたが、ベアトリーチェ・ディ・コントラリが素早く肩を貸して部屋の中へ抱えて入った。イザベラは体中が小刻みに震え、悪寒が走った。あの美しい、あの優しいマダレーナおねえ様が、と思うとイザベラは信じられなかった。もうあの人はこの世のどこにもいないのかと思うと、イザベラは髪をかきむしって泣いた。18歳というはかない花の命を思い、イザベラは涙が涸れるまで泣いた。しかし、次の日になるとまた涙は後から後から湧いてきた。
イザベラはとうとう熱を出した。熱は何日も続いた。そして、やっと解熱した時、イザベラは一つの悟りに達した。自分にはどうすることも出来ない。ただ精一杯ゴンザーガ家を立派にすることが、それだけが自分に出来ることだ、と。自分が今マダレーナおねえ様にして差し上げられることはそれだけだとイザベラは思った。
イザベラは起き出すと、エリザベッタに手紙を書いた。イザベラは、エリザベッタがこのまま悲しみのあまり亡くなってしまうのではないかと心配でならなかった。イザベラはエリザベッタに心を込めて手紙をしたためた。この世を生き抜くには決意が必要だ、と。
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