第4章 騎馬試合

その年1489年の冬は、イタリア全土はミラノのトーナメント(騎馬試合)の話題で持ち切りになった。5年に一度ミラノでは、中世さながらの騎馬槍試合が盛大に挙行されるのであった。

この試合には諸侯や貴族ばかりでなく、イタリア全土の「我こそは」と腕に覚えのある者はことごとく参加し、この大会の優勝者に贈られる神聖な旗を手にすることは、イタリア全土の全ての若者の夢であった。

イタリア中が一か月も前から「誰が優勝するか」という話題で持ち切りになった。やがて人々の予想は、数人の若者に絞られていった。そして、その中にフランチェスコの名前も含まれていた。

イザベラは、もう居ても立ってもいられない気持ちで、誰かトーナメントの話題をしないかと、毎日そればかりを気にしていた。ご飯も喉につかえ、夜も全然眠れなかった。そして、誰か他の若者の名前が出ると、イザベラは悔しさと不安で胸がいっぱいになった。イザベラは絶えず心の中で神様にフランチェスコの勝利を祈り続けた。

そのことを考えただけでも、ひとりでに涙が出てきた。


或る日、年取った侍女が思いつめた表情で言った。

「姫様、お怒りにならないで下さいませ。フランチェスコ・ゴンザーガ様の御身の上を思って申し上げるのでございますから。」

イザベラは、声が出なかった。

「あのトーナメントは、恐ろしいものでございます。私はこの年まで何度も見て参りましたが、あの試合中に亡くなられたり、大怪我をなさった御方がどれほど居られたことでございましょう。それも、弱い御方より、寧ろ優勝候補に挙がる様な、当代随一と謳われる様な御方ほど犠牲になって居られます。

姫様、どうかフランチェスコ様をお引き止め下さいませ。姫様が不幸になられるのではないかと思うと、私はもう心配で心配で。」

侍女はそう言って泣き出した。イザベラは全身の震えが止まらなかった。

イザベラは母の所へ飛んで行った。

「お母様、大変です。フランチェスコ様をお止めしなくては。」

「急にどうしたの。」

イザベラは今侍女から聞いたばかりの話を伝えた。母は一点を見つめたまま黙っていた。

「でも、お母様、フランチェスコ様はお聞き下さいますでしょうか?」

母はなおも黙り続けた。

「お母様、私は心配です。 でも、もしもお聞き届けいただけないのなら、却ってフランチェスコ様の御心を乱して・・・」

イザベラは泣き出した。

「貴女の言うとおりだわ。フランチェスコ様は、絶対におやめにならないでしょう。 私たちは、ただ神様に祈りましょう。」

母は静かに言った。イザベラは肩を震わせて泣き続けた。


トーナメントを2日後に控えた夜、母はイザベラに言った。

「私、ミラノに行ってこようと思うの。貴女は来ない方がいいわ。もしも貴女が見てるってお知りになったら、フランチェスコ様は平常心を失われるでしょう。」

イザベラは、何も言えずに母の顔を見つめた。

翌朝早くイザベラは母を見送りに出た。空気は澄んで冷たく、あたりは霧が立ち込めていた。馬車に乗る前に母はイザベラの目を見て言った。

「気を強く持つのよ。」

イザベラは涙ぐんでうなづいた。

「ほらほら。」

母はハンカチを取り出すと、イザベラの涙を拭った。

「さあ、笑って。明るい所にだけ幸せがやって来るのよ。」

イザベラは笑って見せたが、後から後から涙がにじんできた。

「イザベラ、どこまでも神様を信じなさい。

神様は必ずお守り下さるわ。」

馬車はやがて霧の向こうに去って行った。


イザベラは自分の部屋に戻ると、目を閉じ、手を合わせてひたすら祈り続けた。涙がとめどなくこぼれた。胸が絞めつけられる様に痛んだ。

イザベラは戸棚からリュートを取り出すと、静かに弾き始めた。そして、それに合わせて歌ったが、いつもと違って声がかすれ、続かなかった。イザベラはリュートをかき鳴らした。しかし、気がつくといつしか指は止まっていた。それでもイザベラはリュートを弾き続けた。いろいろな曲を弾いてみたが、古いフランスの歌が一番心が和む様で、そればかりを弾き続けた。夜になっても部屋から一歩も出ず、リュートばかりを弾いていた。神様にお祈りしなければいけないと思ったが、今はそのことを考えるだけでも恐ろしかった。イザベラは窓からぼんやりと星空を見上げながら、母は今頃どのあたりを旅しているのであろう、と思った。何度目かに目を覚ました時、夜は白々と明けかかっていた。イザベラはベッドから起き出して服に着替えると、膝まづいて神様に祈りを捧げた。数時間後にトーナメントが始まるのだ。母はもうミラノに着いたことであろう。

イザベラは目を閉じて一心に祈った。体中が微かに震え、涙は出なかった。


日が高く昇るにつれ、イザベラは胸が熱い鉛でいっぱいになる様な耐え難い苦しみを覚えた。イザベラは枕元の小机からリュートを取り上げるとかき鳴らした。不意にイザベラはリュートの上に突っ伏し、身も世もなく泣き出した。そして暫く泣くと、また身を起こしてリュートを激しくかき鳴らした。今、どの様な運命がミラノで展開しているのか。イザベラは、その思いから逃れたい一心で、憑かれた様にリュートを弾き続けた。胸が灼ける様に熱かった。

何時間経ったことであろう。それでもイザベラはリュートをやめなかった。

「あっ」

突然、リュートの弦が一本切れた。イザベラは胸騒ぎがして、リュートを投げ出すと膝まづいて必死で祈った。

いつか日は西に傾き、部屋の中は茜色に染まった。もう、トーナメントは終了したことであろう。既にフランスの運命は決まってしまったのだと思うと、イザベラは身を投げ出して泣き崩れた。

夜になってもイザベラはぼんやりとしていた。夕食を運んで来た侍女が見ると、イザベラはベッドに腰を掛けてリュートを構えてはいるが、物思いに沈んで、その姿は力が無く、とても声をかけることは出来なかった。

明日はいよいよ母が帰って来るのだと思うと、イザベラは新たな恐怖に胸が絞めつけられた。


とうとう夜が明けた。今日全てがわかるのだと思うと、イザベラは後から後から涙が湧いてきた。リュートを弾いてもすぐに涙がこぼれた。それでもイザベラは、リュートを放すことがことが出来なかった。


夕方が近づくにつれイザベラの恐怖は増していった。もうすぐ母が帰って来る。イザベラは身を震わせる思いで待った。

6時  7時

イザベラは時計の針ばかりを見つめていた。

しかし、母はいつまでたっても帰って来なかった。

イザベラは不安で胸が張り裂けそうになった。こんなに遅いのは、きっと何か悪いことが起こったに違いない。イザベラは顔を覆って泣き出した。何時間も泣き続けた後、イザベラは膝まづいて静かに祈った。

その時、扉が激しく叩かれ

「姫様、姫様、お妃様のお帰りでございます。」

と、侍女の声がした。イザベラは無我夢中で飛んで行った。階段を駈け下り、正面玄関へ走って行くと、母とぶつかりそうになった。

「イザベラ、大変なことが起こったの。」

イザベラの顔から一気に血の気が引き、草の葉の様な色になった。

「そうじゃないの。安心して。フランチェスコ様は見事優勝なさいました。」

イザベラの目からどっと涙が溢れ出て、立っていることが出来なかった。

「大変なことが起こったのは、、その後なのよ。」

イザベラは、何事が起ったのか、とまた真っ青になった。

「あの神聖な優勝旗をミラノ公が差し出されると、フランチェスコ様は急にうつむかれたの。 目を閉じられて、そのお顔は蒼白でした。

フランチェスコ様がいつまでもそうなさっているから、会場に集まった人々は皆、何事が起ったのかとざわめき出したわ。

その時、フランチェスコ様は急に顔を挙げられ、よく透る大きなお声で

『この旗を、フェラーラの公女イザベラ姫に捧げます。』

とおっしゃったのです。

一瞬会場は水を打った様になり、次の瞬間、割れる様な拍手と歓声で包まれたの。」



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