第3章 マントヴァの秋祭り

夏が過ぎ秋が来ると、フェラーラはまた落ち着きを失った。隣国のマントヴァで秋の収穫のお祭りが盛大に行われるのだ。お祭り好きのフェラーラの人々は、毎年大挙して船でマントヴァの秋祭りにくり出して行くのだった。

お祭りの日が近づくにつれ、もう、みんなじっとしていなかった。

そんな中で、4人の従弟たちは特に落ち着きを失った。


イザベラは相変わらず、毎日の様に「ラテンの部屋」に行き、満ちたりた心でヴィルギリウスに読みふけっていた。

秋祭りの前日もイザベラは「ラテンの部屋」の窓際のテーブルでヴィルギリウスを読んでいた。

その時、ジョヴァンニが入って来た。ジョヴァンニは儀式の時だけ着る様な一番良い服に身を包んでいるので、イザベラは目を見張った。ジョヴァンニはいつになく愛想よく会釈し、顔を真っ赤にして、目の横に青筋を立てながら笑って見せた。

暫くして扉が開く音がしたので振り返ると、ステファノが立っていた。驚いたことにステファノも一番良い服を着ていた。イザベラが会釈をしてもステファノは眉一つ動かさず、こわばった顔のまま部屋へ入って来た。そして、大股で一直線にこちらにやって来ると、イザベラにぶつかるほどすれすれの所を通って行った。

数分後、今度はエンリーコとルチオが揃って、彼らも一番良い服に身を包んで現れた。イザベラが振り返って、感心した様に微笑んで見せると、彼らは急に相好を崩し、二人でふざけながらジョヴァンニたちの所へ行った。

イザベラは心から、この従弟たちは命と同じくらい大切な、かけがえの無い宝だと思った。


その夜、イザベラは上機嫌で母にそのことを話した。母は黙って奥深い目つきで聞いていたが、やがて静かに言った。

「あのね、イザベラ、アルフォンソから大変なことを聞いたの。

あの4人が明日、マントヴァの秋祭りで見回りをするんですって。お祭りの会場を4つに分けてそれぞれ分担を決めてね。フランチェスコ様が現れないか、見張るつもりらしいの。決して貴女に会わせない、と言っているんですって。」

イザベラはうなだれて自分の部屋へ行った。

窓から星空を見上げながら、イザベラは物思いに沈んだ。今にして思えば、従弟たちが今日、一番良い服を着てやって来たのは、彼らの切なる訴えだった様な気がした。それを思うと、イザベラは涙がにじんできた。

とても明日マントヴァに行くことは許されない様な気がした。


「イザベラ、早く起きて。」

翌朝、まだ暗いうちにイザベラは母に揺り起こされた。

「ベアトリーチェが熱を出したの。それで、私は今日ついて行けないから、チェチーリアたちと一緒に行ってちょうだい。」

チェチーリアは、イザベラより一歳上の従姉である。

「お母様、今日はやめようかと思っているんです。」

イザベラはうつむいて言った

「何を言っているの。さあ、早く起きて。マントヴァは遠いのよ。チェチーリアたちはもうすぐ出るんですって。」

母にせかされてイザベラは起きた。

「ねえ、見て。毎年秋祭りは寒くなるから、今年は貴女にいいものを用意したの。」

「お母様、また何か作ったの?

いやだわ、こんなの派手過ぎるわ。」

侍女の差し出した箱の中には、真紅のマントが入っていた。

「そんなことないわよ。 ちょっと着てみて。 ほら、よく似合うじゃない。」

母は目を細めてイザベラの姿を見た。

知らないうちに母がチェチーリアに頼んでしまったので断ることも出来ず、イザベラは大急ぎで支度をした。

出かける前にイザベラは、ベアトリーチェの寝室に行った。

「どう? 苦しい?」

「ううん、だいぶ良くなったの。」

「ごめんね、私も今日はやめようかと思ったんだけれど。」

「いいのよ。もしもマダレーナおねえ様に会ったら、よろしくお伝えしてね。」

「わかったわ。」

「そのマント、素敵よ。お姉様によく似合うわ。」

病気なのに、こんな思いやりのある言葉を言ってくれるベアトリーチェの優しさに、イザベラは思わず涙ぐんだ。

ベアトリーチェの部屋を出ると、イザベラは大急ぎで馬車の所へ駈けつけた。

もうチェチーリアたちは馬車に乗って、イザベラが来るのを待っていた。

「お母様、行って参ります。」

「気をつけてね。」

イザベラは急いで馬車に乗り込んだ。

「皆さん、よろしくお願いします。」

「はい、伯母様。 行って参ります。」

チェチーリアもイザベラも手を振った。

馬車は動き出した。

まだあたりは暗かった。馬車の窓から目を凝らして見ると、それでもたまに歩いている人の姿が見えた。こんな朝早く何処へ行く人だろう、と空想力は無限にかき立てられ、何とも言えない新鮮な気分になって、イザベラは飽きずに暗い街並みに見入った。

じきに馬車はポー川の岸辺に着いた。イザベラたちは馬車から降りて川船に乗った。先ほどまでの夜の様な暗さは消え、いつの間にかあたりは群青の光を感じる様になっていた。船はポー川を遡って行った。暗い川面のさざ波をイザベラは目を凝らして見つめていた。未明の川を渡る風は冷たかった。イザベラはマントのぬくもりに母への感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

「ねえ、マダレーナおねえ様は、もうすぐお嫁にいらっしゃるのでしょう。」

チェチーリアの声に、イザベラは我に返った。

「そうなの。10月ですって。」

マダレーナはフランチェスコの妹で、イザベラより2歳年上である。

イザベラとチェチーリアと侍女たちは、その後、とりとめもないお喋りを続けたが、イザベラは絶えず明け方の空に心を奪われていた。あっという間にあたりは灰色と青を帯びた白っぽい光で満たされ、岸辺の木々も堤防もはっきりと見える様になってきた。そして、見る見るうちに明るくなり、東の空を振り返ったイザベラは息を飲んだ。薄紅色の空に、明るい紫色の雲が光に縁どられて浮かんでいるのだ。やがて空は曙の光でいっぱいになった。鏡の様な水面は薄紅色を帯びたミルク色になり、船の周りにはなめらかな波が出来てはゆったりと遠ざかっていった。


マントヴァに着いた時は、お昼過ぎであった。

イザベラたちが岸に上がると、船のおじさんは言った。

「私は今日は夕方までこちらにいて、その後フェラーラに帰ります。明日は、毎年の様に午後2時にここへお迎えに参りますが、今日フェラーラにお帰りの方は夕方の5時までに船にお戻り下さい。」

そう言うと、おじさんは派手な上着を着て、自分もどこかへ遊びに行ってしまった。

イザベラは行く当てが無いので、チェチーリアたちについて行くことにした。

イザベラはあまりマントヴァに馴染みが無かったが、チェチーリアは、エステ家とゴンザーガ家が古くからの親戚であるのをよいことにしょっちゅう遊びに来ているらしく、マントヴァの地理に詳しかった。イザベラは7歳の時、クリスマスにゴンザーガ家を訪れたきりであった。

イザベラには今、目にするマントヴァの全てが清新に、全てが尊いものに見えた。マントヴァの木も、水も、草も、空気も、そして大地も、イザベラはマントヴァの全てを愛惜せずにはいられない思いで胸がいっぱいになった。

秋の収穫を祝うお祭りだけあって、あちこちに果物や野菜や穀物の袋、葡萄酒の樽などが山積みされていた。そして、山羊の角の中に花や果物を溢れるほど盛った大小様々な「豊作の角」が随所に飾られていた。さらにあちこちには色とりどりの柱が立てられ、沢山の小さな旗が澄み切った秋の空にはためいていた。その旗のいくつかには、見覚えのある黄金のライオンと黒い鷲が描かれていた。

聖ジョルジョ祭と同じく、道の両側には無数のテントが建ち並び、鮮やかな色の衣装に身を包んだ人々で何処もごった返していた。賑やかな音楽が流れてくるのでそちらの方に行ってみると、広場では晴着を着た少年少女たちが豊作を祝って踊っていた。それが終わると、今度は晴着の子供たちが登場し、昔の農家の歌や糸紡ぎ歌を歌った。イザベラは糸紡ぎ歌の多様さに驚いた。この国では毛織物が重要な産業なのである。

紫や黄緑や様々な色の葡萄の山が随所に見られ、甘酸っぱい香りがあたり一面に漂っていた。フェラーラよりも内陸にあるマントヴァでは既に秋が深く、木々はもう紅葉していた。

イザベラは人混みの中でチェチーリアの姿を見失わない様、懸命について歩いた。そうしながらもイザベラは、あたりにフランチェスコがいないか、気になった。時折り、はっとして振り返ったが、いずれも人違いであった。

チェチーリアと一緒にイザベラは何件のお店に入ったか、自分でも驚くほどだった。チェチーリアに誘われるままにスパゲッティ、ジェラート、ピッツァ、ジュース、氷水・・・母が見たらびっくりする様な羽目の外し様であった。


4時過ぎになったので、イザベラはチェチーリアに言った。

「もうそろそろ行かないと、お船が出てしまいますわ。」

「あら、貴女、お帰りになるの? 私、これからマダレーナおねえ様に会いに行って、今晩はあちらで泊まるの。貴女もいらっしゃいよ。」

「えっ、でも。」

「いらっしゃいよ。」

「でも、妹が病気なので。」

「そう、残念ね。でも、お気が変わったら、すぐいらしてね。待ってるわ。」

「有難うございます。 皆様によろしく。」

チェチーリアの後姿を見送りながら、イザベラは何とも言えない思いがした。

イザベラは歩き出したが、足取りは力なく、目を虚ろであった。

あとには一人の若い侍女が付き従うだけであった。

「姫様、どうなさったのですか?」

侍女の声にイザベラは、はっと我に返った。

「船着き場は、向こうでございます。」

気がつくとイザベラは、船着き場とは逆の方角に来ていた。

「いいえ、何でもないの。まだ少し時間がありますから。」

侍女はいぶかしげであったが、何も言わなかった。

イザベラは、物思いに沈む自分の表情が、侍女にそれ以上言えなくさせてしまっているのであろう、と思った。


いつの間にかイザベラは湖のほとりに来ていた。

「あっ、この湖は。」

イザベラは顔を挙げた。湖の向こうには、マントヴァのお城がそびえ立っていた。四隅の塔、石の壁、その向こうに見えるドームの屋根。イザベラが7歳の時に見た、そのままであった。

「あの中にいらっしゃるのだわ。」

イザベラは、灯りのついている窓もついていない窓も一つ一つ見ていった。

イザベラは、ふらふらと聖ジョルジョ橋の所まで来た。この橋の向こうがマントヴァのお城の正面である。イザベラはじっと石の壁を見つめ続けた。夕暮れの風が冷たく吹き始めた。

やがてイザベラは静かにきびすを返すと、そのまま立ち去った。


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