第2章 聖ジョルジョ祭
聖ジョルジョ祭が近づいてきた。
フェラーラの国は一年中がお祭り騒ぎで、それがカーニバルと聖ジョルジョ祭の日に最高潮に達するのだ。 人々は、雪の降る二月のカーニバルとは違った思いで、春の訪れを象徴する聖ジョルジョ祭を待ち焦がれた。フェラーラの、一番美しい、一番かぐわしい季節のお祭りを。
九年前、イザベラが初めてフランチェスコと出会ったのも聖ジョルジョ祭の日だった。 船に乗って父と一緒にやって来た14歳のフランチェスコは、当時6歳だったイザベラとお手玉やおはじきをして遊んでくれた。
その後もフランチェスコは何度か、聖ジョルジョ祭の日に単身おしのびでフェラーラに来ているらしかった。
イザベラは、今年は特別聖ジョルジョ祭が待ち遠しかった。 聖ジョルジョ祭のことを考えると胸がいっぱいになった。
今年の野外劇はプルターク英雄伝が上演されるのだ。 イザベラの父エルコレ一世は政治面・文化面ともに優れた手腕を発揮していたが、趣味も多彩で、特に演劇には並々ならぬ関心があった。彼はラテン語をはじめ外国語で書かれた劇を自ら翻訳し、脚色した。
そして、毎年聖ジョルジョ祭には野外劇場を設営し、自ら監督した作品を上映するのだった。
今年のプルターク英雄伝は初めての作品で、父は躊躇したが、母のたっての願いで上演されることが決まったのだ。プルターク英雄伝は、フランチェスコの座右の書であった。
イザベラは、もしもフランチェスコが来るならば、必ず野外劇場に現れるに違いないと思った。
聖ジョルジョ祭の前日、モデナの叔母が二年ぶりにやって来た。
「まあ、ちょっと見ないうちにすっかり大きくなって。
明日は案内してちょうだいね。」
叔母にそう言われてイザベラはほっとした。
毎年聖ジョルジョ祭には母や妹のベアトリーチェと一緒に行くのだったが、そうすると必ず従姉妹たちが合流し大部隊になってしまうのだ。
「イザベラ、よかったわね。 叔母様をちゃんと御案内するのよ。」
「はい、お母様。」
イザベラは、満面の笑顔で頷いた。
その夜はベッドに入ってからもなかなか眠れなかった。 明日のことを考えると胸が熱くなった。
翌朝、イザベラは雨の音で目を覚ました。
急いで飛び起きて窓際に走って行くと、カーテンをかき分け外を見た。
「お祭りはどうなるのかしら。」
空はなべ墨色に雲が垂れ込め、大粒の雨が音を立てて降っていた。プラタナスの木々が大きく揺れているのを見ると、風もかなりある様だ。
しかし、一方、お祭りの準備は着々と進んでいた。沢山の人々がびしょ濡れになりながら、あちこちで小屋やテントを建てているのだ。風に翻るテントを力ずくで抑えつけている人や、材料が届かないのか手持無沙汰に雨の中でしゃがんでいる人もいる。もう出来上がっている点とも幾つかあった。木々には色とりどりの無数の造花が飾りつけられ、ちぎれそうなほど激しく風に翻っていた。
その時、母が入って来た。
「イザベラ、早くこの服を着て。
今日のために作ったの。 本当に、もう間に合わないかと思ったわ。」
「まあ、なんて素敵なんでしょう。」
純白のレースの服を見て、イザベラは思わずため息を漏らした。
「お母様、有難う。」
「さあ、早く着て見せてちょうだい。」
イザベラは侍女たちに手伝ってもらって着終えると、母の前に立った。
母は何も言わずに相好を崩した。
「叔母様をお待たせしてはいけないから、早く来てね。」
母はそう言って出て行った。イザベラは急いで顔を洗い、歯を磨き、侍女に髪を結ってもらうと、鞠の様に階段を駈け下りて階下の食堂に走って行った。
その途端、食堂のテーブルに就いていた叔母も妹や弟も息を飲んだ。
純白のレースの服に身を包んだイザベラは、目の覚める様な美しさであった。
色は抜ける様に白く、大きな瞳は黒水晶の様に澄み渡り、豊かな髪は深い栗色をたたえていた。
聡明さと気品、そして、幼さ、無邪気さ、人の好さが入り混じった表情は、忘れ難い印象を残した。
イザベラは、あまり皆が眺めるので、顔を挙げることが出来なかった。
妹のベアトリーチェは14歳、弟のアルフォンソは13歳。
幼い弟たち、フェランテとイポリートはまだ寝ているらしかった。
父の姿が見えないが、野外劇場の設営に行っているのであろう。
朝食の間もイザベラは窓の外を見つめ続けた。
「まあ、だんだん小降りになってきましたね。」
と叔母が言った。
朝食が終わる頃、遂に雨は小やみになった。 しかし、空は依然、なべ墨色で風は激しく木々の枝を揺すっていた。
「お母様、行って参ります。」
イザベラは元気よく出かけようとした。それを見て若い侍女たちが飛んで来た。
「姫様、今日はこの様なお天気です。馬車でいらっしゃいませ。」
イザベラはうつむいて口ごもりながら
「あの・・・やっぱり馬車ではお祭りの様子がよく見えないので」
「いいえ、それに今日はモデナの奥方様も御一緒ですから。」
イザベラは途方に暮れて母の顔を見た。
その時、横から叔母が
「私なら大丈夫。 やっぱりお祭りは歩いて観た方が楽しいわ。」
と言ってくれたので、イザベラはほっとした。 すると、もう一人の侍女が
「おしのびで大丈夫でございますか? よろしかったら私たちがお供に」
と言い出したので、イザベラは困ってしまった。 その時、母が静かに言った。
「有難う。 でも、本当に大丈夫なのよ。それより貴女方は、後で私たちが行く時について来てほしいの。 ですから、そろそろ支度を始めてちょうだい。」
侍女たちははしゃぎながら蜘蛛の子を散らした様に銘々の部屋へ行ってしまった。
「行って参ります。」
イザベラは晴れやかな顔で出かけた。
外は、ひどい風だった。歩こうとしても体が押し戻されそうになり、道の両側の出店のテントも風が吹くたびに大きく揺れていた。
「嵐が来るのかしらね。」
叔母が言った。
「思い出すわ。昔、貴女がモデナに来ていた時、ひどい嵐があったわねえ。」
「はい、よく覚えています。」
「あの時、お家を遠く離れて、窓を打つ雨や風の音に弟さんたちはみんな泣き出したけれど、貴女だけは泣かなかったわ。あれは何年前のことかしら。」
「もう7年前になります。叔母様のところでお世話になりましたのは、私が8歳から10歳の時でした。あの御恩は一生忘れません。」
「まあ、そんな。私の方こそ、とっても楽しかったわ。私はよく貴女と一緒に寝たわね。」
イザベラもまざまざとあの頃のことを思い出した。
それは1482年、イザベラが8歳の時であった。 ローマ法皇シクストゥス四世の甥ジェラロモ・リアリオがフェラーラに目をつけ、法皇とヴェネツィアを味方に引き入れて、フェラーラを解体すべく宣戦布告してきた。
これに対し、イザベラの父 フェラーラ公爵エルコレ一世はフェレンツェ、ナポリ、ミラノの支援を受け、ここにフェラーラ戦争の火蓋が切って落とされたのであった。
戦況は悪化し、ヴェネツィアの軍隊がフェラーラに攻め込み、エルコレ一世は子供たちをモデナに避難させた。
その直後、フェラーラは最大の危機を迎えた。 エルコレ一世の病臥である。
彼は持病の痛風が悪化し、まさに死の淵に瀕していた。
しかし、その時、イザベラの母 エレオノーラ公妃がフェラーラの国民に向かって、祖国を守るため戦うことを涙ながらに訴えた。その言葉に国民は奮い立ち、フェラーラは戦い抜いたのである。フェラーラの国民は、自分たちの国土を守るため、自ら武器を持って立ち上がり、押し寄せるヴェネツィア・法皇連合軍に立ち向かっていった。
そして、遂に1484年、「バニョロの和」によりフェラーラ戦争は終結し、フェラーラは滅亡を免れたのであった。
1483年イザベラはモデナで熱を出した。すると、それを聞きつけフランチェスコは、モデナに手紙とお見舞いの品を送ってきた。そのお礼状の中で次の様な一節を書いたことを、イザベラは今でもはっきりと覚えている。
「御手紙とプレゼントを見ました途端、私はすっかり病気が治ってしまいました。でも、私の病気がいつまでも良くならない様ならフランチェスコ様がモデナまでお見舞いに来て下さる、とお聞きして、私は、もう一度病気になりたいと思いました。」
思い出に浸っていたイザベラは、叔母の声に我に返った。
「ねえ、毎年スキファノイア宮殿の近くに氷水のお店が並ぶの。何と言っても、私、あれが一番楽しみよ。」
叔母はそう言って、スキファノイア宮殿の方角へ向かって歩き出した。
フランチェスコが現れるに違いない野外劇場に、イザベラは早く行きたくてたまらなかったが、今日は叔母はお客様なので、わがままを言ってはいけないと思っておとなしくついて行った。
「ねえ、あの戦争の時、妹さんはナポリにいたのでしょ?」
「はい、ベアトリーチェは10歳までナポリにいました。
私が3歳の時、母は私と2歳のベアトリーチェと1歳のアルフォンソを連れて、ナポリへお里帰りしました。」
「ああ、そうね。エレオノーラ様は、ナポリの王女でいらしたんですものね。
その時じゃなかったの?エレオノーラ様の弟君のアルフォンソ様が貴女を見て
『なんて可愛い子なんだろう。姪でなかったらお嫁さんにするのに。』
っておっしゃったのは。」
イザベラは、うつむいて微笑んだ。
「その時ナポリの祖父が、私かベアトリーチェのどちらかをナポリに置いて帰る様にと母に言ったんです。人質的な意味もあったので、母は反対しましたが、あまり祖父に頼まれたので、とうとうベアトリーチェを預けて帰ったそうです。ベアトリーチェは、それから8年間ナポリにいました。
ベアトリーチェが黒い服を好んで着るのも、あの8年間が影を落としている様な気がして・・・自分は親から見捨てられた、と。」
そう言ってイザベラは、一瞬、悲しげな表情を浮かべた。
しかし、すぐにまたイザベラは、叔母をもてなしたい一心でお喋りに興じた。そうしながらもイザベラは、目だけは注意深くあたりを見ることを怠らなかった。すれ違う人や、道の両側の出店の中の人々の顔を、イザベラは一つ一つ見ていった。
「じゃあ、あのニッコロ・デステ殿の夜襲があった時は、妹さんはもうナポリにいたの?」
「いいえ、あれはベアトリーチェがナポリへ行く前の年の出来事だったんです。」
それは1476年の或る夜のことであった。
エルコレ一世の甥ニッコロ・デステが武装した兵士の群れを率いて不意に宮殿になだれ込んで来たのである。その時、公爵は不在で、公妃エレオノーラは生後間もないアルフォンソを抱き上げると、二人の侍女にイザベラとベアトリーチェを抱かせ、宮殿の地下道を走りに走って間一髪、隣の城砦に駈け込んだのであった。
こうして叔母とお喋りしながらもイザベラは、自分がどんどん野外劇場から遠ざかっていくことを感じて、たまらない気持ちに駆られた。しかし、イザベラは気を取り直し、今は一刻も早く氷水のお店へ行き、その後、叔母を野外劇場へ引っ張って行こう、と必死で足を速めた。
「まあ、貴方、今年もなさっているのね。」
叔母の声にイザベラは振り返った。叔母は出店の店主と話をしていた。
「これは、これは、モデナの奥方様。」
見るからに人の好さそうな店主は恭しく一礼した。
「いいのよ、今日はそんな堅苦しいことなさらないで。
今、氷水のお店を探していたんですけど、そうね、じゃあ、その前にこちらに入ろうかしら。」
叔母はイザベラに向かって手招きした。イザベラは思わずため息をつきかけたが、慌てて背筋を伸ばし、微笑んで見せた。
売店の中には簡素な木のテーブルと椅子しか無かったが、店主はその中で一案きれいなテーブルを探し、叔母に丁重に椅子を勧めた。そして、イザベラにも椅子を勧めてくれたので、イザベラは店主の顔を見上げ愛想よく微笑んだ。その瞬間、店主ははっとした様子でイザベラの顔を食い入るように見つめ、慌てて最敬礼すると出て行ってしまった。
スパゲッティが運ばれて来ると、叔母は子供の様に
「まあ、いいにおい。」
と言って、フォークを取った。いつもなら、こういう時一番はしゃぐのはイザベラだが、今日は胸が詰まる思いがした。しかし、それを見せまいとしてイザベラは必死で笑みを浮かべた。
叔母はまた話し始めた。
「じゃあ、ミラノのロドヴィコ様との御婚約の時も、御本人はナポリにいたの?」
「はい、あの時ベアトリーチェはもうナポリに行って居りました。父はナポリに急使を送って祖父の承諾を取り付けたんです。」
「あれは、随分 昔のことね。」
「ベアトリーチェが5歳の時でした。」
「まあ、そんなに小さかったの? あの時、ロドヴィコ様は28か29歳くらいの青年でいらしたわ。 それはそうと、あの縁談は確か、初めは貴女にと言って来たんじゃなかったの?」
「はい、でも、その一か月ほど前に私はフランチェスコ・ゴンザーガ様と婚約して居りました。それで、父の提案により、ベアトリーチェとのお話が決まったのです。」
そう言いながらもイザベラは、目の前を行く人々の顔を一つ一つ見続けた。時間が経つにつれ、だんだん人の数が増えてきたのが感じられた。イザベラは、フランチェスコが通らないか、目を凝らして見続けた。
食事を終え、店主に挨拶して店を出ると、空はなべ墨色が薄くなって、白っぽい灰色の雲に覆われていた。風も少し弱まった様だが、去年とは違って肌寒かった。それでも、朝とは比べ物にならないほどの沢山の人々がくり出してきた。男性も女性も子供も老人も、様々な色の様々な衣装に身を包んでいた。
そんな中で、純白の服を着たイザベラはよく目立ち、すれ違う多くの人々が思わず見ていった。そのたびにイザベラはうつむいた。髪が風に吹きあおられて目茶苦茶になっているらしかったが、イザベラはもう気にしないことにした。イザベラは必死で足を速めた。
道の両側には、色とりどりの造花や看板で飾られたテントや小屋が無数に建ち並んでいた。それらは、ほとんどが売店で、昨夜から今朝にかけて建てられたものだった。スパゲッティ、ピッツァ、ジュース、果物、リボン、おもちゃ、櫛、花かんざし、テーブル掛け、壁飾り・・・目もあやに様々な品物が並んでいた。叔母は珍しそうに、その一つ一つに足を止めて見入った。そのたびにイザベラは我慢強く待った。
イザベラと叔母は、もみくちゃになりながらスキファノイア宮殿近くの氷水のお店を目ざした。しかし、お祭りの敷地の最南端に位置するスキファノイア宮殿は遠かった。道々叔母は足を止め、何度となく売店の店先を眺めた。
そして、やっと目ざす氷水のお店に着いた時は、既に三時を過ぎていた。イザベラは、もう今から野外劇場へ行っても間に合わない、と泣きたくなったが、それでもとにかく行ってみようと思った。
氷水のお店を出ると、イザベラは初めて言った。
「叔母様、まだほかに何か御覧になりたいですか?
あの・・・実は、野外劇場で、父が監督致しましたプルターク英雄伝をやっているんです。出来れば、それを観に行きたいんですけれど・・・」
「まあ、それは何時までなの?」
「四時までです。」
「じゃあ大変。 急がなきゃ。」
叔母は空に早足で歩き出した。イザベラは必死で神様に祈りながら歩いた。
沢山の人々でごった返す道をイザベラも叔母も、人をかき分けかき分け無我夢中で野外劇場を目ざした。
人ごみの中でイザベラは、何度も叔母を見失いかけた。
「こっち、こっち。」
「あっ、叔母様。」
イザベラは全身の力でそちらへ行こうとしたが、押し戻され押し戻され、少しも体が進まなかった。
「ああ、もう間に合わない。」
イザベラは泣きそうになりながら、人の隙間を無理矢理進んだ。
「あとちょっとよ。急ぎましょ。」
叔母も必死だった。
「駄目だわ、もう。」
イザベラは目の前が暗くなりかけた。
「あっ。」
不意に叔母が叫んだ。
「間に合ったみたいよ。」
遠目にも、野外劇場の舞台の上で戦の場面が繰り広げられているのが見えた。
イザベラも叔母も駈けだした。
野外劇場の入り口まで駈けつけた時、突然、中から若者が飛び出して来た。
「フランチェスコ様だわ。」
イザベラは心臓が止まりそうになった。
しかし、次の瞬間、イザベラは分からなくなった。
「フランチェスコ様なのかしら。」
目を凝らして見ると、その若者はフランチェスコの様にも見えるし、違う様にも見えた。イザベラは必死で若者を見つめた。見つめられて、若者は入口の看板の所で拳を握りしめて仁王立ちになっていた。
叔母に呼ばれてイザベラは我に返り、中へ入った。
そして、出入口に近い一番後列の席に座った。
その時、イザベラははっとした。何処にいたのか、従兄たち、ジョヴァンニとステファノとエンリーコが急に現れ、その若者の周りに寄って来て若者を取り囲んだのだ。
「やっぱりフランチェスコ様なのかしら。」
イザベラは、あんなに言って叔母に来てもらったのだから、叔母の前だけでも劇を見なくては申し訳ない、と思いながらも、どうしてもすぐにそちらを見てしまった。 若者は相変わらず同じ姿勢で仁王立ちになっていた。
と、若者は急に駈け込んで来て、イザベラのそばの席の人に話しかけた。なんとそこにはルチオが座っていたのだ。若者はルチオに話しかけながら、顔はこちらに向けていた。 イザベラは、真っ先に眉を見た。あのつり上がった太い眉とは違い、随分ぼわっと広がった雲の様な眉だった。イザベラは、はっとして若者の胸を見た。しかし、そこには紋章は無かった。イザベラは目を見た。若者は目を振り子の様に揺らせ、決して一点を見ることが無かった。
「違うのかしら。」
その時、エンリーコが走り去るのが見えた。そして、そのままエンリーコは戻って来なかった。
若者はまた駈け出して行った。やがて独り戻って来ると、今度は最後列のイザベラの席にほど近い所で仁王立ちになった。
「あっ、あの手は。」
握りしめた若者の手の角度が、図書館で見たフランチェスコの手つきと寸分違わない様に見えた。
「やっぱりフランチェスコ様なのかしら。」
若者は横顔を見せていたが、イザベラと目が合うと慌てて違う方を見た。
上の空のうちに劇は終わった。
叔母にお礼を言いながら外に出ると、イザベラはもう一度振り返って若者を見た。その途端、若者は雪割草の様な蒼白の顔になってうつむいた。
翌朝、叔母はモデナへ帰って行った。イザベラは、叔母の馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。叔母もいつまでもハンカチを振っていた。
その夜、イザベラは昨日のことを一部始終母に語った。母はきっぱりと言った。
「それは、フランチェスコ様です。
フランチェスコ様は、あの暴風の中を朝からずっと野外劇場で待っていて下さったのだわ。」
「それならお母さま、どうしてあんな格好で・・・いくらおしのびでもひど過ぎます。もしもフランチェスコ様なら、私に全然敬意を払って下さっていません。」
「あのね、イザベラ、フランチェスコ様は二つの訳があって、そんな恰好でいらっしゃったのだと思うわ。
先ず一つ目は・・・そうね、これは後回しにしましょう。
もう一つは、貴女が身なりとか外見にとらわれる人間かどうか確かめたかったのでしょう。図書館で貴女の人となりは大体お分かりになったはずだけど、今一度そのことを確認なさりたかったのでしょう。」
「えっ、そんな・・・それで、結果はどうだったでしょう?」
「もちろん、合格よ。貴女はそんなことで人に対する態度を変える子じゃないもの。」
「本当?」
イザベラは満面の笑顔になった。
「それで、第一の理由というのは何ですか?」
「このことは貴女に言わないでおこうかと思ったのですけれど・・・
アルフォンソが聞かせてくれたんだけれど、ジョバンニやエンリーコたち、貴女の4人のあの従弟たちがね、最初にフランチェスコ様が図書館にいらっしゃった直後に、貴女の婚約のことを初めて知ったらしいの。もうとっくにみんな知っているものと思い込んでいたけれど、あの子たちはまだ幼かったから何も聞かされていなかったのね。それが、思いもかけないことから突然わかって、ショックを受けたらしいの。
そして、
『4人でこの縁談を壊そう』
と誓ったんですって。
その理由がね・・・あんな浅黒い人はイザベラに合わない、と言っているんですって。 それから、イザベラは有名な先生でも舌を巻くほどラテン語が上手いのに、一体どこから聞いてきたのか、フランチェスコ様は幼い時から先生方に
『この若君を机に縛り付けておくのは至難の業でございます。』
と言われて母上に叱られた、とか、あの御方は戦しか出来ない、とか目茶苦茶言っているらしいの。
それでね、ここが可愛いの。
最後に、一番年下のルチオがぽろっと
『壊した後でどうするの?』
と言ったんですって。 そしたら急にみんな、しゅんとなって黙ってしまったらしいの。」
そう言って、母は目頭を押さえた。イザベラは黙ってうつむいて聞いていた。
次の日、イザベラは数日ぶりに図書館に行った。
いつもと違ってイザベラは、大理石の階段を静かに上って行った。
そして、「ラテンの部屋」の樫の扉を開けた時、後ろからルチオがやって来るのに気がついた。イザベラは、ルチオのために扉を開けて待っていた。やにわにルチオは、イザベラが支えている扉を足で蹴った。
その音が反響した。
イザベラは、衝撃のあまり口も利けなかった。
あのおとなしいルチオが・・・口数が少ないのはステファノだが、ステファノの中には意固地な一面があることをイザベラは知っていた。それに比べてルチオは本当におとなしい優しい少年だった。イザベラはルチオの後姿を見送りながら、打ちのめされて立っていられない思いであった。
イザベラは、もう帰ってしまいたかったが、気を取り直していつもの書棚の所へ行った。しかし、いつもイザベラが読んでいるヴィルギリウスは、今日はそこに無かった。驚いてイザベラはあちこち探した。
そして、思いもかけずステファノの前に置かれているのを見つけた。しかし、ステファノは読んでいる様子は無かった。
イザベラは恐る恐るステファノに
「この御本、よろしかったら、読ませていただけません?」
と声をかけた。
「いいですよ、もう」
地響きのする様な唸り声が部屋中に響き渡った。生まれて初めてステファノが大声を出したので、イザベラは呆気にとられた。次の瞬間、イザベラは涙が出そうになった。
イザベラは力無くヴィルギリウスを手に取ると、隣のテーブルに就いて読み始めた。ふと見ると、部屋の隅にジョヴァンニがいた。ジョヴァンニはこちらを向かなかった。イザベラは本に目を落としたが、少しも先に進まなかった。
夕方、イザベラが図書館から出ると、空は淡いすみれ色を帯びた薄水色に暮れなずんでいた。日没からとばりが下りるまでの、刻々と変わる夕暮れの光の中でも、透き通った水の様な光で空気が満たされる瞬間を、イザベラはいつも心を震わせる思いで見るのだった。今、折しもあたりはその光で満たされていた。イザベラは、図書館のポーチの石の円柱の間からいつまでも西の空を、うち眺めていた。
イザベラは次の日も図書館に行った。力無く階段を上り、樫の扉を開けたが、今日もエンリーコの姿は無かった。あの野外劇場から走り去って以来、エンリーコはイザベラの前に姿を見せなかった。エンリーコは4人の中でも一番無邪気な少年だった。次の日も、その次の日も、エンリーコは現れなかった。
イザベラは夜も寝つけなくなった。明け方やっとうとうとしても、またすぐに目が覚めた。絶えず頭がぼうっと熱く、めまいがしそうだったが、それでも我慢してイザベラは毎日図書館に行った。しかし、いつまでたってもエンリーコは現れなかった。
そうしていうるうちに、イザベラはとうとう熱を出した。寝ていても少しも心は休まらず、熱はなかなか下がらなかった。
「もう気にしないで。こんなことばかり続けていたら、本当に死んでしまうわ。」
枕元で母が涙声で言った。それでもイザベラは悲しくて寝ながら涙を流し続けた。
数週間後、やっと熱は下がった。イザベラは、力が抜けてふらふらする身体に鞭打ち、数週間ぶりに図書館に行った。そろそろと階段を上り、全身の力で樫の扉を押し開けた。
次の瞬間、イザベラは我が目を疑った。 ちゃんと4人揃ってテーブルに就いているではないか。彼らはイザベラに気づくと、一斉にこちらを見て微笑みかけた。イザベラは、涙がこみ上げてきて、4人の顔がゆらめいて見えた。
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