プリマドンナ・デルモンド 誰も知らないモナリザの秘密
稲邊 富実代
第1章 春
北イタリアの公国フェラーラは、1489年の春のさなかであった。
15歳のイザベラは大理石の広い階段を駈け上がると、いつもの様に「ラテンの部屋」の前に来た。
そして、無数の彫刻が施された大きな樫の扉を全身の力で押し開けると、中からエンリーコの笑い声が耳に飛び込んできた。 イザベラは、思わず微笑んだ。
その時、イザベラは、はっとした。
見知らぬ若者がいるのだ。
エンリーコとジョバンニは若者の正面に、ステファノとルチオは若者の両隣に座って、目を輝かせながら若者の話に聞き入っているのだ。
ジョバンニとステファノはイザベラより一つ年下の14歳、エンリーコとルチオは13歳で、皆イザベラの従弟である。
一方、この若者は18歳くらいにも見えるし、22~23歳くらいにも見えるし、第一、この国の人か否かさえ見当もつかなかった。
イザベラは、不思議な力に吸い寄せられる様にしてそちらの方へ歩み寄った。
次の瞬間、イザベラは釘づけになった。
剛毅と度胸と、ふてぶてしいまでの落ち着きを感じさせるその面構えに、イザベラは「ただ者ではない」と直感した。
イザベラは我を忘れて、その若者の眉間を射る様に見つめた。
若者は、眉一つ動かさなかった。
やがてイザベラは、何事も無かった様にそこを離れた。
部屋の中は春の光でいっぱいだった。
普段は人気(ひとけ)のある図書館も、昼下がりの今は静かだった。
大きなつづれ織りの壁掛けも、そして、天井まで届く栗の木の書棚も、春の日差しの中で午後の夢を見ている様であった。
この図書館は、フェラーラの領主エステ家のもので、イザベラの父エルコレ一世がこの様に充実させたのである。
時は十五世紀、イタリア全土はまさにルネッサンスの春を迎えていた。
そして、中世以来のエステ家の努力が結実し、今やフェラーラは「芸術の花咲く国」として名高かった。
イザベラは書棚からいつもの本を取り出した。
部屋には大きな大理石のテーブルが二つあり、イザベラがいつも使っている窓際のテーブルは今日は彼らに占領されていた。
イザベラはもう一つのテーブルに歩み寄り、そっと本をおろした。 その途端、部屋の中いっぱいに、その音が微かに反響するのが聞こえた。
イザベラは昨日の続きを読み始めた。
しかし、今日は背後の彼らの話し声がどうしても気になり、少しも先へは進まなかった。
やがて、少年たちはフェンシングの話を始めた。
イザベラの背後で少年たちは、とうとう剣を抜いて、図書館という場所もわきまえずその若者に手取り足取り教えてもらっているらしかったが、イザベラは何故か振り返って見ることが出来ず、ただ全身全霊で若者の話に聞き入った。
剣の持ち方から戦場での心構えまで、若者は請われるままに少年たちに語って聞かせた。 その言葉の一つ一つにイザベラは涙が出るほど心を揺さぶられた。
暫くしてイザベラは、足元にジョバンニの羽根ペンが落ちているのに気がついた。
イザベラは羽根ペンを拾い、そっとジョバンニに渡した。
途端に、ジョバンニも若者も話すのをやめ、若者はイザベラの顔を見つめた。
ジョバンニはいつになく満面の笑顔でイザベラの顔を見上げ、いつになく優しい声で
「有難う。」
と言った。
イザベラはどぎまぎして、目を伏せたまま会釈して自分の席に戻った。
やがて、少年たちは後に残り、若者は独り帰って行こうとした。
若者はイザベラのテーブルすれすれに通って行こうとした。
驚いてイザベラは、思わず顔を挙げた。
途端に若者は立ち止まり、ぎごちなく振り返って少年たちに何か話しかけた。
その時イザベラは、はっとした。 若者の胸に紋章が見えるのだ。 目を凝らして見ると、それは黄金の獅子と黒い鷲だった。イザベラは、どこかで見たことのある紋章だと思ったが、どうしても思い出せなかった。
我に返ってイザベラは若者に会釈した。
すると、立ち去ろうとしていた若者は、もう一度立ち止まってぎごちなく振り返り、ジョバンニたちに何か呼びかけてから帰って行った。
その夜、イザベラは毎日の様に母の部屋に行った。
毎晩、寝る前に母にだけ、その日あったことを全てお話しするのだ。
「ねえ、お母様。」
話しながらイザベラは母を揺り起こした。
「ごめんなさいね。 今日は本当に疲れているの。」
そう言いながら、母はまた居眠りを始めた。
春の夜は空気もぬるみ、燭台の光が壁の絵を柔らかく照らしていた。
「今日、図書館で不思議な人に会ったの。」
イザベラは「ラテンの部屋」で会った若者の事を話し始めた。 すると、今までいくら揺り起こしてもすぐに眠り込んでしまった母が、急に目を覚ました。
「何ですって?
今、黄金の獅子と黒い鷲って言わなかった?」
「お母様、一体どうなさったの?」
「それは、ゴンザーガ家の紋章なの。
きっとフランチェスコ様に違いないわ。」
「えっ?」
イザベラは、息が止まるほど驚いた。
今から9年前の1480年、隣のマントヴァ侯国の領主の長男フランチェスコ・ゴンザーガと、エステ家の長女イザベラの間に婚約が取り結ばれた。 その時、フランチェスコ14歳、イザベラ6歳であった。
それから4年後、父の死去によってフランチェスコは18歳でマントヴァ侯爵となった。
「お母様、私、とても信じられません。
フランチェスコ様とはまだ小さかった頃にお会いしただけですけれど、今日の御方がフランチェスコ様だなんて」
「どうして、そんなことがわかるの?
貴女はフランチェスコ様のお顔を覚えていないのでしょ?」
「だって、今日の御方は私に声もかけて下さらなかったわ。
フランチェスコ様なら・・・それとも、私が誰だかおわかりにならなかったのかしら。」
「ねえ、イザベラ、私はフランチェスコ様だと思うの。
そして、貴女のことはちゃんと分かっていらしたみたいよ。
これは私の勘なのだけれど、もしもフランチェスコ様なら、きっと近いうちにまたいらっしゃるでしょう。
あの図書館の同じお部屋に。」
イザベラは驚いて母の顔を見た。 母は遠くを見る様な目をしていた。
一夜明けると、もうそのことは気にならなかった。
今のイザベラには、もっと魂を奪われることが他にあった。
イザベラは、また毎日の様に「ラテンの部屋」へ行ってヴィルギリウスを夢中で読んだ。 イザベラには、ヴィルギリウスの息づかいが感じられる様になり、千五百年も昔の詩人の声が聞こえる様な気がした。
図書館の大理石の階段を駈け上がるイザベラの足取りは、日に日に速く軽やかになっていった。
早く読みたいという思いに胸を弾ませ、15歳のイザベラは広い階段を一気に駈け上がっていった。 そして、大きな扉を力いっぱい開け、「ラテンの部屋」に飛び込むと、いつもの栗の木の書棚からヴィルギリウスを取り出した。
その時、イザベラは、はっとした
「あっ、あの方だわ。」
部屋の隅の小机の所でエンリーコと話しているのは、紛れもなく一週間ほど前のあの若者だった。
イザベラは、母の慧眼に驚嘆し、呆気に取られて若者を見た。
若者は、その瞬間、目だけでイザベラを見た。
イザベラは慌てて目を伏せ、テーブルに就くと本を開けた。
その時、隣のテーブルのジョバンニがステファノに向かって声高に言った。
「フランチェスコさん、あんな所にいるよ。
本にしか関心が無いんだね。」
「あの本は、この図書館にしか無いから。 だからここへ来るんだよ。」
とステファノがぼそっと言った。 無口なステファノが声を出したので、イザベラは驚いて顔を挙げ、ステファノを見た。
その時、部屋の隅からフランチェスコがこちらに向かって走って来るのが見えた。 フランチェスコは目を大きく見開き、上半身を固くして、幼子の様に前のめりになりながら走って来た。 そこには、この前の、あの剛毅な面構えは無かった。
イザベラは、これが当代随一の武勇で知られるあのマントヴァ侯なのかと我が目を疑った。
イザベラとジョバンニの席は背中合わせになっていたが、走って来たフランチェスコは二人の間にやって来て、背後からジョバンニに話しかけた。
イザベラは辞書を取りに行きたかったが、自分の椅子の背もたれのすぐ後ろにフランチェスコが立っているので暫くためらった。
しかし、いつまで待ってもフランチェスコが立ち去らないので、遂に意を決して立ち上がった。
フランチェスコは狼狽し、一瞬、椅子と椅子の間から足を抜こうと試みたが、結局そこに踏みとどまった。
イザベラは、小さな声で
「すみません。」
と言って、静かにラテン語の辞書を取りに行った。
戻って来ると、フランチェスコは同じ所にいた。
イザベラが続きを読もうとした時、不意にエンリーコとルチオが立ち上がり、声を挙げた。
「フランチェスコさん、こっち、こっち。」
「早く、早く。」
見ると、彼らはフランチェスコの両手をぐいぐい引っ張って、部屋の隅の小机の方へ連れて行った。 彼らはそこで本を開いて見せながら、フランチェスコに何か頻りに話しかけていた。
しかし、暫くすると、フランチェスコは彼らを振り切って、またこちらに走って来て、ステファノの隣に座った。 途端にステファノはフランチェスコに背を向けた。 イザベラは驚いて目を見張った。 ジョバンニは一言も喋らなかった。
ふと見ると、エンリーコとルチオが部屋の隅から投げやりな目でこちらを見ていた。
どれほどの時間が経ったであろう。
部屋の中は静かで、背後のテーブルは誰一人喋るものも無かった。
もうフランチェスコは帰ってしまったのであろう、と思ってイザベラは振り返った。
その途端、無言でこちらを見つめているフランチェスコと目が合い、イザベラは慌てて本に目を落とした。
やがて夕方になり、フランチェスコは少年たちと一緒に出て行った。
次の日からイザベラは、「ラテンの部屋」へ行くたびに、フランチェスコが現れないか、半ば無意識のうちに気にする様になった。
大きな樫の扉を開けると、一瞬のうちにイザベラは部屋の中を隅々まで見渡した。
本を読んでいても、人が入ってくるたびにイザベラは顔を挙げる様になった。
しかし、来る日も来る日もフランチェスコは現れなかった。
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