第20話
彼の顔を見上げた私の頬にぽた、と温かいものが触れた。それは少しだけ間を置いてぽた、ぽた、と滴る。恐る恐るそれに触れると、確かにその液体は私たちと同じ赤い色で。
「アスタロト!」
私の叫びに彼は頭を上げる。そしてその指で私の頬についた血を拭った。
「ナターシャ、怪我はない?」
「そんなことより貴方が…」
そう言いかけた時、アスタロトのの視線が逸れた。そちらに振り向くと、彼は炎を纏った手を前に翳して神を睨みつけている。
「無粋だぞ」
【知った事ではない。その女も、勇者も、私の愛を受け入れず貴様の手によって穢れたのだ! 妾の愛を授けるために死をもって魂を還元し浄化しなくては!】
「戯けたことを!」
叫びと共にアスタロトの背中に翼が現れる。彼もまた強い怒りを持って神に対峙した。
「アスタロト、離して」
彼の腕から離れる。そのまま数歩下がると、視界の先に掲げられた闇い炎が見えた。
「貴様、八つ裂きにしてくれる…!」
【ほざいたところで貴様の炎は届かぬ】
一触即発の空気の中、アスタロトの隣にレンジが立った。レンジは無言で大剣を構えアスタロトの隣にいる。
「ナターシャ」
「…何?」
「シールドをできるだけ張って、体を守って。君は何もしなくていい…今、邪魔なやつを消すからね」
彼の声は状況に合わないほど穏やかだ、こちらを絶対に振り向かないことを除けば。
私は「待って」と言いかけてやめた。彼を信じることだけは、やめたくなかったから。
「…はい」
手のひらを前に構える。
「『シールド!』」
その声で戦いは始まった。
自分の前に張った盾越しでも見える。アスタロトは宙を舞い闇き炎の渦で相手の稲穂を焼き払い、レンジが風の壁をすり抜けて相手に傷を与えているのが。一回攻撃する度に飛んでくる火の粉や細かい瓦礫を盾で防ぎながら、私は戦いを見つめ続けた。
しかしすぐ状況は芳しくなくなる。
炎も剣戟も神に傷をつける決定打とまではいかず、次第に風の壁は厚くなり、神を取り囲む稲穂は丈を伸ばし面積を広げていく。神と共に踊るように揺れる稲穂は時に炎を防ぎ時に相手に打撃を与えた。
「…っ」
飛んだ火の粉がカーペットに引火して所々焦げてしまっている。闇い炎は燃えないはずの瓦礫を燃やし、鎌鼬の風が時折それを切り消す。
「!」
厚い稲穂の壁にさえ阻まれるようになったレンジが弾かれて飛んできた。大剣を掴んだままくの字に曲がった体が背中から床に打ち付けられ重たい音を立ててそのまま転がる。
「レンジ…!」
そちらに手を差し伸べようとした時だ。
何かが爆発したような音がした。そちらに視線を向けると瓦礫と共に壁に埋められた黒い翼。
「アスタロト!」
盾から飛び出して走った。途中で靴が瓦礫に引っかかって転けてしまって、無理やり脱いでまた走る。瓦礫の中で彼を見つけると、積もるような埃や砂を払ってその頭を抱いた。
「アスタロト、アスタロト…っ、返事をして、私を見て、アスタロト!」
見おろす顔や体は傷だらけ、あんなに綺麗だった黒髪も翼も乱れて埃だらけで、愛しい貴方がここまでしてくれたのに私はどうして本当に何もしなかったのだろう。
【姫よ、これでわかったであろう。神は祝福を与えるが、王にそれはできぬ。いくら半身であろうと王が、魔物が妾を超えることなどない。今こそ悔い改めよ。さすれば哀れな王の命は助けてやろう】
私は神を睨みつけた。対する神はその表情を悠然としたものに戻している。
「…神よ、お答えください。なぜ魔物を穢れなどと差別するのです」
どんな生き物だって生まれは選べないのに。
【悪しき神は我々を穢す兵として魔物を生み出した。彼らはその在り方が罪なのだ。それは平等であり普遍、根絶やしにしなければ我らの明日はない】
「悪しき神はもう沈黙を貫いている! 私たちは、せめて私たち眷属同士は手を取り合うことができるはずです!」
【そのように混ざり合い穢れた命、もはや我が愛するべき眷属ではない。生まれた端から全て浄化してやるのが良かろうな、その男のように】
「…!」
なんて身勝手な。
自分の思い通りにならないならみんな殺すっていうの?
魔族を悪しきものと決めつけて、私たちを勝手に綺麗ということにして、自分が愛せるかどうかで世界を決めるの?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます