第19話
「なんだ…今のは…」
神は沈黙する中、レンジが明らかに動揺している。
普通は稲穂が燃え盛る炎を最も容易く消し止めるなどあり得ない。しかもあのドラゴンですら安易に焼いてしまえる炎を堰き止めるのは容易ではないだろう。それを今神はやってのけた。
私はレンジの動揺に釣られるようにして息を呑む。アスタロトのあの炎でさえ防げてしまう神の権能に少し畏怖を覚えた。
「…ねぇ、アスタロト。アシュトレト様が半身ってどういうこと?」
前をまっすぐ見据えつつ、呟くように問う。
「そのままの意味だ。奴と僕は鏡の存在、僕が炎で破壊するなら向こうは舞いで恵みをもたらす」
彼もまたこちらに向くことはなかった。
私たちが見据える神に変わりはない。優雅に宙に浮き、その目を閉じて私たちの前にいる。時折手持ち無沙汰な様子で僅かに舞っては姿勢を戻す仕草を繰り返していた。
【我が眷属、王女たるその身よ。今であれば汝を赦そう。穢れし我が半身を捨て妾の信仰の元に帰るのだ。さすれば汝の両親も解放されこの混乱も収まると言うもの】
神は薄目を開けて私を見ている。だけどただ見ていると言うよりは見下しているような印象を覚えた。私はその姿に一つ呼吸を置いて口を開く。
「なんですって?」
二人が守ってくれる腕を掻き分けて一歩前に出た。見下すようなその視線をまっすぐ見てその前に立つ。
「誰の恋が醜く穢れて哀れですって?」
許せない。神であろうと。
この恋に穢れなんてない。
「彼をただ穢れと捨て去る貴女にはわからないでしょう。彼をただの魔域の王と捉える貴女にはわからないでしょう」
傲慢で人を人とも思わない神ではわかるまい。
彼がどれだけの苦労を重ねてきたか。
彼がどれだけ誠実であったか。
「神よ、確かに神と王は違うでしょう。ですがそれだけ眷属との距離も違いますわ。アスタロト王はここまでの経験を通して、以前にも増して魔域と我らが世界の和平に尽力してくださると決めてくださいました。ただ上で見もせず私たちを支配し彼らを一方的に見下す貴女とは違う」
前を見て、視線を逸らしてはいけない。震える足を押さえつけてでも、神に逆らう恐ろしさを堪えてでも。
これだけは、譲れないから。
「彼を、彼自身を汚れていると言うのなら…貴女の眼は曇り狂っている。貴女の眷属への愛は歪んでいる」
神は答えない。
「愛と豊穣の女神アシュトレトよ。命とは差別されるべきものですか? 命とは見比べられるものですか? 私は違うと考えます。命とは、皆平等に裁かれ、愛されるべきですわ。その先を作っていくために、私たちは結ばれたい」
神は答えない。
「貴女がもし彼をまだ穢れていると言うのなら、私は貴女を信仰できない。神と道を違えてでも私は私の道を作る」
その時神は、また手を挙げた。
「!」
薙ぎ払われたその手からは再び鎌鼬が牙を剥く。防御が遅れた私は、確かに死んだと思って身をすくめた。
「…?」
何もないことに驚いてゆっくりと目を開けると、私の目の前には。
「レンジ…?」
剣を抜いたレンジの姿があった。彼があの鎌鼬を払ってくれたのだろう、後ろから見える肩口が少し切れてしまっている。
「神よ、御前にて剣を抜くことをお許しください。しかし俺は約束したのです、彼女たちと無事に旅を終えると」
レンジが動いたことでか、今までの落ち着きが嘘のように神の挙動が乱れた。落ち着いた印象の髪は体と同じく宙に浮くように広がり、その目には少なからず怒気を宿している。
【勇者よ、汝の役目を忘れたか】
「いいえ神よ。俺は初めから貴女に言いました『必ずや平和を取り戻してみせます』と」
【それは魔族の殲滅によってなされる。それ以外の道などない。人は魔族に侵され、住処を失い、あの蛮族どもに命を脅かされているのだぞ】
「それは違います」
その声は、後ろから聞いていても力強く芯のあるもの。その声でレンジは神を否定する。
「俺はこの旅で人も魔族も、様々に出会いました。時に敵対し、時に協力する人間と魔族は確かにいる。ナターシャ姫の言う通り、命は平等なのです。平和は協力できる可能性を広めるところから始まると考えます」
【…】
神はわなわなと震え声も出ないように見えた。再び手を挙げるとそれを何度も振り下ろし、鎌鼬を幾重にも送り出す。
「シールド! 半球の領域で我らを守れ!」
鎌鼬は乱雑に放たれたのか必ずしもこちらに当たるとは限らず、外れた鎌の切り口は教会のあちこちを破壊する。私たちは半球の盾の中で破壊の振動に構えながら彼が叫んだ。
「ナターシャ! あんな風に啖呵切ったら危ないじゃないか! レンジも乗っかるな!」
「…だって貴方を馬鹿にしたから」
「すまない、つい…」
二人して怒られてるけど私は悪くない。アスタロトを馬鹿にしたあの神が悪い。
「っとにかく! 次の一手を考えないと…」
そう口にした瞬間、耳を劈くような音を立てて盾が壊れた。反射的に全員が神を見ると、目の前の存在は美しい女性の面影を消し去り、その表情は怒りに狂ったそれへと変貌している。
怒りと怨念を孕んだオーラはそれだけで壊れた建物の破片を宙に浮かせ、神の周囲を守る稲穂は神自身が生み出し続ける風で強く靡いていた。そして神はその歪んだ口を開く。
【我らの眷属である人間と悪しき神々の眷属たる魔物共が和平を築こうなどと!】
その叫びは教会の天井を粉々に吹き飛ばし、全ての窓ガラスを割った。アスタロトは急いで私を抱きしめて瓦礫から身を挺して守ってくれる。
「!」
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