第15話

 何も答えられない私に対してアスタロトは一度私の肩を掴んだまま離れると、いつもの昏い瞳で私を見て、そしてそのまま笑った。

 

「だってそんなに求めてくれるなら、もう遠慮しなくていいんだから!」

 

 その瞳は確かに昏いままなのに、表情はこの上なく喜んでいる。私は状況が理解できなくて、何も言えない。

「確かに人間から見て魔物は恐ろしく、魔物から見て人間は理不尽だ。君の言う通りどちらにも善悪があると、今日のことで僕は感じた。でもだから何?」

「…?」

「僕はナターシャだけを信じてるし愛してる。他のどんな存在に出会っても君より信頼する人も魔物もいないし、君がいてくれるならそれ以外が滅んで、そのさきで二人揃って衰弱死したっていい。父上の遺言は所詮遺言でしかないんだから」

 それは駄目よ、とその瞬間に口から出そうになった。でも彼の言葉は終わっていないので口を噤む。

「僕は怖かったんだ。君が人間のルールで結婚するなんて言い始めて、ましてや一人で行こうとするし…母様を思い出した。君も理不尽なのかと不安になったよ」

「それは…ごめんなさい」

 あぁ、そこにも自分勝手がある。貴方を幸せにできる私に私は…。

「でももういいんだ。君がこんなに僕を愛してくれてるって、僕を独占したいんだってわかったから。君のその気持ちに応えるためだったら、僕はなんでもできる!」

 アスタロトは嬉しそうだけど、私は本当にこれが愛なのか考えていた。愛とはきっと、互いの信頼の上に成り立って、互いを慈しむからそこに形作られる。貴方も私も間違っているのに、これはきっと執着なのに…これも愛なの?

「これが、この気持ちが…綺麗な愛じゃなくても?」

 彼は同じことが言えるのかしら。

「僕はナターシャの愛が好きだよ。ナターシャの執着が好きだよ。ナターシャがどんな子でも閉じ込めて僕だけ見てほしいくらい好きだ。僕だけ見ていて欲しいし、僕のことだけ考えて欲しい、今の君のその視線が、僕が君にしているのと同じことなんだよ」

 彼が、アスタロトが私の好きなあの昏い目で、嬉しそうに笑って私の有り様が好きだと言っている。

「それは」

 嘘みたいで、現実味がない。夢みたいに都合がいい。嘘だと否定したくなるほど。

「僕はずっとナターシャの気持ちがわからなくて怖かった。どうして僕に人間のことを勉強して欲しくて、どうして僕に改めて選んで欲しくて、どうしてそんなにも盛大に結婚したいのか。でもやっとわかった。僕と君は同じ気持ちですれ違っていたんだね」

 彼は一度目を閉じると、次に瞳の光を取り戻した。そして真っ直ぐ私を見る。

「不安にさせてごめんねナターシャ。僕に君以外で深い関係になった存在は無いし、試されなくたって君だけだって確かに言える」

「アスタロト…」

「だから、君の言う通り“大っぴらに”結婚しよう。そしたら君も僕のものだって世界中に言うことができるよね。そしたらきっと君も、僕を信じてくれる」

「…!」

 ここまで来て、やっとこの話で心が通じ合えたと思った。

 それは震えるほど嬉しくて、湧き出す泉のように私の心を満たす。

 この泥まで愛してくれる貴方が好きで、好きで好きで仕方ない。貴方が欲しい、貴方が欲しいの。

 愛してるから、愛させて。

「あ…」

 一粒、押し出されるような涙が頬を伝った。

 彼はその頬をそっと撫でて、陶酔した目で私を見ている。

「綺麗だよナターシャ…君は君の思う泥に塗れたって綺麗なんだ。そのままでいて、ずっと僕を求めていて」

「…ありがとう」

 小さく笑う。貴方が私を受け入れてくれることが嬉しかった。

「…今度は果物をちゃんと探しましょうか。長々話していたからもう昼食が出来てるかもしれないわ」

「そうだね、ナターシャ」

 再び歩き出すと、なぜか手を引かれる。アスタロトの方を見ると彼は私の頬を両手で包んでからまた昏い瞳で笑った。

「はぁぁ…綺麗だねナターシャ…見た目だけじゃなくて在り方まで美しいなんて神は残酷なことをする…僕はもう不安になってきたよ。ナターシャは僕のナターシャだよね? 本当にずっと一緒だよね? さっき言ったことは嘘じゃ無いよね?」

「…」

 素直に呆れた。

 私は恍惚な視線を送る彼の頬をできうる限りの力でつねる。アスタロトは驚いたのかいつもの調子にすぐ戻って「いひゃいよぉ」と泣いていた。私は自分の眉間に皺がよるのを感じる。

「貴方はお馬鹿さんなのかしら?」

「ふぇ…?」

 今までで一番怒ってる自信がある。私は彼の頬をさらに強くつねった。

「すぐそんなこと言ってたらさっき喧嘩した意味ないでしょう」

 私はつねっていた手を離すと自分の両頬を包んでいた手をどけて歩き始める。

「くだらない心配してないで行くわよ」

 何歩か進んだらアスタロトが駆け寄ってきて私と勝手に手を繋いだ。

「怒ってるところも綺麗だねナターシャ…」

「知らない。真面目に探して」

 なんてつんけんしながら繋いだ手を振り解けない私も私だ。

「ところで、さっき何で昔の話したのよ?」

「それは…あの時感謝をうまく言葉にできなかったから、今伝えようと思って」

 なんて、彼は俯いて笑う。きっとそれだけが理由じゃないと思うのは容易い。

「…そういうことにしておいてあげる」

 私は少し握った手に力を込めた。アスタロトが何を思っても、そばにいるという代わりに。

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