さよなら中東・前編

 一体どうして、なにを間違えてこうなった?


 アイシャ・アハドは、薄暗い路地をフラつく足取りで進むことを余儀なくされたこの現状に、そう思わずにはいられなかった。

 目が回るような頭痛と吐き気に見舞われ、下水の生温い湿気と生ゴミの臭いで、さらに悪化している。


 それでもアイシャは歩を止めるわけにはいかなかった。

 彼女は目の端に、二の腕から先がない自分の右側を見る。

 足がふらつくのは、頭痛と吐き気のせいか、それとも失ったもののせいか。


「いたか?」


 と、表道の方からそんな声が聞こえた。

 アイシャは咄嗟に身をかがめ、声がした方を伺う。

 男が二人。手には標準的なアサルトライフル。

 アレイコムが契約しているPMCの装備だ


「いいや、見失った」

「ったく、お前のせいだぞ。捕まえる前に位置情報をオフにしやがって。あれがありゃあ、今頃――」

「しょうがねえだろ。自分たちのお楽しみを録画して、上司に見せるような趣味は無いんだよ。お前と違ってな」


 男たちの会話を聞きながら、アイシャは背を丸め、心臓を守るように自分の胸を押さえる。

 自身の鼓動の音が、とてもうるさく感じた。


 もう嫌だ。

 アイシャは状況さえ許せば、そう叫んでしまいたかった。


 彼女は思う。

 意味がわからない。何で腕が千切れてるの?

 何で私がこんな目に遭わなきゃならないの?


 それに、私の記憶の中にある、『あれ』は誰なの?


 車の中で、ニッパーとかいう、カモにしようとしていた男の子と話していた。

 訳のわからない話だった。

 ライカだとか何だとか、私の知らない話。


 私の声で、体で、脳で喋っていた。

 『あれ』はなに?

 私はなにをされたの?


「もう一回、前のブロックを探そう」

「終わったら少し遊ぼうぜ。あの娘、おっぱいもデカかったし、楽しめそうだ」

「うんざりだ。いい加減学習しろ」

「いい子ぶりやがって」


 会話をひとしきり終えると、男たちはゆっくり場を離れていった。

 アイシャはそれを見届け、爪先程度の安堵を手に入れる。

 ひとまずは、よかった。


「う……おぇッ……!」


 だからだろうか、先ほどまで耐えられていた吐き気が、一気に込み上げる。

 我慢できず、胃の中にあったものが地面へと吐き出された。


「ゲホッ、ゲェッ……!」


 嗚咽をし、目端に溜まった涙が溢れたところで、ようやく少しマシになる。

 どうしてこんなことになったのだろうと、彼女は思った。


 いつもと変わらなかった。

 適当に来客をもてなして、いい感じの男がいたら、そいつで小遣い稼ぎをする。

 ただそれだけのはずだった。


 天神とかいう温室フェアリィにはムカついていたが、それだって大したこともない。

 来客の対応をして稼いだお金を貯めて、クラブや何かで散財する。

 今回の定期交流会の接待も、そんなルーティンの一環のはずだった。


 蓋を開けてみれば、これは何なのだろうか?

 腕が千切れるし、意味がわかんない奴に身体を乗っ取られるし。


 極め付けに、今なぜか、殺されようとしている。


 アレイコム附属の病院に入って、広い個室をあてがわれ、それなりの療養生活が約束されたはずだった。

 腕を失ったことはショックだったけれど、フェアリィだからどうせ治るし、それなりに豪勢な病院を見た時は、企業ラヴェルのフェアリィになって良かったと心底思ったものだ。


 当然だ。

 馬鹿な男どもにおべっかを使って、散々遊ばせてやって、ようやく今の生活を手に入れたのだ。

 やっと私は、生まれた頃から私を疎んでいた、スラムの家族たちとは違う存在になれたのだ。

 ――そのはずだったのに。


「なんで、なんでぇ……」


 いつの間にかアイシャはその場に倒れ込んで、そんなことをうわ言のように嘯いていた。

 彼女はすっかり疲弊した脳で、今日のことを思い出す。


 朝のことだった。

 医者に『腕を失った時のことを覚えているか?』なんて聞かれたものだから、素直に頭に別の人格があることを話した。

 気味が悪かったし、精神病の類だったら、さっさと治して欲しかったから。


 けれども、それから間も無くしてあのPMCの男たちが病室にやってきた。

 状況を把握する前に、私は男の片割れに拘束された。

 私を殺すつもりだった。

 周りが誰も騒いでいないところを見ると、きっと病院もグルだったんだろう。


 ――さっさとやれよ。

 ――まあ、待てよ。勿体無い、ちょっとくらい使ったってバチは当たんねえだろ?


 そう言って、兵士の片割れが欲を出してズボンのベルトを外し始めた。

 その隙に拘束が解けて、私はガムシャラにその場から逃げ出した。


 その後のことは、よく覚えていない。

 どうやってここまで来れたかも、曖昧だ。

 わかっているのは、頭痛と吐き気が止まなくなり、立ってるのもやっとな状態になっている。

 と言うことくらい。


「……死にたくない」


 誰にでもなく、しかし腹の底からの本音を、アイシャは呟いた。

 まだこれからだったのに。

 お金を気にせず美味しいものをたくさん食べれて、ビッグになって、ハッピーになって。


 企業に入ったらそんな未来が待ってるって、広告で言ってたのに。

 あれは嘘だったんだ。じゃなきゃ、こんなゲロをぶちまけた道路に寝転がって、死にそうになってなんかいない。


 死ぬんだ、これから。

 ここで野垂れ死ぬか、あの男たちに撃たれるかは知らないけど。

 死ぬんだ。


「嫌だ」


 嫌だ、そんなの。

 まだやりたいこともたくさんあるのに。

 嫌だ。イヤだ。いやだ。

 死にたくない。

 死にたくないよ。


「助けて」


 もう悪いことはしないから。

 お金を勝手に取ったりしない。

 お腹が空いててもお店の食べ物だって盗まない。

 訓練だって真面目にやる。だから。

 だから――。



「いたぞ、天神」



 どこからか、そんな声が聞こえた。

 ついに見つかったか、とアイシャは思ったが、もはや身構える気力も残っていなかった。


「……え?」


 しかし、少し逡巡して、それが聞き覚えのある男の声であることに気づく。

 アイシャは弱々しく、顔をあげてみる。


「……一応、生きてはいるみたいね」


 そこにいる顔を見て、アイシャは形容し難い複雑な気持ちになった。


 天神ナナ、それとニッパー。

 温室育ちの生簀かない女と、カモにしようとしていた男。

 アイシャの中でそう思っていた二人の顔を、絶対に見ないであろう場所で見たからだ。


「え……なん、で――」

「動かないで」


 アイシャの言葉を遮って、ナナは彼女に近づき容態を見る。


「……まずいわね、腕だけじゃない。体調管理デバイスが、オンラインから切断されてる」

「なんだ、そりゃ?」

「健康に必要な成分をネットワーク経由で自動管理できるやつ、らしいわ」

「切られたらフィードバックでこうなるってことか」

「多分ね」


 アイシャはぼんやりとした意識の中で聞きながら、そう言えば、そんなものを入れるよう企業の大人たちに言われたっけな、と思い出す。


「少し苦しいけど、我慢して」


 ナナはそう言って、懐からペン型の注射器を取り出し、アイシャの胸、心臓付近に刺した。


「何それ……うぎっ!?」

「アドレナリン及び色々な鎮痛成分。大丈夫、すぐ立てるようになるわ」


 ナナの言う通り、少しすると頭痛と吐き気が緩和され、何とか立てるくらいの状態になったことが、アイシャにもわかった。


「歩ける?」


 ナナがそう質問するが、アイシャは答えない。

 しばしの間を置いてから、彼女は口を開いた。


「何しに来たんですか。企業に依頼されて、私を探しにでも?」

「……その様子だと、自分の身に何が起こってるかは把握できてるみたいね」

「できてませんよ」


 アイシャは怯えたように言った。


「わけわかんない、腕はちぎれるし、身体は変なのに乗っ取られるし、いきなり殺されそうしなるし……何でこんな目に合わなきゃいけないの? 私何にも悪いことしてないのに」

「その口ぶりからすると、覚えてるみたいだな」


 すると、今度はニッパーがアイシャに対してそう答えた。

 淡々と彼は続ける。


「時間がないから手短に言う。アジア圏第三ラヴェル――要は俺たちが所属してるラヴェルの理事長が、アンタを保護するよう言ってきた」

「は、はぁ? なんでまた……」

「アンタの『変なの』に操られた記憶に、興味があるらしい」


 そう言いながらも、ニッパーは芹沢がこの指示を出した理由について、特に興味を持っているわけではなかった。

 彼個人としては、芹沢の真意はわからないし、外交的なデメリットが大きいのではないかと考えている。


 とはいえ、命令は命令。

 第一、芹沢は当然自分なんかよりも全くもって外交に長けているわけで、そうなるといちいち彼の狙いを探ったところで、栓のないことだ。

 と言うのが、ニッパーの考えだった。


「関係ないわ」


 と、ナナが口を挟む。


「どうにしろ、謂れのない理由で命を狙われているんだもの。助けないわけにもいかないでしょ」


 それを聞いて、アイシャは反吐が出るような気持ちになる。

 ああ、そうだ。この感じ。

 高潔ぶっているというか、自分の理想がいつまでの世間で通用すると思っているんだろうな、ということを察せられる口ぶり。


 いや、少し違うか。

 この女は、自分の理想が世界に通用するのだ。

 それだけの力を持っている。

 化け物みたいな女。


 初め会った時から、妙にナナが鼻についていた理由が、アイシャはようやくわかったような気がしていた。


「悪いけど、あなたに選択肢はない。私たちと来るか、死ぬかよ」

「……えぇ、えぇ、わかりました。じゃあ、是非とも助けてください」


 ナナに対し、しかしアイシャはそう答えた。

 どうにしろ、この地獄から一刻も早く抜け出したいのは事実だ。

 どうやってかは知らないが、今は藁にも縋りたい。

 いくら嫌いな女から出されたものだろうと、その救いの手を払いのける余裕は、今の彼女にはなかった。


「じゃあニッパー、彼女を支えてあげて」

「……ああ、そうだな、了解した」

「今『その背丈じゃ無理だろうしな』なんて思ってないでしょうね?」

「思ってないよ」


 そんなやりとりを終え、ニッパーはアイシャの左腕を自分の肩に回す。


「歩くぞ、いけるな?」

「ええ、まあ」


 アイシャが答えると、三人は静かに路地裏を歩き出す。


「私、これからどうなっちゃうんでしょう……」

「さあね」


 アイシャの言葉に、ナナは答えた。

 彼女は続ける。


「少なくとも、今までみたいな生活ができないいことは確かよ」

「アナタみたいに、訓練して、ランバー落とせばいいんですか? 毎日毎日、そればかり考えて」

「……何が言いたいの」

「別に。助けてもらった恩はそれとして、つくづくアナタとは一緒にいたくないと思っただけです」


 アドレナリンのおかげか、それとも助かるという希望を見出したからか。

 アイシャは先ほどと比べて、幾分か平時の軽口を取り戻していた。


 それに対して、ナナは何も答えない。

 答えられなかった、と言う方が正しいかもしれない。

 暗所故に他の二人には気づかれていないが、彼女は僅かに唇を噛んでいた。


 一緒にいたくない。


 アイシャに対してどうこう、と言うわけではない。

 ただその一言が、彼女の中にある、あるトラウマを想起させた。


 ――化け物

 ――怖い

 ――近づかないで

 ――お前のせいで


 芋づる式に、記憶に関連した言葉が次々と彼女の脳にもたげる。

 この街に来てから、思い出してばかりだ。

 ……いや、それとも、やっぱり私はそうなのだろうか?

 私が化け物だから、結局――。


「ニッパーさん、ずっとこの人と一緒にいれますね。疲れないんですか?」


 アイシャの言葉を聞いて、ナナは身体を一瞬強張らせた。

 耳を塞ぎたくなった。

 ニッパーが何と答えるか、聞くのが怖い。


 彼もやはり、あの人と同じだろうか。

 一緒にいたくないのだろうか?

 当然か。

 こんな、化け物と一緒にいたい人なんて、きっと――。



「当然だ」



 一も二もなく、ニッパーは即答した。

 ナナは思わず、彼の方に顔を向ける。


「えぇ、マジですか。なんで?」

「味方だから」

「はい?」


 意味がわからないと言ったように、アイシャは声を出す。

 ニッパーは続けた。


「天神は敵じゃない、味方だ。彼女はこちらを攻撃するようなことはない。だから一緒にいれる」

「いや、そう言うことじゃなく……」

「じゃあ、どう言う意味だ?」

「もっとこう、性格とか、相性とかの話ですよ」

「考えたこともない。その意味だと、一緒にいて苦ではないな」

「……ふぅん、そうですか」


 アイシャのつまらなそうな生返事を最後に、その会話は打ち切られた。

 ナナはそれに対し、何も言い返さない。


 言い返せなかった。

 そんな余裕など、ニッパーの返答を聞いた時には、当に失われていた。

 先ほどの状態と似ているが、寒気を感じなくなったことが、最大かつ決定的な違いか。


「……で、結局これどこに向かってるんです?」

「すぐにわかるわ」


 アイシャの疑問に、ナナは曖昧に答える。

 その表情は、最初から全く変わらない無表情。

 ただその声はどこか、ごく僅かにだが、先ほどより浮ついているようなものだった。

 彼女は続ける。


「まあ、ウチのラヴェルの水が、アナタにも合えばいいわね」

「どうだか」


 そんなやりとりをして、三人は路地裏の闇へと消えていった。

 時刻はとっくに日を跨いでいた。

 定期交流会、最終日。

 帰りの便まで、あと数時間。

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