桂木シズクの悔恨
桂木シズクがニッパーと別れてから今日に至るまでに、どのような経緯をたどったのか、その詳細を記す必要があるだろう。
彼女が半ば強制的に、キール・セルゲイと共に研究所を脱出したところまで遡ってみることにしよう。
自分の視界から段々と見えなくなっていった研究所が、しかしその距離からでも聞こえる轟音で瓦解したことがわかったとき、シズクの思考は絶望と諦念に支配された。
彼女のその失意をなんら慮る者もおらず、そのままマーティネス社のアジア圏支社に異動となった。
スプートニク社が吸収合併されたため、自動的にマーティネス社の社員となり、そこで研究員として働くことになった。
配属先は、フェアリィ先進研究部門。
言うまでもなく、フェアリィ装備の研究開発を行う、特に需要の高い部門だ。
そこには、キールの口添えでの配属となった。
仮にそれがなくとも、彼女の能力の高さを鑑みれば、そこに配属されるのは変わらなかっただろう。
キールも当然それを見越してはいたが、あえて彼女を推薦した。
被推薦者が活躍すると、それだけ推薦者も会社から評価される。
彼はその評価が欲しかったのだ。
当のシズクは、もはや何の抵抗も示さなかった。
結局、私のやってきたことは何だったのだろうか。
その思考の中、今の現実を見ると、彼女は自分の無力さを打ち付けられているように感じた。
毎晩、寝るときに、研究所時代のことを思い出す。
非合法、非倫理的とわかっていながらも、自分を正当化しながら手を染めた幾多の人体実験。
その結果、手に入れたのは、大企業への移籍と、そのトップ部門への配属というエリートコース。
事実上の栄転とも呼べるものだった。
これはなんだ?
これじゃあ、自分の私腹のために、彼らを犠牲にしたようなものじゃないか。
そんな風に、シズクはいつの間にか、自分が疎んでいた企業人達と同じ道を歩んでいたことに、吐き気を催した。
眠りにつこうとすると、実験中の被検体の悲鳴が、呪詛が、耳元で鳴り響く。
ようやく眠れたかと思ったら、呪詛にうなされ、数十分単位で目を覚ます。
それの繰り返しが日常となった。
眠剤の量が体に支障をきたすレベルになるまで、さして時間はかからなかった。
何が大切なものを守る、だ。
こんな様で、大切なものに――レイに、どの面下げて会えばいいというのか。
私はもう、あの子と一緒にいる資格なんて、とうに失っている。
ある夜、トイレで嘔吐を繰り返しながら、彼女はそう思った。
そんな彼女の、唯一希望の拠り所となったのは、ニッパーの生存の可能性であった。
無論、それはその後の彼の成り行きを知らないシズクからすれば、一粒の砂塵にも等しい希望だ。
だがそれでも、彼女はもはやそこにしか、自分の最後の人間性を保てるものはないと考えていた。
仕事の合間を縫って、人の目を盗み、彼女はライカへのコンタクトを試みようとした。
ニッパーが生き延びて、逃げられたとすれば、それはライカと一緒だろうと、そう彼女は考えたからだ。
しかし、彼女が望んだ成果を得られたことは、今日までなかった。
ライカに――もといトラスニクという軍用戦闘機にデータ送信をするためのシステムは、民間で、ましてや個人でそう簡単に手に入れられるものではない。
ましてライカは、独自のコア・コンピュータを保護するために、通常のトラスニクとは比にならない強度のセキュリティが施されている。
資料や装置は全て研究所にて破棄されてしまったため、ライカと連絡を取るためのシステム環境が完備していない、ということもあり、シズクはたった数キロバイトの手紙を送るために、空いた時間のほとんどすべてを環境構築に費やした。
彼女がやっとの思いでシステムを造り上げ、テストを行おうと決めた、その日のこと。
業務中、キールに呼び出され、彼のオフィスへの出頭を命じられた。
重く、憂鬱な気持ちを胸中に宿しながら、シズクは彼のオフィスのドアをたたく。
「入りたまえ」
ドア越しに、嫌いな男の声。
ドアを開けずに引き返したい思いを抑えて、シズクはドアノブを回した。
「失礼します」
なるべく無感情に努めて、定型句を口に出す。
悪趣味な部屋だ。
シズクはオフィスに入るなり、そう思った。
必要以上に高級な調度品がそこかしこに配置され、棚の上には、会社から貰ったであろう数多くの賞状やトロフィーが飾られている。
功労賞だか、貢献賞だか、特に会社に利益を出した人間に贈られるものだ。
あの安っぽい紙切れと置物を手に入れるために、キール本部長はどれだけの人間を犠牲にしてきたのだろうか?
シズクはそう考えながら、しかし既に自身もその仲間なのだという事実を再確認し、心の中で自嘲した。
「……どうにも最近、仕事に身が入らないようだな?」
キールは机で、何かしらの資料を見ながら、彼女に言った。
回答を求めてのものではないようで、彼はそのまま続ける。
「やる気がないのは君の勝手だが、くれぐれも仕事に響かせないでくれたまえよ」
「申し訳ございません」
「手抜きで作った製品が、妹さんを殺すことになってもいいなら、そのままで構わんがね」
「勤務態度の叱責が、お呼びした理由でしょうか?」
長くなりそうな嫌味に、シズクは思わずそう言った。
そんな彼女の様子を、想定通りと言わんばかりに、キールは冷淡な目で見据える。
「桂木君、以前君が作っていた、トラスニクの試作機のことは、覚えているかね?」
その言葉に、シズクは肝を冷やした。
キールが指すそれは、無論ライカのことだ。
「……当然です。それが何か?」
「今朝がた、本社の方から打診が入ってね。何を考えているのか、本社の人間はあの骨とう品に興味があるらしい」
シズクは自分の通信が露見していないことを祈りながら、キールの言葉を黙って聞いた。
彼の意見に賛成したくはないが、しかしそれには同意せざるを得なかった。
彼女は考える。
ライカの情報をどこまで上が知っているのか、という疑問はこの際置いておくとして。
確かに、マーティネス本社の人間が、ライカに興味を持つ理由など思いつかない。
ランバーを前にして飛べるという特異性は確かにある。
しかし、その理論の提唱者――つまるところ自分を抱え込んでいるのだから、技術を提供するよう、私に直接言えば済む話だ。
わざわざ兵器の方に話を聞く道理もない。
ライカにしても、いくらランバーを倒せるよう調整したとはいえ、あれは兵器としてはまだ使い物にならないはずだ。
完成したのなら、私は胸を張ってプレゼンでもPRでもやってやろう。
けれども、まだ有人飛行向けの調整ができないままプロジェクトが闇に葬られたのだから、あれは未完成もいいところだ。
ランバーは倒せるだろう、あれを十全に操れるパイロットさえいれば。
しかし、あの機動力に耐えられるパイロットなど――人間など、いない。
普通に飛ばす分には何の問題もないだろう。
しかし、ランバーを制圧できるよう、ポテンシャルを最大限に発揮した機動をするとなると、話は別だ。
少なくとも今のままでは、搭乗したパイロットが、中で潰れたトマトのようになるのは間違いない。
あれを実用化したいのならば、長い時間をかけて、人間でも乗れるようにアビオニクスを調整する必要がある。
そうでなければ無理だ。
人間の体そのものを、ライカに適応するよう、改造でもしない限りは。
そんな労力を割いてまで新兵器を開発するというのなら、それこそ上の人間は、利率が安定しているであろう、フェアリィ関連のものに注力するはずだ。
なぜ、今になって?
「全くもって、忌々しい」
シズクのその疑問は、キールの言葉によって打ち消された。
「あの戦闘機をヨコハマエリアで飛んでいるのを見たというのだ」
その言葉を聞いたとき、シズクの思考は一瞬、真っ白になった。
なぜライカが横浜にいるのか、何を目的に飛んだというのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
キールの言ったことが本当ならば、それが指し示すものは、ただ一つ。
ニッパーが、生きていたということだ。
「い、いつですか!? いつ、どんな状態で――」
「ええい、うるさいぞ! 君がそれを知る必要はない!」
シズクは少しでも詳細を知ろうと慌てて聞いたが、それがキールの気に障ったらしい。
乱暴な声で、彼女を強制的に黙らせた。
シズクは納得いかないような顔で、しかし口を噤む。
鬱陶しそうに息を吐き、キールは言った。
「その様子を見るに、まだあの玩具にご執心のようだな――いや、それともあのモルモットかね?」
「いえ、そんな、ことは……」
「まあいい、どうせやることは変わらん」
キールの言葉に、シズクはどういう意味かと思う。
それを考える間もなく、彼は言葉を続ける。
「業務命令だ、桂木くん。あの戦闘機の鹵獲プランを作成したまえ」
「は、はい。あの、ちなみにニッパー――いえ、パイロットに関しては?」
「あのモルモットは不要だ。始末しろ」
にべもなく、キールはそう結論付けた。
それを聞いて、シズクは言葉を失った。
「戦闘機に関しても、鹵獲できそうにないのなら、撃墜しろというお達しだ。どんな手段を使ってもいい。あの不気味な玩具を地上に下せ。この場合も、あのガキは必ず処理するように」
それは事実上、ニッパーの殺害命令だと、シズクは思った。
動悸が激しくなる感覚が伝わる。
やっと見つけた。
生きていることがわかった。
その矢先に、これだ。
なぜ?
なぜ、マーティネス社が、ライカにそこまでこだわるのか。
理由はわからない。
わかることは、マーティネス社はライカを捕まえて、ニッパーを殺すつもりでいる、ということだ。
それだけは、何としてでも阻止しなければならない。
「セルゲイ本部長、お願いします。せめて、パイロットの生命だけは、保護させてください。出なければ、プランは組みません」
「これは驚いた。君が交渉できる立場にいると思っているのかね?」
シズクの懇願に対して、キールはバカにしたような、芝居がかった動作をした。
「命令を拒否してみたまえ。その場合、君の妹さんはどうなるだろうか?」
「……どういう意味ですか?」
「どうだろうな。しかし、たかだか無名の妖精一人、マーティネスはどうすることだってできる、ということは、覚えておいて損はないと思うが」
シズクはそれを聞いて、歯噛みした。
それを見て、もう一押しとでも思ったのだろうキールが、言葉を続ける。
「何を考える必要がある。家族と故も知らないモルモット、わざわざ天秤にかけることも無かろう?」
そう言い終えると、キールは勝ち誇ったように微笑を浮かべた。
シズクはそれに答えられない。
数秒間、沈黙がオフィスを支配した。
「ッ……時間を、ください。やってみます」
シズクはやっとの思いで、そう言った。
キールはそれを聞き、満足そうに頷く。
「いいだろう。期限は明日の定時までだ。いいかね? 上も納得するようなものを出すように」
「……わかりました」
「なるべく急ぎたまえよ。上もどうやら焦っている。強硬策も辞さない、とすら言っていたからな」
その言葉が何を意味するのか、シズクにはわからない。
聞いたところで、キールは教えることは消してないだろう。
彼女はそう確信していた。
「ああ、安心したまえ。これが成功した暁には、妹共々、私が面倒を見よう。君には期待しているよ」
キールは声を意識的に和らげて、シズクを労るように言った。
彼は、挑発でも何でもなく、このような飴を提示すれば、シズクが喜ぶと本気で考えているのだ。
彼自身が、そういった人間だからである。
当のシズクは、キールの柔和な表情に、嫌悪感すら覚えていた。
いや、嫌悪しているのは、この男の同類となってしまった、自分自身に対してか。
どちらかは、シズク本人もわからなかった。
「さて、では早速始めたまえ。もう行ってよろしい」
「失礼します」
シズクはそれだけ言って、踵を返し、オフィスから出て行った。
速足で廊下を歩く。
頭の中は整理がつかず、混濁していた。
ニッパーが生きていた。
そうである以上、彼を死なせるわけにはいかない。
ライカから、彼を引きはがさなければいけない。
彼がどんなにそれを拒もうと、どんなに嫌がろうと。
そうしなければ、彼は企業に殺されてしまう。
少なくとも、企業がライカをつけ狙う限りは。
「ニッパー」
彼女は誰もいない廊下で立ち止まって、そう呟く。
小さい音が反響した。
研究所が崩壊した夜のことを、シズクは思い出していた。
あの夜、私はニッパーに初めて怒鳴られた。
キールに撃たれて姿を消したけど、ライカの下に行ったのは間違いないだろう。
そうだ、死に際になってまで、彼は自分よりもライカを優先したのだ。
ニッパーは、絶対にライカを見捨てない。
たとえ何があったとしても、最期までライカと供に行き、そして、ライカのために何の躊躇もなく死ぬだろう。
それが当然と言うように。
それが本懐だとでも言うように。
「……嫌だ」
それだけは、絶対に嫌だ。
たとえレイのためだとしても。
ニッパーすら殺してしまったら、きっと私は最後の人間性すら失ってしまう。
眠る前の呪詛の中に、ニッパーまで加わってしまったら、私は本当に戻れなくなってしまう。
じゃあどうすればいい?
何もしなかったら、今度はレイが危ない。
マーティネス社は世界有数の大企業だ。
キールはその威を借りているだけに過ぎないが、あの言葉に嘘はないだろう。
私の選択次第で、レイかニッパーが、最悪死ぬかもしれない、ということだ。
「ハハ、ハ……」
シズクは、思わず笑いが込み上げてきた。
精神に異常をきたす前の、防衛本能としての、笑い。
彼女は考える。
これはなんだ?
レイを守るために、全て犠牲にしてきた。
誰も死なない世界になることを夢見て、自分も他人も犠牲にしてきた。
そしてその結果が、これだ。
結果として、私の存在のせいで、2人が危なくなっている。
「私が死ねばよかったんだ」
思わず、そんな言葉が口を出る。
あの日、研究所で、私も一緒に死んでしまえばよかった。
そうすれば、こんなことにもならなかったのに。
こんな時、ニッパーがそばにいたら、私に何と言っただろうか?
あの機械のような女心の分からない、不器用な彼なら、何と――。
『やるべきことは、何も変わらない』
いつか、一緒にいたときに、彼が言った言葉を、ふと思い出した。
「……急がなくちゃ」
再び、足を進める。
そうだ、ここで自責にふけっている場合じゃない。
ここまで来たらもう、ニッパーとライカを引き剥がすしかない。
どんなに恨まれても構わない。
憎んでさえくれたっていい。
それでニッパーが生きてくれるのなら、望むところだ。
彼と、レイが生きるためなら、私は何だってしよう。
そう決めた。
そうして、シズクはいつの間にか廊下を走りだしていた。
自室に戻り、ライカにデータを送信するために。
業務終わりに、シズクは通信システムを完成させ、ライカに対し、どのようなデータも送信できるようになった。
気づけば、日付は当の昔に跨っている。
暗い部屋の窓からは、東側がわずかに明るくなってきているのが見えた。
ニッパーへの手紙の送信を確認し、ライカの強制自動操縦プログラムをアップロードしようとした、その直前のことである。
轟音とともに、部屋が揺れた。
「な、なに!?」
シズクは驚いて、とっさに窓の外に目をやる。
その光景に、シズクは声を失った。
窓から見える、夜明け前の静寂に包まれた街。
その上空に、人間の造ったものでは決してない、異形の飛行物体が、多数。
ランバーが、街に侵入していた。
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