辰巳遼には、言えない言葉があった。

 何故、口に出せなくなったのか、はっきりとは分からない。けれども、報いなのだろうと思っていた。間違ったことを言っていないか、誰かを傷付けていないかと、言葉を飲み込み続けた、代償なのだと。

 それは生来の優しさがあればこそできる配慮で、決して否定されるようなことでも、否定するようなことでもないはずなのだが、辰巳遼という人間はそれを罰だと考えていた。そういう人間だった。

 辰巳遼には、言えない言葉がある。

「リョウー」

 某県、某所。

 とある国立大学の学生食堂で昼食を摂っていた遼は、昔馴染みである山ノ下若菜に声を掛けられた。

「どうかしたの、若菜?」

「今日の夜、暇?」

 対面に腰掛け、そう問い掛けてくる若菜。

「分からない。忙しいかもしれない。何か用事?」

「用事、って言うようなことじゃないんだけどさ、今日の夜、飲み会なんだよね」

「良かったじゃん」

 その一言を区切りにするかのように、遼は残りの昼食を食べ終える。

 若菜は言った。

「それがさ~、良くないわけよ。一人、欠席者が出ちゃったの。男女同じ数で揃えてたのに」

「それは残念だね。誰か、代わりの人が見つかるといいんだけど」

 それは嫌味などではなく、嘘偽りのない言葉だったが、すぐに、

「ボクを誘ってくれてるってこと?」

 と気が付いた。

「さっすがリョウ! そうそう、そういうこと! で、どうかな?」

「何時から?」

「夜の八時から」

「うーん……。ごめん、ちょっと無理かも」

 幼馴染の少女は、そっかー、とがくりと肩を落とす。こういう時、辰巳遼は溜らなく申し訳ない気分になる。

 たとえ、そう。

 たとえ、行けない理由が彼女にあったとしても――だ。

「そっか。リョウ、色々と忙しいもんね」

「ごめんね、若菜」

「ううん! 急な誘いだったし!」

「そっちこそ、バイト、忙しいんじゃないの?」

 若菜は肘を突き、頬を膨らませる。

「そーなのよー。お父さんが死んでから、家族に頼り切りじゃいけない!と意気込んでバイトを掛け持ちし始めたものの、これがもう、忙しくってさー。今日は久々のオフ」

「大丈夫?」

「ありがと! でも大丈夫だよ!」

 次いで、「もう三限始まっちゃう!」と去って行く。

「…………」

 辰巳遼には言えない言葉がある。

 癒えぬ傷となったそれは、痛むことなく、ただ心の底で淀んでいる。







 警察庁警備企画課(チヨダ)特別機動捜査隊、通称、『白の部隊』。

 その第七隊の二人は、ある市の街角にいた。

「白砂さん」

 そう声を掛けられたのは、すらりと背の高い、眼鏡の女だった。

 ポニーテールと呼ぶにはあまりにも短い髪に、鋭い眼光。如何にも美麗、という風ではないのだが、顔のパーツ一つひとつが整っているため、化粧をしていないことが惜しい顔立ちだ。お洒落らしいのは髪を止めている二つのヘアピンくらいのもので、だが、むしろそれが飾り気のない彼女においては浮いてしまっており、奇妙な可愛さを醸し出している。

 白砂杞人。七番隊の隊長である。

「ありがとう」

 礼を告げ、彼女はそれを受け取る。

 袋に包まれた、一振りの日本刀を。

「要りますかね、それ?」

 刀を持ってきた若い隊員の言葉には、「杞憂で終わればそれでいいさ」と応じる。

「でも、知っているだろう? 私の勘は当たるんだ。それも、悪いものばかりな」

「対象に何かあった、とか?」

「あるいは」

 杞人は言った。

「何もないか、だな」

「…………」

 若い隊員は暫く考えていたが、やがて、

「それって何もないことじゃないですか?」

 と応じる。

「そうだな、何もないってことだ。でもな、何もない、ってことが、破滅の兆候だったりするのが、私達の仕事だ」

「なるほど……」

 隊員が告げられた言葉を咀嚼し、飲み込んだ時だった。

 彼等が見張る居酒屋から、一人の男が出てきた。

 いや、違う。シルエットは一つだが、男女だ。どうやら男が酔い潰れた女を背負っているらしい。

 計画通りに。

「……それにしても、あまり気持ちの良い作戦じゃないですね。送り狼みたいじゃないですか」

「うら若き女を酔わせて、家に送るフリをして拉致をするんだから、みたい、じゃなく、そのもの、だ。良い気分じゃないことは確かだ」

「なんだか、犯罪者みたいですよね、僕達」

 溜息混じりの部下の言葉には、「バイト帰りを襲い、昏睡させて攫う方が良かったか?」という軽口を返しておく。

 やっていることはほとんど犯罪であるが、これも正義のため。そして、あの背負われている少女のためのことだ。

 隊長である白砂杞人は、この手段が最適だと判断し、実行に移した。『白の部隊』の中で、『最適の部隊』と呼ばれる第七隊。他に幾らでも迅速な、けれども暴力的な手段があった中で、「飲み会を企画し相手を酔い潰させる」という、迂遠な作戦を取ったのも、彼女等が『最適の部隊』である所以だ。

 杞人は言う。

「後を追うぞ。事前に説明した通り、人のいないところまで行ったらトレーラーに運ぶ」

「了解」

 暗闇に紛れ、『白の部隊』の二人が動き出した。







 異変が起こったのは、そのすぐ後だった。

 金木犀が香る宵闇の道。少女――山ノ下若菜を背負った隊員が、人気のない区画に入る。マスクを着けた市民とすれ違い、

「!?」

 瞬間、隊員が崩れ落ちた。

 有り得ぬことが起こった。

 即ち、それは。

「隊長!」

 ―――超能力。

「私が出る。お前は待機だ」

 白砂杞人を見つけた人影は、素早く少女を道路脇に寄せた。

「何者だ、お前は?」

 正面に立つ杞人に対し、相手は「こちらが聞きたいことだ」と返す。

 両者の距離、およそ五メートル。

「こちらは警察庁警備企画課だ」

「『白の部隊』か?」

「……知っているのか」

 マスク姿の影は応じる。「噂程度は」。

「狙いは」

「どうやら悪い予感は杞憂じゃなさそうだ。……お前は、それも知っているんじゃないのか? その子に、どれくらいの価値があるのか」

「知ってるさ」

 その人影――辰巳遼は言った。

 言えない想いを込めて、こう告げる。

「でも、それはあなた達が思ってるような価値じゃない」

 そう。

 辰巳遼にとって、山ノ下若菜は、特別な存在だった。

 ずっと昔から。

 飲み込み続けた「好きだ」という一言は、最早、口にすることはできないけれど。

 それでも、それは存在しないということにはならない。

 その想いは、確かに心の中にある。

 癒えない傷と共に。

「……いいな。お前みたいな奴、好きだよ、私は」

 あっさりとそう言って、次いで、杞人は平然と構えを取った。

 腰に帯びた刀を左手で持ち、鍔を押し上げて。右手を柄に置いた構え。

 抜刀術の――構え。

「警察庁警備企画課特別機動捜査隊、第七隊隊長として告げる。お前達の人権は停止した。従わないのならば、」

 刹那。

「少し痛い目を見てもらうぞ―――!!」

 高速の抜刀が遼を襲った―――。







 ―――『M資金』というものがある。

 戦後、連合国軍最高司令官総司令部、つまりはGHQが、占領下においた日本で接収したとされる資金、あるいは、その資金を元手に極秘に運用されているとされる膨大な量の金のことだ。

 公式で確認されたことは一度もなく、陰謀論として語られる類のもの、あるいは、詐欺に利用される流言飛語でしかないのだが、この『M資金』が本当に存在している可能性がある、という情報を『白の部隊』は掴んだ。

 山ノ下若菜の曾祖父は米国で経済学を修めており、GHQ二代目局長のウィリアム・マーカットと親交が深く、その中で、山ノ下家では『M資金』に関する情報が秘密裏に伝わっていた、とされる。

 世間的には事故死とされている若菜の父の死も、実のところ、『M資金』を巡る戦いの結果だった。

 そして、若菜の父は自らの死を察して、『M資金』に纏わるデータにアクセスする為のパスを、若菜の生体情報に変えてしまったのだ。

 それは、「生体情報が重要の人間を無碍にはしないだろう」という娘を想う故の行動だったのだが、白砂杞人に言わせれば、愚策でしかない。

 生体情報が必要ならば、裏の人間は躊躇いなく相手を攫い。

 そして、役目が終わればどうするかも、分からないのだから。







 辰巳遼には、言えないことがある。

 一つ。若菜の父が死ぬ一週間前、彼に言われたこと。

『もし良かったら、これから若菜のことを守ってやって欲しいんだ。君のその、特別な力で。君が守りたいと望むならで、構わないから』

 幼馴染の父の言葉に不穏なものを感じ、理由を問い掛けたものの、「気にしなくていいよ」「もしもの話、もし良かったらの話だから」とはぐらかされ、それからすぐ、若菜の父は死去した。

 一つ。自身に、特別な力があること。

 それに気が付いたのは中学生の頃だった。あまり本音を曝け出すタイプでなかった遼は、その代わりのように、日記を付けていた。しかし、ある時、興味を持ったクラスの女子に日記を奪われ掛け、

 その時、はじめて能力が発動した。

「ッ!!」

 遼は大きく後ろへと飛ぶ。態勢を崩す。

 闇夜を切り裂いた斬撃は空を切った。斬り込みは自らを狙ったものではなかったらしい。「威嚇?」。否。

「(―――態勢を崩す為のものか!)」

 顔を上げる。白砂杞人が眼前に迫っていた。

 鞘に納めたままの日本刀。立派な鈍器であるそれで殴り付けられる。しかし、遼はあえて防御せず、クロス気味のカウンターを狙う。

だが、その程度の策は隊長である杞人には通じない。即座に彼女は刀を手放し、それを弾幕代わりに投げ付けながら後退する。刀を、手放した。あまりにもあっさりと。

 その理由はすぐに分かった。

 彼女の右手には、紅い刃が握られていた。

「これが私、『気鬱の血刀』白砂杞人の能力。血液の操作、そして固形化だ」

「……明かして良いのか?」

「ああ。その方が気分が良いからな」

 言って。

 彼女は再び、抜刀術の構えを取る。

 しかし、先ほどとは違う。自らの血で造られた刃に、鞘は存在しない。抜き身の真剣だ。一撃でも喰らえば、致命傷となる。

 対し、遼はこう返す。

「あなたのポリシーに乗ってやれなくて申し訳ないけど、僕は自分の能力を言わないよ」

「気にするな。大体分かったから」

 そうか、と。

 言うや否や、遼は懐からリング式の単語帳を取り出し、後退しながらその紙の束を、夜の闇に放った。

 辰巳遼の能力は――「自らが書いた文章に触れた人間を麻痺させる能力」。

 本音を書き記した言葉に接した相手は、無痛の毒により即座に身体を蝕まれ、その場に崩れ落ちることになる。決して皮肉や嫌味という毒を吐かない遼の言葉が猛毒となるのは、何の皮肉だっただろうか。

 ばら撒かれた単語帳は言の葉の結界となり、夜風に舞う。

 その一つひとつが猛毒であり、遼の真実だった。

「ッ!」

 そして。

 その毒は、辰巳遼の本心であるが故に、遼自身には通用しない。

 無痛の言の葉の中を遼は駆ける。その身を疾駆させる。

 杞人は抜刀術の構えのまま。

 けれど。


「……悪いな」


 勝負は、一瞬で着いた。

 辰巳遼の肩口が、切り裂かれた。

 形容し難い痛みという熱さを感じながら遼は考える。「なんでだ!?」。この距離ならば、斬撃は当たるはずがないのに、と。

 杞人は黙ったまま、血刀を振るい、宙に舞う紙片を吹き飛ばす。

 その時、分かった。

「……飛ぶ斬撃、か……っ!」

「そうだ」

 第七隊隊長、『気鬱の血刀』白砂杞人の能力は、「自らの血液の操作、及び固形化」。その原理は対象を限定されたサイコキネシス。

 念動力である以上、遠隔でも操作ができる。

 抜刀術の構えから刀身に血を滴らせ、刀を振り抜くと共に血を飛ばし、その血を刃とすることも。

「……はは……。最初から、勝てるわけがなかった、ってことか……」

「そうだな。これでも、公安警察が誇る『最高の暴力』の一つだからな」

 辰巳遼の隣を通り過ぎ、手放した刀を回収した彼女は、訊く。

「……この子を、守っていたのか?」

 ブロック塀に身体を預け、眠る少女。

 山ノ下若菜。

 辰巳遼にとって、特別な相手。

 言葉にできずとも、それは変わらない。

 だから、戦ったのだ。

「……守れなかったけどな……。情けないよ……」

「カッコ良かったよ、お前は。……うん」

 良い気分だ、と。

 噛み締めるようにそう呟いた杞人は、部下に命令を下す。

「未練! そこに転がってるアホを背負ってやれ。女の方じゃないぞ、私の部下の方だ」

「了解」

「あと、」

 部下である椥辻未練に背を向けたまま、彼女は続けた。

「山ノ下若菜の生体データは、役に立たなかったな」

「え……?」

「彼女では生体認証を突破できなかったな。他の部隊の奴等にも、伝えてやらないと。別の組織の奴にもな」

「……了解!」

 未練は笑みが零れそうになるのを堪えつつ、撤収の準備を進める。

 金木犀の匂いが香る、十月の夜。

 月の光の下、杞人は訊いた。

「これからも守るんだろ、彼女を」

「……はい……!」

 肩口を抑えつつ辰巳遼は力強く頷く。

 杞人は満足そうに頷いた。

「なら――必ず、守れよ」

 そうして最後にこう呟くのだ。

「……良い気分だ」


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