第89話 秋の社交シーズン 3
「お……」
お父様、お母様と言おうとして、私は喉を詰まらせた。もうこの二人は他人なのだ。私は気力で背筋を伸ばし、二人に対峙する。
「ごきげんよう。ゴールドバーグ伯爵、令夫人」
「アンネローズ……」
お母様……いやゴールドバーグ伯爵夫人は涙を浮かべて私の横に座った。涙を浮かべていても変わらず美しく、嗅ぎ慣れた母親の香水の香りに私は懐かしさを感じると共に、「汚らしい灰色の瞳」や「あれを追い出して」とゴールドバーグ伯爵に言っていた夫人の冷たい声も思い出された。
「アンネ・サンドロームです、夫人」
「なんて酷い……。お腹を痛めてあなたを産んだのは私だわ。愛情も注いで育ててきたつもりよ」
「そう……かもしれませんね。産んでいただいたことは感謝しています。でも、私を最初に捨てたのはお二方です」
「私達は狡猾なあの娘に騙されたのよ。私達も被害者なの。賢いあなたならば理解してくれるでしょう?」
「そうだ。我々は騙されたんだ。私はアンネを捨てたつもりはなかったよ。その証拠に、住まいを用意したじゃないか」
私には違う世界で生きた記憶があったから、長屋の生活も耐えられたし、生活する術もあった。でも、もう一つの記憶、貴族令嬢としてしか生きられなかったアンネローズは、あの長屋で衰弱死したではないか。彼女は最愛の婚約者に裏切られ、大好きな両親からは拒絶され、絶望の中一人寂しく二十歳の人生を閉じた。
貴族のアンネローズは、買い物にお金がいることも知らなかったし、料理なんかもちろんしたことはなかった。シーツも自力で替えたことはないし、洗濯なんてもちろんしたことがない。そんな生粋のお嬢様だったアンネローズに、住まいだけは提供したんだから一人で生きていけ……と言われても、ありがとうございますとはならないだろう。
メアリーや伯爵家の料理長、執事のセバス、庭師のダラスなどが手助けしてくれたから、あの長屋で生活することができたのだ。伯爵家の使用人達には感謝するが、だからって両親を許せるかと聞かれたら否だ。
「アンネローズ、愚かな私達を許してちょうだい」
ゴールドバーグ伯爵夫人に手を握られても、「お母様!」と感極まって泣いたりはできない。薄情な娘でけっこう。
「母上、アンネ嬢が困っていますよ。今は、アンネ嬢がゴールドバーグ伯爵家を受け入れられないのはしょうがないでしょう。しかし、誠心誠意接すれば、いずれはわかってもらえます。お二人のお子様ですから」
母上?
ゴールドバーグ伯爵夫人の肩に手を置き、言い聞かせるように優しげに話しかけたのは、ゴールドバーグ伯爵の後ろにいた青年だった。ゴールドバーグ伯爵夫人と同じ金髪に緑色の瞳をもつ青年は、私よりもいくつか年上に見えた。王都の薔薇と呼ばれたゴールドバーグ伯爵夫人になんとなく似ている青年は、中性的な雰囲気のある美青年だった。
「はじめまして。僕はチャールズ・ゴールドバーグ。つい先日ゴールドバーグ伯爵家と養子縁組させてもらい、君の兄になったんだよ」
「はじめまして、アンネ・サンドロームです。私はゴールドバーグとは縁が切れておりますから、兄ではないですね」
チャールズが手を差し出してきたが、握手をするつもりもなく会釈で返した。チャールズは気にするでもなく笑顔のまま手を下げた。
「チャーリーはマリアの遠縁に当たる青年でね、とても優秀なんだ。彼は子爵家の出身なんだが、領地で教師をしていて、伯爵家を継ぐまでは教師を続けたいということで、キングストーン学園に就職することが決まってるんだ。実は、ミカエルとの婚約破棄の後に探した、アンネの婚約者候補だったんだよ」
「は?」
ミカエルとのあの婚約破棄の後、両親が次の相手をすぐに探していたことに驚いた。傷ついた私を労わっている素振りで、伯爵家の存続の為に次の相手をあてがおうとしていたのか?
ミカエルの浮気を知っていたから私は傷つきはしなかったけれど、普通ならば愛しい婚約者に裏切られ、男性不信になっていてもおかしくないのに。
「僕としては、アンネ嬢の婚約者としてゴールドバーグ伯爵をお父上と呼びたかったですよ。こんなに愛らしい方がお相手だったとしたら」
この人、ミカエルと同類だ。作った笑顔で、心にもないことを言うタイプだね。
「本当に残念だよ。もっと昔に君の存在を知っていれば、ミカエルなんかをこの子の婚約者にしなかったのに。しかし、これも何かの縁なんだろう」
「そうよ、あなた。もしチャーリーをミカエルの代わりに婚約者としていたら、アンネローズはエドモンド殿下とは結ばれなかったでしょう。私達は愛しい娘を奪われましたが、アンネローズの幸せの為には必要なことだっのかもしれないわ」
はあ?はあ?はあ!?
何、自分の都合が良いように記憶の改ざんしてくれちゃってるの?娘を捨てたのが、娘に必要なことだったとか、意味がわからないから。捨ててくれてありがとう、そのおかげで私は今幸せです……とか言うと思ってる?
なんの為に元両親が私に近づいて来たのかはわからないけれど、これ以上一緒にいたら「ふざけんな!」と怒鳴り散らしてしまいそうだと思い、私はベンチから立ち上がった。
「広間に戻ります。では皆様ごきげんよう(永久にさようならでお願いします)」
「あ、送りますよ」
「けっこうです、一人で戻れますから」
チャールズが腕を差し出してきたが、私はそれを無視して歩き出す。
「ちょっと待って。実は君と話をしたいことがあるんだ」
「私はないです」
テラスから広間に戻ろうと元両親に背中を向けて歩き出すと、チャールズがついてきて私の腕をつかんだ。
「君も、十数年伯爵夫妻に育ててもらった恩があるだろう」
「恩?」
「君が伯爵家から籍を抜いたことで、ゴールドバーグ伯爵家の評判が芳しくなくなって、それが事業にも影響してるんだ」
それって、私のせい!?
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