第22話 長屋での生活
「ハァ〜ッ、お風呂入ってきて良かった」
小さなキッチンとトイレだけついた一間。あるのは小さな机と、木の板がむき出しのベッドに、あとその横に小さなベビーベッドだけ。埃っぽい室内は、以前来た時とそんなに変わりはなかった。壁にかかった肖像画を外せば、アン・ガッシの部屋が覗ける筈。
いや、今は私がアン・ガッシか。でも、どうしても違和感しかない。
「改名……しようかな」
私はアンネローズでもなかったけれど、アン・ガッシでもない。ガッシは家名だから変えられないけど、そうね……アンネ・ガッシかな。今まで愛称がアンネだったから、それならしっくりくる。
「そうだ……手紙」
お父様からの手紙、ポケットに入れたまま読んでいなかった。私は手紙を取り出すと、ランタンを置いた机のところまで行き、椅子に座って手紙の封を開けた。
手紙の内容は短かった。急いで書いたからか……他に書くことがなかったのか。
まず、この長屋のこの部屋を私に譲渡するということ。生活費は渡せないけれど、慎ましく生活すれば数年生活できるだけの資金をアン・ガッシの名前で銀行に入れてあるということ。学園は退学にしたから、二度と学園の敷地に入ってはならないということ。そして、マリアが取り乱すから屋敷には顔を出してはいけない……ということ。
って、手切れ金渡すから二度と関わるなって内容を、恩着せがましく言っただけだよね?
多分、明日の朝にでも学園に退学届を通知するつもりなんだろうけれど、特待生試験があることをお父様は知らないのかしらね。年に二回、次の特待生試験は秋。私がお父様の言うことを聞いて、素直に学園から去るわけないじゃないの!絶対に特待生試験に受かって、堂々と学園に戻ってやる!
あ、お金と宝石、あれだけは先に回収しないとだわ。
私は、朝早く学園に行き、学園に置いてある私物と教科書を全撤去することを決めた。残念なのは家に置きっぱなしにしてしまった教科書類。あれはさすがに取りには行けないし、諦めて買い直すしかないかな。教科書って、けっこう高いのよね。
明日は学園に寄って、古本屋巡り、衣服や生活用品も買わなくちゃ。あ、まずは布団かな。木の板は硬いし、上掛けもないしね。部屋も掃除しないと……。
私は木の板むき出しのベッドに横になると、ウツラウツラし始めた。夕飯は食べていなかったが、この埃だらけの部屋に何かあっても、それは食べたら危険な物体だし、暗くなった街に買い出しに行くのは躊躇われた。このまま睡魔に任せて寝てしまえと、本当に寝れてしまった私は、かなりな大物かもしれない。
うっすらと白んできた空が目に入った。明るくなってきたから目が覚めたのか、私はベッドに手をついて起き上がった。体がギシギシいうのは、この体でこんな固いところで寝たことがないのだから仕方がない。
それにしても……。
軽く伸びをしてストレッチをすると、朝日が入ってきた窓を見てため息が出る。
一番に購入するのは、カーテンね。これでは、覗きたい放題である。この時私は、鎧戸を閉めるということを知らなかった。
日本で暮らしていた時は、アパートの一階に住んだことはなかったし、屋敷にいた時は、夜は門番がいて屋敷は高い塀に囲まれていたから、屋敷に鎧戸があったかどうかも覚えていない。自分で窓の開閉すらしたことがないのだから、あったとしても自分から鎧戸に触ることすらなかったからだ。
これだけ早ければ、まだ私のことは学園には伝わっていないだろうし、締め出されることはないだろう。
制服じゃないのが難点だけれど、学園にさえ入れれば、予備の制服もロッカーに入っているから着替えられる。とりあえず取るものだけとりに行くか。
流しで顔だけ洗ったが、拭くものがないことに気づく。洗う前に気づけば良かったのだが、ないものはしょうがない。洋服の裾で拭いたよ。洋服は自然乾燥だ。暖かい季節で本当に良かった。歯ブラシは諦めて、外に出た。
まだ日が昇ってすぐくらいなのに、すでに街には仕入れに出る人や、店を開ける準備をしている人などが動き回っていた。道の端には、泥酔して寝転がっている人もいたが。
なるべく酔っ払いは避けて、足早に学園に向かう。長屋は王都の裏通りにあるから、買い物や通学には便利そうだ。ただ、治安はそこまでよくないようだから、なるべく早足で歩いてからまれないようにしないと。
学園につくと、まだ門は閉まっていたが、通用門は開いていて、門番のおじさんがいた。
「おはようございます」
「あれ?今日は早いねぇ。しかも私服?どうしたんだい」
知っている門番のおじさんで良かった。比較的遅くまで学園で勉強している私は、門が閉まってから帰ることも多くて、数人の門番さんとは顔見知りだった。
「ちょっと制服汚しちゃって。予備の制服は学校だったの」
「そうかい。そっちの通用門からお入り」
「ありがとう」
学園に入ると、まず真っ先に女子ロッカーへ向かった。
ロッカー室に入ると、まず予備の制服に着替えた。これで、学園内を歩いていても不審に思われることはない筈。隠してあったへそくりと宝石を入れてあった手提げを取り出し、その上に着ていた部屋着を畳んで入れた。
ロッカーには鍵をかけずに、鍵はロッカーの中に入れておいた。そうじゃないと私が退学になった後、ロッカー開けられなくなっちゃうからね。
次に教室に向かって自分の机から教科書類を取り出した。後ろのロッカーからも、置き勉していた教科書や辞書を持ってきて机に置くと、かなりな量になった。これを運ぶのは大変かもしれないけれど、置いていくという選択肢はない。今の私には、お金よりも知識は貴重だからだ。
「どうやって運ぼう」
大きな袋も風呂敷きもない。風呂敷き……大きな布か。私の視線の先に、教室に揺らめくカーテンが映る。けれど、これを借りたら窃盗になりはしないか?
悩んだけれど、背に腹は代えられない。レースのカーテンの方を剥がすと、畳んで強度を増して教科書類を包んだ。かなり重いけれど、カーテンも敗れることはなさそうだった。
私は、教壇の前の先生の机に書き置きを残した。『カーテン借ります。編入して戻ってきた時にお返しします。アンネ』
まさか、荷物を運ぶ為に使ったとは思わないだろうから、なんでカーテンなんか盗ったのかって、話題になるかもしれないな。アンは貴族子女として学園に通うことになるだろうし、取り違えのことは絶対に噂されるだろうから。
これだけの荷物を持って通用門に向かえば、さすがに不審に思われるだろうからと、私は裏門から出て行こうと中庭から裏へ回ることにした。
中庭の奥のベンチ、嫌な思い出よりも、ここでエドと初めて出会った時の思い出の方が強く印象に残っている。
あの時は、まだ今みたいにガッシリしていなくて、まだ少年って感じだったのに、本当、逞しくなったよね。
毎日のように会っていたのが、今日からはしばらく会えなくなるし、次に会った時は王子様と平民か……。話しかけたりしたら、無礼者!とか言われちゃうのかな。いや、エドなら急に消えたことを無茶苦茶怒るかな。
私はノートを一枚破り、簡単な手紙を書いた。
『次の特待生試験に受かって学園に復帰するまで会えないけど元気でね。……アンネ』
誰へとは書かなかった。エドが落ちてきた木のウロに手紙を置き、石を乗せておく。
気がつくかな?気がつかないかな?
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