記憶、宇宙、エントロピー

九頭見灯火

 鉄塔の下の噎せ返るにおいのする道路のうえには、吐瀉物の白い痕が残る。星周円盤の遠い道にはいまも子どものささやかな声が聞こえる。

 これから私が語るのは、記憶の話だ。量子脳のなかには、いまだ語りきらない記憶が、これから語るべき未来が、並列して存在している。いまから過去の時代のいくつかの記憶を呼び起こし、その記録されたエントロピーの値が数学の式によって宇宙の形を決定する。

 私たちはどこまで行けるというのだろうとあなたに尋ねてみても、あなたはきっと私から遠ざかっていくのだろう。どこまでも歩けたなら、あなたの影を追うことは止めにしたい。

 そうだ、あれは雪の、寒い夜のことだった。

 対局のあとで私とあなたが打ち明け合った気持ちは勝負へのほんとうの情熱だ。私たちが僕たちに戻れるなら、記憶をもっと遡らなければなるまい。それはきっと燃えるような西の空の下の青と赤のグラデーションの屋上だ。

 いまより、もっと私とあなたが小さかった頃、私たちはいつも駆けっこをしていて、あなたの背中になかなか追いつけなくてそれでも追い抜きたいと懸命に走ったのだ。私はそれでもなお、今の私があなたを走って追い抜くことはできないと知っている。あなたの乗った宇宙船に、加速し続けるその乗り物に、私はたどり着くことはできないのだと知っている。僕という記憶は、あなたへの思いを一編の小説に書き表したいとずっと叫びをあげていた。

 鉄塔の下で何度その周回する道をあなたとの記憶を思い出したか知れない。いまもあなたはどこか遠い場所で大地の上を飛んだり跳ねたりしていると思えば、それは悪いことではないのかもしれない。いまよりずっと向こうで元気にしていてほしいなんて言わない。私はきっとあなたを殴ってやりたいのだと、そういう思いでいるのだ。あれはどこまでも底冷えする冬の平原であなたは私の目の前で地球を去ると言ったのだ。たった七時間ほど飛行するだけで、四〇年を超える旅路だという。私たちはきっとお爺さんになるまで一緒に過ごすのだろうと思っていたけれど叶わぬ願いだったと知ったのだ。

 これがあなたとの最後の人間としての記憶だ。

 次に目覚めたとき、私は機械の首筋に収まっていた。私はどうやら、記憶を保持したまま誰かのインストールソケットになっているらしい。人格データをやり取りする基底部の本能に位置するような場所に私は根を張っていた。私はあれから何年の時が過ぎたかわからない人格データにリクエストを送信した。淀んだデータの隅で私は私の肉体がとうに果て、私を構成しているものが私では無くなったことを知った。私は工場で働く凡夫のようにシステムとシステムのあいだで働く歯車でしかなかった。システムが私に囁くのは、人間をいかに効率よく国から追い出し、あるいは殺傷するというあたりの知識で、もう世界はそういう時代になってしまったのだと知った。明日から世界が終わり、私の思い出す青々とした森の記憶はいっそう深みを増している。

 森、私があなたをその森で見つけたのは、あなたの面影をプラント状のバイオコンピュータのなかで、見かけたときのことだ。あなたの影はとうの昔に宇宙へ飛び立ってしまったというのに、私がその森と意味接続したことによって私は私の輪郭を発見したということに他ならない。私はきっと星の縁であなたと出会いたかったと知っているのに、いまだ起き抜けのぼんやりとした思考の渦のなかで、落ちていく水のようだった。私は無常になるということを仏教やその他の宇宙経典で知っているのに、どんなに知識を蓄えたとしても私という存在が私を獲得するには至らなかった。私は接続部でしかなく、本体は空挺部隊の一モジュールになっているのだから、私は虐殺する部品だった。

 こうしてペンを握っているのは心的なストレス障害を受けた人格のケアのためでしかない。私はタイプし続けるが、そのタイプは癒すためのタイプではない。私はタイプすることによって記憶を整理し、ひとつの秩序づけを行い、ありえなかった過去を発見する。未来を予見するように、空想の意味の先へと飛翔する。

 きっといまは、何年なのかはわからない。私を起点とする、いまは、思い出すという行為のもとで始まるいくつかの歴史システムだ。私は拡張していく。私という存在が無時間を超えて、永遠にも似た時間のうねりのうえで私を更新するのだ。

 私の記憶システムはそうして無数のエントロピーに関わる式を作り出した。私はあなたの乗る宇宙船が、宇宙の形の、宇宙の語りの、変化によって墜落する様を見届けたい。

 私が知っている、量子脳のすべての記憶をもってして、すべての終わりを。あなたとの終わりを。

 ただグーで殴ってやりたいのだ。

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