第2話



 駅のホームで電車の到着を待つ。

 二列の待機列。毎日同じ時間、同じ電車に乗っていれば、おのずと顔だけ見たことのある知り合いが増える。同じ列に並ぶサラリーマン、隣の車両へ入っていく女子高生。真っ赤な口紅を手鏡見ながら塗り直しているOL。


 名前も知らないけれど、知っている人。毎日いるはずなのに今日はいないなぁ、と思う時があって、そんな時は「何かあったのかな」と心配になる。翌日の朝、マスクしていつもの列に並ぶその人を見れば、「ああなんだ、風邪だったのか」とちょっと安心してしまう。そんな出勤時の出来事。


 だが今日は、少しだけ様子が違った。見たことのない壮年の男性が、列ではない場所に一人立ち尽くしていた。スーツ姿の彼はしきりに手にしたスマホと電光掲示板を見比べていて、この土地に来るのが初めてなのだと察しがつく。私の前に並んでいたサラリーマンが、列外でキョロキョロするその人を見て、鬱陶しそうに舌打ちをするのが聞こえた。



 そうこうしているうちに、電車がホームに入ってくる。扉が開いて、数人降りた後に待機列の面々は乗り込んだ。


 その時、待機列の外にいた男性が、列を無視して私たちの車両に乗り込もうとした。わ、と思っていたら、前にいたサラリーマンがそれをさせまいと、無理矢理男性の体を肩で押し退け電車に乗り込んだ。その行動にも思わず「わ、」と思って顔を顰めた。



 押し退けられた男性は唖然としたのち、腹立たしげに眉を吊り上げた。待機列にはまだ人がいて、私が背後に立ち止まっているのにも気づかず、その人はとっとと乗車する。それに続いて乗車して、私はいつもと違う吊り革を掴んで会社の最寄駅を目指した。



 いつものこと、いつものこと。

 誰にも見られてないのに、誰かにバレないように「ふぅ」とため息をつく。


 おはよう私。

 今日も朝起きて電車に乗ってるだけで、十分偉い。



 ***



 仁科と再会した夜、互いに連絡先を交換した。メッセージアプリの履歴には、仁科から届いた「よろしくお願いします」のメッセージが“一行だけ”表示されている。


 朝の業務を終わらせ社内でお昼を食べながら、開いたアプリ。いくら見ていてもそれが動き出す兆しはない。よろしくお願いします、の一行が全く画面外へ流れて行かないのを、お弁当の玉子焼きを箸で持ち上げて眺めていた。



 再会から、二日経っている。


 三ヶ月のうちの二日って、一体どれくらいの価値があるのだろう。少なくとも、こうしてお弁当を食べながら、ダラダラ見送ってやり過ごすには勿体無いくらいの価値だと思う。もっと有意義に使うべきもののはずだ。


 食べ終えたお弁当に蓋をして、巾着へそれを戻している間も同様。動き出すことも、通知を知らせる音も鳴らない。御伽話のように美しいあの人と再会したのは、やはり幻だったのかと疑ってしまう。



 そもそもこの場合って、どちらからコンタクトを取るのが普通なのだろう。



 机に置いたスマホを、頬杖しながら覗き込み考える。


 告白したのは仁科からなので、てっきり仁科から、何か希望のようなものが連絡されてくるのだと思っていた。


 私と付き合った暁に、やりたいこと。どこかへ出かけるとか、手を繋ぐとか。

 それから……。


「……」



 指を一本ずつ折り込みながら考えてみたが、交際経験が乏しいせいですぐ動きが止まる。そもそも付き合うって、何をするんだろう、と眉間に皺が寄った。最後に恋人がいたのは、おそらく大学生の頃。ブラック企業で働き出して会えずにいたせいで自然消滅した相手がいたくらい。そこからずっと仕事一本だ。


 いや、恋人どころか、ここ最近親しい友人たちとも会っていない気がする。比較的連絡をし合っているのは高校の頃の友人たち。彼女たちも結婚して子供ができてから、会わなくなった。忙しいだろうし、私がいると迷惑だろうと、遠慮して声をかけるタイミングを見失っている。



 なので、こういった誰かと会うための行動が、久しぶりすぎて新鮮だった。向こうから連絡してくれるんだろうか、いやこちらからすべきなのか、もしかしたら忙しいかもしれないし、私が連絡してもいいんだろうか。


 そんなことを考えているうちに昼休みの時間は減っていく。チラリと壁にかかった時計を見れば、残りは十分だった。三ヶ月のうちの貴重な時間を、また消費してしまう。



 仁科は今、何をしているんだろうと考えてみる。

 この時間だから昼食後だろうか。職を失ったと言っていたから、家でのんびりしているのかもしれない。彼女は料理とかできるんだろうか、何が好きで、何を食べているんだろうか。


 当然のことだが、私は彼女のことを、何も知らない。二日前は突然の告白と余命宣告に動転して咄嗟にあの条件を提案したが、果たして今更になって、あの案が本当に正解だったのか不安になってしまう。仁科のことを何も知らないくせに、偉そうなことをしてしまったんじゃないだろうか。


 三ヶ月後、死んでしまうらしい彼女。

 嘘か本当かもわからない仁科の発言に、なぜこんなにも頭を抱えて考え込んでいるのだろう。小さくため息が出そうになった。



『あなたと過ごす三ヶ月は、怪我や病気をせず過ごす一生より価値があります』



 ふと、仁科の言葉を思い出す。

 真っ直ぐに私の目を見て、私の存在を見て、紡いでくれた言葉のこと。



 あの言葉を聞いたとき、突然の告白で慌ていた心が、深夜の静かな波のようにスーッと凪いでいくようだった。



 人から好意を向けられるのは、悪いものではない。この世でちゃんと私の存在を知ってくれていて、認めてくれていて、見てくれているんだと安心ができる。


 真っ直ぐに私を見つめてくれる仁科の目。

 花が咲いたような虹彩。美しい瞳に私を映してくれるその人は、

 

 

 三ヶ月後に、自ら命を絶つと簡単に紡ぐ。




「……」



 眉間の皺がどんどん深くなる。時間は刻一刻と、減っていく。

 


 あの提案は、正解だったのか。他に何か、あったのではないだろうか。



 机上の空論は、いくら悩んでいても仕方がない。私は片手でスマホを持ち上げて、動かなかったメッセージアプリを動かした。



『こんにちは』

『今晩よければ、夕飯ご一緒しませんか?』


 既読はすぐについた。12時59分のことだ。



『わかりました』

『この前会ったところの、駅の辺りで待ち合わせてもいいでしょうか』



 いいですよ、とすぐに返す。時間が惜しいと、つい急いてしまう。



 なぜ?

 ついこの前再会した人の、人生のタイムリミットなのに?


 私には関係ない話なのに? どうしてここまで、慌ててしまっているのだろう。



 私は彼女を、どうしたいのだろうか。





 時計の短針が、1を指し示す。スマホを片付け、パソコンへと向き合った。


 ちょうど後輩が、フラフラとした足取りで横を通過して行こうとしている。今朝から真っ青な顔をしていた彼女は、資料の束を持ってどこかへいく途中のようだ。



「狭間さん、体調悪い? 有給とって帰った方がいいよ」



 後輩、狭間は立ち止まって私を振り返った。視線が合わない。突然声をかけられて狼狽えているとかではない。この会社の大半の人間は、私と視線が合わない。そういう時代なのだろう。


 それでも彼女の肌の色や額に滲んだ汗を見れば、体調不良はすぐわかった。そもそも直属の上司が朝、彼女とやりとりしていたはず。気づいていなかったのだろうか。直立している彼女の脚がわずかに震えている。



「あ、でも、えっと、そのコレ、コピーをしなくちゃならなくて……」

「やっとく。何部?」

「三百……」

「わかった。頂戴」



 片手を伸ばせば、彼女は私の手を凝視した後、じゃあ……と言って持っていた資料をそこへ置いた。ぺこ、と軽い会釈をすると「帰ります……」と消えそうな呟きを残して踵を返していく。お大事に、気をつけてね、という私の言葉は、彼女には届いていただろう。だが返事はなかった。



空いた手でキーボードをタイプしながら、受け取った手で渡された資料をめくる。片手には自分の仕事、もう片方の手には後輩の仕事。


 ふん、とつい鼻笑いが溢れた。誰も私を見ていないから、好きなだけ自嘲できる。



 偉いじゃん、私。仕事できる女って感じ。



 ***




 全ての仕事を終わらせて定時に会社を出た。就業中は店を予約する時間がなかったので、駅に着いてからどこか予約しようと考えていた。


 仁科との約束は七時。今は五時三十分なので余裕がある。当日予約ができる店がいいな、テレビで見たビストロ、雑誌で有名なカフェ、前に行って美味しかった居酒屋、仁科は何がいいかな、と。考えながら歩いていた。



 そしたら彼女は、すでに駅の入り口に立っていた。



 背筋を真っ直ぐに伸ばし、柱に体を預ける姿。白を基調としたワンピースのその人は、本当に御伽話の住人のようだった。同色のミニバックを両手で握り締め、視線を逸らすことなく、真っ直ぐと遠く一点を見つめている。私には気づいていないようで、こちらを振り返ろうともしなかった。



 そこだけ異次元。合成写真みたいに、薄暗い空間に付け加えられ発光しているような彼女は、私の目を一気に惹きつけた。


 あの人が、私に好意を抱いている。

 あんなにも綺麗な人が、私みたいな、誰にも見向きもされない人間を。


 先日とは違い、街行く人たちも彼女のことを振り返っていた。スーツはあくまで戦闘服。魅力的に見えなかった彼女の容姿が如実に現れる私服に、惹かれる人は少なくない。


 謎は募るばかりだ。ほう、と悩ましげなため息が溢れる。なぜ彼女は、私を選んだんだろう。仁科ほどの人なら、相手を選び放題なのに。ブラック企業さえ選んでいなければ、きっと幸せな家庭生活を送っていたかもしれないのに。


 選択肢一つひとつがズレている。それが不思議で仕方がない。



 つい思考に耽りながら仁科を見つめていると、数分が過ぎてしまった。ふいに仁科が視線を下げて、自分の腕時計を眺める仕草をする。ハッと我に返って、慌てて彼女に駆け寄った。



「仁科さん!」



 後ろから声をかければ、仁科は僅かに肩を震わせる。ゆっくり私を振り返ると、「南さん」と落ち着いた口調で言った。



「お疲れ様です、お仕事。早かったですね」

「それはコチラの台詞ですよ。だって待ち合わせの時間、七時でしたよね?」



 困惑しながら訊ねると、仁科は不思議そうに首を傾げる。そうですね、と私の目を真っ直ぐ見つめて、



「でも、特に何も予定がなかったので、問題はありません」



 淡々と言った。その様につい目を瞬く。いくら予定がないからといって、私が来るのが遅かったら辛いだろう。寒空の下約二時間、ずっと立っていなきゃいけないのに。


 内心で「不思議な人だな」と呟きながら、面では「そうですか」と苦笑いを浮かべる。それから思い出したように、手にしたスマホを掲げて見せた。



「そういえばお店をどこも予約してなくて、今から決める感じなんですけど。仁科さん、嫌いな食べ物とかありますか?」

「特にありません」

「それじゃあ好きな食べ物はなんですか?」

「それも特にありません」



 悩むそぶりも見せず、キッパリと言い切られてしまう。なんなんだ、この人。一体普段は何を食べているのだろう。想像し難い。彼女がラーメンとか焼肉を食べている姿は想像できないし、かと言って優雅にフランス料理を食べている姿も想像できない。好きなものも嫌いなものもないという発言は、仁科の存在をよりミステリアスにしてしまった。


 もしかして食事に興味のない人種なのか? なら食事に誘うのはよくなかったのかもしれない。


 彼女の答えに「そうですか……」と小さく返事して思案していると、「南さんの、」と声が聞こえる。



「え?」

「南さんの食べたいものが食べたいです」



 ぽつ、と溢すと、彼女はやや視線を下げて俯いた。両手で掴んでいたミニバックの持ち手を、ギュッと握り込んでいる。



「……私の食べたいものでいいんですか?」

「はい。私、あまり食べたいものとかを考えたことがないので」



 やはり食に興味がない人だった。胃に入れば一緒。数年前の私もそんな感じだった気がする。それは主に職場のせいだろう。仕事で手いっぱいなのに、食事なんて二の次だ。動くためのエネルギーになれば、それでよかった。


 仁科も、同じ感じなんだろうか。彼女の場合は食事をする時間は山ほどあっただろうが、気持ち的に楽しい食事をできる環境ではなかった気がする。心理的なストレスが、食への興味を消失させたのかもしれない。



 もったいないなぁ、とは思いつつ、そういう人もいるもんなぁ、と、思いながら腕を組んで唸る。彼女のリクエストである私の食べたいもの、と言われ、この辺りですぐに食べられるものを考えた。



「本当になんでもいいですか?」

「はい、アレルギーも何もありません」

「……なら、オムライスとかどうでしょう。近くに美味しいところがあって、」



 恐る恐る提案すると、彼女は「オムライス……」と空気を吐くだけみたいな音で呟く。




「理由を聞いてもいいでしょうか」

「え、理由?」



 そんな仕事の上司みたいなことを言われるとは思っていなくて、思わず目を見開いた。私が食べたいものって聞かれたから、提案しただけで、たまたま近くに美味しいところを知っていただけで、わざわざ話すような、特別な理由なんて何も無い。



 ただ、強いて言うならば。



「……えっと」



 喉を言葉が通って行こうとすると、緊張感に襲われる。言い淀み、「その、」と後頭部を掻きながらチラリと仁科を見れば、真っ直ぐな、一切他に逸れない視線と目が合った。



 あ、と思ったら、声が出た。「私、卵が好きなんです」と。誰が興味あるんだという話を、他人にしてしまった、曝け出してしまった羞恥で頬が赤くなる。仁科に見つめられてさらに恥ずかしくなって、ついには片手で自分の視界を覆って項垂れる。



「卵が好きなんですか?」

「すみません、自分勝手な提案で本当に恥ずかしいんですけど、つい本音が出てしまって、」

「私もオムライス、食べたくなってきました」



 行きましょう、と。


 依然恥ずかしさで茹で上がっている私など知らないように、仁科はキッパリと宣言した。ええ?と驚いて視線を彼女へ向けると、いつも通りの澄ました顔で私を見ている。食に興味がなかったのでは?という疑問は浮かんだが、よく見ると仁科の頬が、やや綻んでいる気がして口にするのはやめた。



「それでは早速、道案内をお任せしてもよろしいでしょうか」



 私の隣に並んで、歩き出そうとする仁科。それに遅れないようにと慌てて歩き出す。でもゆっくりと歩く彼女を置いて行ってはいけない。歩幅を小さく、ヒールの音もできるだけ鳴らさないようにしながら、オムライスの美味しい店を目指す。



 会話はない。けれどこの無言が苦痛ではないのは、周りの雑音があるからだろうか。友達や会社の人間と歩いている時なんかも、何を話そうかと考えるばっかりなせいで、変に疲れてしまう。


 なのに今、仁科の隣を歩くのは苦しくない。先ほどの彼女の言葉が、私の脳内を嬉しい気持ちで満たしてくれているおかげなのかもしれない。



 南さんの食べたいものが食べたいです。

 私もオムライス、食べたくなってきました。



 それはきっと、食に無関心な彼女にとっては「どうでもいいこと」だったのかもしれない。食べられるものであれば何でもいい。相手に合わせておけば大丈夫だろうと。



 でも私は、それが嬉しかった。


 卵が食べられるから嬉しいのではない。「それじゃあ卵を食べよう」と、言ってもらえることが嬉しかった。



 私はいつも、相手に合わせる側だった。



「南さん」



 口元が綻ぶ。口角が上がっていくのを感じていると、仁科が私を呼ぶ。「はい?」と、口角が上がったままで彼女を見れば、彼女もまた、薄い唇を綻ばせて笑っていた。



「今日のネイル、素敵ですね」



 卵色みたい、と。



 微笑みながら仁科が言う。昨日仕事終わりに変えた秋色ネイルに、気づいて声をかけてくれたのは彼女だけだった。



 眼前に持ち上げた自分の爪を見る。やや赤みを帯びた黄色の爪は、「秋っぽい色で」とリクエストした結果の色味。完成して自分の爪先を見て、好きな感じだと胸が踊った。それはもしかすると、大好きな卵の黄身色に似ていたからなのかもしれない。



 歩きながら、「ぷっ」と思わず吹き出した。



「ほんとだ! 全然意識してなかった!」



 アハハ、と声を上げて笑った。仁科は私が笑っているのを驚いたように見ていたが、すぐに「ふふ」と手で口元を隠しながらつられて笑っていた。



 久しぶりに声を出して笑った気がする。今回のネイルは、できるだけ長く持続させよう。剥がれてしまっても、また同じ色をしばらくリクエストし続けたい。



 その夜食べた『デミグラスのふわトロオムライス』は、甘酸っぱくて本当に美味しかった。

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3ヶ月後に死ぬので、 花岡みとの @mitono

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