3ヶ月後に死ぬので、

花岡みとの

第1話

「付き合ってくれませんか」



 三ヶ月後に死ぬので。


 店員が背を向け去っていく最中だった。毛先の痛んだポニーテールがゆらゆら揺れているのを眺めていた時のこと。


 会話のなかった席の中央にカフェオレが二つ。淹れたてのそれからは湯気が上がっている。季節が変わって夜になると冷え込むせいか、その湯気は普段の何倍も色濃く見えた。


 だから向かいに座る彼女の姿を、一瞬幻なのではと疑った。

 薄い髪色に白い肌。まるで瞳の中に花が咲いているような虹彩を持つ人。紗がかかったように輪郭の線がどれも薄く、幻想的な、御伽噺の登場人物を彷彿とさせるその人、仁科は、美しい容姿に劣らない、名前は確か“綺麗”であったと記憶している。


 にこりともしない彼女は、私がカフェオレに手を伸ばすのをジッと見ていた。悪いことはしていないのに、感情の読めない仁科の瞳に見られるとつい手を引っ込めてしまう。動揺で喉が渇いたが、どうやらブレイクタイムは設けてもらえないらしい。ほんのり飴色の灯りが灯った店内。音を立てず両手を膝上に戻すと、「ええっと……」とゆっくり口を開いた。


「つきあうって、いったい何に?」

「交際をして欲しいという意味です」

「突然だな……」

「ええ、私もそう思います。でも、突然そう思ったんです」



 時間はおよそ半時間前。仕事を終えて駅へ向かっていた時だ。冬前の乾燥した空気に喉を痛めていて、何回も咳が出て煩わしくて、たびたび立ち止まっては咳を繰り返していた。

 そしたら突如、というか、ずっとそこにいたのかもしれない。ふと気づいた時には突如だったのだが、グレーのスカートスーツを身にまとった仁科が、人混みの中に立っていた。


 真っ直ぐに私を見つめていた仁科。行き交う人々は、立ち止まる私たちなど気に留めることなく避けて歩いていく。薄暗い夜の、路面店の淡い灯りに照らされた彼女の白い頬には見覚えがあって、職業病だからか、いや、それ依然に忘れたくても忘れられない苦行を共にした同志というだけあって、彼女が私に声をかけるより先にスルッと「仁科さん」と唇を動かしていた。


 お茶でもしませんか、と声をかけてくれたのは彼女だ。一切感情の乗らない顔で言われ、断る隙も与えられず今に至る。久しぶりですね、最近どうしてたんですか、という会話もなく、そもそも当時もお茶をするほど仲が良かったというわけでもないから、対応に困ってしまう。

 しばらく続いた無音の中、ふと仁科が視線をそらせた隙に、私はカフェオレのはいったカップをとった。急いで口につけたそれは、やや冷めてちょうどいい温度になっていた。



 仁科綺麗は、前職場の先輩だ。

 私はその頃から人事部で採用担当や教育などをしていた。一度会った人の名前と顔がすぐに一致するのは、自分の身を守るために身につけたスキルだった。なんせ三年前に辞めたその会社は、仕事ができない人間をゴミ扱いするようなブラック企業だった。人間扱いされるために、その職場にいた若い人材は皆必死だった。


 仁科はそこで総務をしていた。総務といえど、事務方は大方社長秘書や人事部の仕事。花形は営業だったその会社で、総務とは名ばかりの、ほぼ雑用係。美人どころの彼女が表に出ない部にいたわけは、当然、人間扱いされていなかったからだ。


 美人のくせにグズで鈍間。仕事ができない上に愛想も悪い。営業先に媚び売ることもできない奴は会社のお荷物だと罵られ、日々薄暗い倉庫のような一室で、要るのかどうかもわからない書類の振り分け作業などをさせられていたと記憶している。


 ブラック企業にとって重要なのは、身を粉にして働いてくれる駒。美人だろうが使えない人間はいらないんだと、大声で怒鳴られる始末。人間というのは残酷で、その飛び火が自分に回ってこなければそれでいいんだと、彼女の集中砲火を尻目に、時々自分に向きそうな火の粉も無理矢理彼女へ方向転換させる同僚なんかもいたほどだ。


 それでも彼女はいつも通りだった。書類整理以外にも仕事があったようで、コピー機の前に佇んでいたり、パソコンと向き合っている姿も度々目撃していた。もし彼女が大手のホワイト企業に就職していたなら、その容姿と真面目さを買われていただろうになぁ、と思ったことは一度ではない。



 その時々に声を少しかけていたくらいの関係だ。食事をしたことはない。飲み会もないような殺伐とした仕事場だ。同期ですら密に関係を持ったことはないし、連絡先もしらない。ましてや、自分より先に入社していた彼女との関わりなんて、部署が違えばほとんだなかった。通りすがりの挨拶程度。それだけの関係で、私は三年前の二十六歳になるのを機に転職をし、あの職場を去っている。送別会はおろか別れの挨拶という文化も、そのブラック企業にはなかったのだ。


 謎が募っていく。出会って早々の会話。改めて思い返しながらカフェオレをすする。



 三ヶ月後に死ぬので、付き合ってほしい。交際の申し込みのこと。



 一つひとつ紐解いていく。まず、彼女のこと。



「あの、そもそも仁科さんは今、何をされてるんですか?」

「今日ついに職を失いました」

「それは災難でしたね……どちらにお勤めになられてたんですか?」

「ずっと同じ会社です」



 え?!と声を裏返す。持っていたカップの中身が波打って、少量がテーブルの上を汚した。


 てっきり私が出た後に、仁科も退職しただろうと思っていた。なんせブラック会社だ。私以外にもさっさと辞める人間は多かった。

 だが、考えてみれば仁科はもともと私よりも先にいた人間。辞める気があれば、もっと早くに辞めていただろう。どれだけ罵られてもあの職場にい続けられたのは、もはや才能のように思える。



「もともと辞める人が多い職場でしたが、辞めた人経由で会社内部の悪い噂が流れ出していたようです。そしてついに倒産したという形で、退職しました」

「よく、心が持ちましたね、あの会社で……」



 仁科は首を傾げて見せた。



「私は別に……何も思っていませんでした。ただ仕事を、というよりは、生きていただけですから」



 でも、といいながら、仁科はカフェオレのカップを手にする。すっかり湯気ののぼらないそれは、きっと冷えてしまっているだろう。



「今日、久しぶりに南さんに偶然お会いして、確信しました。私は三ヶ月後、必ずこの世を去ります」

「……」



 そう言われて、喜べるだろうか。

 同性からつきあって欲しいと言われたことだけでも戸惑っているのに、私の顔を見た途端「死のう」と決意されるのも良い気持ちではない。もしや私には、彼女のトラウマを誘発する何かがあったのか。昔、仁科に失礼なことをしていたのだろうか。覚えがなく、ただただ混乱する。



 私と交際したとして、三ヶ月後。

 彼女は自らこの世を去る選択をするという。


 三ヶ月。



 頭の中のカレンダーをパラパラとめくる。今日から三ヶ月。秋を感じさせない暑さの次にやってきた、肌寒い季節。朝も夜も、小さい水滴を含んだような冷たい風にさらされる季節がやってくる、そんな時期の三ヶ月後。



 真冬真っ只中の、忙しい大晦日。



 ……三年前の記憶が蘇る。

 暖房設備が整わない会社で、手がかじかんでキーボードもまともに打てなかった、あの環境。


 カビた倉庫のような牢獄じみた部屋で、一人書類を分けていた彼女の姿。


 空白の多かった履歴書。

 パッとしない経歴、にこりともしていない写真。

 けれどその美しい雰囲気通りの、丁寧に書かれた綺麗な文字の数々。


 名ばかりで厳重に保管されている社員の個人情報は、人事云々依然に入社したての私でも簡単に目を通すことができた。この時点で杜撰な会社経営の実態を知り、早々に転職活動をするべきだったのに、新卒から三年も経って動き出したのは、私の潜在意識の何かが、警鐘を鳴らしていたのかもしれない。



 辞めるときではない。

 今、私にしかできない、やるべきことがある。



「……三ヶ月後、幾つになるんですか?」



 カフェオレで唇を湿らせて問う。ゆったりとしたカフェ店内は、夕飯時だからか、どれだけ経っても客足は少ない。湯気越しではない、はっきりと私の目に映る仁科は、ここにきて初めて驚きで目を丸めていた。



「仁科さん、たしか大晦日がお誕生日でしたよね」



 誕生日休暇など当然ない職場だった。けれど大晦日生まれの社会人ほとんどの人が、大体誕生日が休日だったりするだろう。もちろん、私たちの働いていた会社は、大晦日も仕事だった。


 履歴書に綴られていた、12月31日の生年月日。

 彼女はその日を最後に、この世を去るらしかった。



「……」



 しばらく黙って目を瞬いていた仁科だが、ゆっくり音も立てずにカップを机に置くと、徐々に背を丸めるようにして、前屈みに倒れていく。伏せられる間際の顔、目元がやや赤らんでいるのが、遠目から少しだけ見えた気がした。



「三十五に、なります」



 前からそうだ。もっとずっと、彼女は誰よりも若く見えた。達観しているのか、周りに無関心だからなのか。落ち着いた雰囲気は大人びて年相応なのに、表情や立ち姿、歩く姿は若々しく、名前通りの人だった。



 私……、と、仁科は顔を伏せたまま呟く。若干声が小さい。店内の静かな音楽にさえかき消されそうな声色だ。このまま仁科の存在自体、湯気のように消えて無くなってしまいそうである。



「三ヶ月後に、絶対に死にます。だからお願いします、南さんの貴重な三ヶ月を、私に頂けないでしょうか」



 両手で顔を覆って懇願される。これではまるで、私が仁科に死んで欲しいと願っているようだった。そんなわけない。久しぶりに会った人に対し、そんな感情抱いたことはない。


 返事に困って顔を顰めた。ここで「わかりました」と頷いてしまうと、三ヶ月後に彼女が死ぬことを受け入れたみたいで後味が悪い。なぜ仁科は、人生の執着地点をこんなにも短く設定したのだろう。三十五歳なんて、まだ若い。寿命をまっとうするのに、あと四十年以上はあるというのに。



 どうして、と。思考することもなく言葉がでた。



「どうして三ヶ月、私と過ごそうと思ったんですか」



 仮に三ヶ月後、本当に死ぬにしても、もっと有意義な使い方があっただろう。海外へ旅行するとか、食べたいものを食べるとか。なのに彼女は、偶然私と再会し、何も考えず、他にやりたいことも頭にないように言葉を紡いだ。三ヶ月後に死ぬので付き合ってください。それは人生のやりたいこと全てをやり終えた後に選んでもいいことではないだろうか。



「第一死んでしまうにしても、私ではなく、他に一緒に過ごすべき人がいません?」

「いません」



 即答される。真っ直ぐな瞳に見られ、思わず身構えた。


 花のように可憐な虹彩を持つ、その人。

 一切逸れることなく、にこりともしない表情で口を開く。


 彼女が言葉を紡ぐたび、植物の光合成を彷彿とさせる清涼感が辺りを漂う。


 二酸化炭素を吸って、酸素を吐く。


 そのおかげで、私は息がしやすくなる。



「“あなたと過ごす三ヶ月”は、“怪我や病気をせず過ごす一生”より価値があります」



 だからわたしは、と。

 彼女はゆっくりと辺りの酸素を吸い込んで、ゆっくりと二酸化炭素を吐き出した。



「価値ある三ヶ月を持って、十二月三十一日に死にます。たとえそれ以降生き延びたとしても、あなたと過ごせた三ヶ月以上に価値ある時間は訪れないでしょう。それならば、生きていたって意味がないんです」



 彼女の言葉は酸素か、二酸化炭素か。

 それとも甘美か毒か、もしくは麻薬か。



 三ヶ月は、仁科の寿命の猶予なのだと悟った。もし私がここで首を横に振れば、彼女は今ここで、舌を噛み切って死んでしまうのかもしれない。



「……条件をつけましょう」



 脳裏に浮かんだのは、一枚の履歴書。

 仁科の綺麗な文字で綴られた、あの履歴書だ。


 殺風景な、簡潔なもの。高校も大学もそこそこのもので、資格など何もない。このご時世故に当然運転免許も持っていなかった。


 特徴のない、今の私だったら採用の場でそんな履歴書見せられれば、直ぐに次を見てしまう。面白みのないそれを、今でもずっと覚えているのは一体何故なんだろう。



「三ヶ月間、何があっても私は、仁科さんを一番に考えて行動します」

「……」

「その代わり三ヶ月後。私と過ごした時間に価値がないものだと少しでも思ったなら、死ぬことは諦めてください」

「え、」

「価値があるものだと思ったのなら、あなたの好きなように。ただ私は、普段通り過ごします。決してあなたを蔑ろにはしません」



 それでいかがですか、と問えば、彼女は真っ直ぐ私を見つめたまま「わかりました」と頷いた。不思議と彼女とはよく目が合う。目つきが悪く、女にしては背が高い私は、普段周りから見向きもされないのに。


 彼女の視界には、よく私が入り込んでいる。



「三ヶ月間、よろしくお願いします」



 淡々とした口調で、仁科は頭を下げた。こちらこそ、と、彼女に倣って頭を下げる。



 私、南千鶴の人生において、生まれて初めて彼女ができた。

 三ヶ月後に死ぬ、綺麗な彼女が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る