隣の貧乏は鴨の味

三鹿ショート

隣の貧乏は鴨の味

 彼女は、私に対して優しかった。

 貧しいために常に同じ衣服を着用し、異臭を放っている私から、他者は距離を取っていたのだが、彼女だけは、私に笑顔を向けてくれていた。

 彼女に対して感謝していたものの、私が原因で彼女までもが嫌悪の対象と化すのではないかと心配になったが、

「私は他の人間ではなく、あなたと仲良くしたいと考えているのです。周囲からどのように思われようとも、気にすることはありません」

 そのような堂々とした態度に、私は憧れた。


***


 他者より能力が劣っているために、給料の良い仕事に就くことは叶わなかったが、それでも子どもの頃よりは良い生活を送ることができるようになった。

 職場の人間たちは、安い給料に不満を抱いている様子だったが、私は黙々と己の仕事をこなしていた。

 そんなとき、私は必ず同じような怒鳴り声を耳にしている。

 叱責されている人間は誰かと目を向けると、想像していた通りの相手だった。

 その同僚は、私よりも仕事が出来ない人間であり、同じ過ちを繰り返していた。

 明らかに足を引っ張っているのだが、それでも解雇されないのは、社長の親戚であることが影響しているに違いない。

 だが、その同僚は笠に着ることもなく、一人の社員として働いていた。

 社長もまた、他の人間たちと対応に差異が生ずることがないようにと指示していたこともあり、その同僚は常に叱責されることになったというわけだった。


***


 その同僚は、休憩時間になると、職場の裏で涙を流していた。

 私が隣に腰を下ろすと、その同僚は涙を拭い、何事も無かったかのように食事を進める。

 私はそのことに触れることなく、世間話をするようにしていた。

 自身の経験から、このような場合においては慰めの言葉をかけられるよりも、気が紛れるような話をしていた方が良いということを知っている。

 それまで涙を流していた同僚が笑顔を見せる度に、私は彼女のことを思い出していた。

 彼女に同じようなことをされていなければ、私がこの同僚に対して気を遣うこともなかっただろう。

 彼女に恩を返したいところだが、私に出来ることなど、高が知れている。

 私の恩返しなど、彼女にしてみれば、造作も無いことに等しいだろう。

 ゆえに、私がやるべきことは、一つである。

 それは、彼女が私に対してそうしてくれたように、私のような人間が孤立することがないように気を遣うということだった。

 私がそのような行為に及び、数多くの人間が救われれば、それは彼女の功績ということにもなる。

 つまり、私に対する人々の感謝は、彼女に向けられたものということにもなるのだ。

 私以外の人間に説明したところで、理解されるとは考えていないが、私だけが分かっていれば、それで良いのである。


***


 仕事からの帰り道に通りかかる公園にて、若者たちが一人の人間を虐げていた。

 多勢に無勢であるために、私は大声で制服姿の人間たちを呼ぶ振りをした。

 その声に驚いたのか、若者たちは慌ててその場から去って行った。

 虐げられていた人間に駆け寄り、声をかけようとしたところで、私は言葉を失った。

 その人間が、彼女だったからだ。


***


 まるで、過去の私と立場が入れ替わったようである。

 恋人を支えるために身を粉にして働いていたが、恋人は彼女を裏切って別の女性と逃げただけではなく、自身の借金を彼女に押しつけたらしい。

 昼夜を問わず働き続け、恋人の借金を返済した頃には、彼女の肉体は限界を迎えていた。

 ゆえに、働くことが出来なくなり、住んでいた家も追い出され、路上で生活をする毎日と化したらしい。

 先ほどのように、若者たちの憂さ晴らしになることは、珍しいことではなかったようだ。

 傷だらけの彼女には申し訳ないが、今ならば、私でも彼女に恩返しをすることができるのではないだろうか。

 彼女に家事をしてもらう代わりに、私が住む場所を提供すれば、彼女も安全に生活することができるに違いないのだ。

 私の言葉に、彼女は自嘲の笑みを浮かべた。

「私は、あなたに感謝されるほど素晴らしい人間ではありません」

「どういう意味ですか」

 彼女は私を一瞥してから、

「私があなたに優しくしていたのは、優越感を得るためだったのです」


***


 私は気が付いていなかったが、私ほどではないものの、彼女もまた、他者より能力が劣っていたらしい。

 馬鹿にされる日々を過ごしていた彼女だったが、何をしたところで他者に敵うことはないということを理解していたために、苛立ちばかりが募る一方だった。

 そんなとき、私の存在を知った。

 そこで、彼女は私に優しくすることで、自分が他の人間よりも優れているということを味わおうと考えたらしい。

 私が感謝の言葉を吐くと、私を利用していることに対して心を痛めることもあったが、それでも彼女は己の優越感のために、私を使い続けることを決めていたようだ。


***


 真相を語った彼女は、私に謝罪の言葉を述べた。

 後悔の言葉を連ねる彼女に対して、私は首を横に振った。

「どのような事情があろうとも、私があなたに救われたという事実が変わることはありません。このまま黙っていることも出来たにも関わらず話してくれたということを思えば、あなたが誠実であるということになるでしょう。そのような人間が救われない世界など、間違っています。だからこそ、私は余計に、あなたを支えたいのです」

 私がそのように告げると、彼女は感謝の言葉を吐きながら涙を流した。

 その肩を何度も軽く叩きながら、私は思った。

 自然と笑みを浮かべてしまうこの感情こそ、彼女が抱いていたものなのだろう。

 成程、悪くは無いものである。

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隣の貧乏は鴨の味 三鹿ショート @mijikashort

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