即位の儀
1
頭上に頂く豪奢な黄金の冠。金糸が織り込まれた煌びやかな衣に緋色の外套を掛け、複雑な飾り紐を垂らす。顔には白粉を濃い目にはたき、目元と口元はきっかりとした紅を引く。
「まあ! 素晴らしいですアンナさま! どこからどう見ても立派な王族であらせられますわ」
傍付きの宮女であるカノの誉め言葉に、アンナはしっと唇の前に人差し指を持っていく。
「いったい誰のことを言っているの、カノ。よもや仕える者の名を呼び間違えたりはしていないでしょうね?」
そう言ってやると、カノは目を細めて満足そうに笑った。
「お流石です、【テラ】さま。それでこそ私の仕える主ですわ」
危ないところであった。アンナは心の中で胸を撫でおろす。
このカノという官女は、不意をついてこういった罠を仕掛けてくる。初めのうちは何度か引っ掛かりそうになったものだが、こうしてあしらうのにも随分慣れた。ましてや、もうすぐ即位の儀が始まるというこの場面である。自らの演じる役を忘れるほどアンナは落ちぶれてはいなかった。
「お忘れなきよう、テラさま。あなたさまがあなたさまであらせられることを常に心の中に留めておかなければ、ふとした瞬間に見破られもしましょう。常日頃からあなたさまはあなたさまでなければなりません。それが、あなたさまを守る術でもあるのです」
アンナは頷いた。
ヨミとの契約からすでに一週間。
いよいよだ、という高揚感に、アンナは胸を高鳴らせた。
***
奥宮の最奥。回廊の突き当りにあった荘厳な扉の先に広がる光景に、アンナは度肝を抜かれたものだ。
黒の扉の奥は、美しくも広大な敷地であった。
遠景には山。たなびく雲がうっすらとかかり、山の頂を隠している。抜けるような青空には太陽はない。日光よりもやわらかな、穏やかな光がその地を包み込んでいた。その光に溶け込むように、穏やかな色合いの御殿が点在している。今まで通ってきた宮のような黒や赤、金の装飾はない。瓦の色も落ち着いた青銅。柱には塗装が施されておらず、木の自然な経年変化による赤銅色が目に優しい。
足元には柔らかく草が萌え、その隙間を縫うように苔むした石畳が見えている。まっすぐ伸びた石畳は、中央で広がり、そのまま点在する御殿までを繋ぐ道として使われているようであった。
「……綺麗」
思わずつぶやくと、ヨミは満足そうに頷いたものだ。
「ここが冥府の最奥。祭宮という。この中には王族と、その者に仕える者しか入れないことになっている」
アンナは改めて目の前の風景を眺めた。
なんとも落ち着く景色である。冥界の原色に近い派手な色に無意識ながら疲れてしまっていたのだろう。今はこの落ち着きのある色合いが、心に沁みるようである。
ヨミはそのまま石畳の上を歩く。慌ててアンナも足を踏み出した。
少し歩くと、広場のような空間にたどり着く。人の膝丈くらいの灌木に囲まれた、こぢんまりとした空間である。
石畳の道はこの広場を中心に枝分かれしているようであった。
ヨミはそこで一度止まると、アンナをくるりとふり返る。
「祭宮には、四つの御殿がある。それぞれに王族が住み、傍付きの宮女がいる」
「四つの御殿に、王族と宮女」
アンナは復唱する。
王を演じる、と決めたのだ。その背景は押さえておかねばならない。ヨミのこの説明は、いわば台本の設定の根幹にあたる部分であり、登場人物一覧だ。その関係性を把握し、状況を飲みこまなければ演じることなどできやしない。
「今の王族は、先王ナギ、皇后ザナ、次期王テラの三柱だ。しかし、先王ナギは身罷られ、皇后ザナは療養で御殿から出ることは難しい。テラは先述のとおり失踪しているため、実質この祭宮にはザナのみがいることになる」
「ん?」
アンナは首を傾げた。
「四つの御殿があるんだよね?」
言下の問いに気づいたのだろう、ヨミはくすりと笑みを零す。
「察しがいいな。お前の感じた疑念に応えるとすると、ひとつの御殿は長らく無人だ。その昔にはもう一人王族がいたが、身罷られてしまったと聞く」
「そっか……」
では、寿命ではなく、病気か怪我かで死んでしまったのだろう。
アンナはちらりとヨミを一瞥する。
「てっきり、あなたの御殿かと思ったんだけど、ちがうんだ」
呟いた声は、予想以上に目の前の男の心を揺さぶったようである。目線が険しくなったヨミの圧に、アンナは自分が失言をしたことに気づいた。
「今、なんと?」
「いや、だから……四つの御殿だって聞いたから。あなたがその王族のひとりなのかと思ったの。それだけ」
その答えに、ヨミは思案顔でこう尋ねたものだ。
「参考までに聞きたいが、なぜそう思ったんだ」
その態度のすべてだよ、とアンナは言ってやろうかと迷った。しかしここはぐっと押さえる。今のアンナは取引を持ち掛けられている身の上である。クライアントであるヨミを怒らせても何も利にならない。
「ここには王族と仕える者しか入れない、って言っていたから。あなたはどう見ても官女じゃないし、人に仕えている者にしては偉そ……じゃなくて、威厳のある人だなって」
危ない。本音が出るところであった。気分を害してしまっただろうか。
予想に反してヨミは怒らなかった。唇の端に不敵な笑みを浮かべたまま、こちらの顔を凝視している。
「お褒めに預かり恐縮、と言ったところか。残念ながら俺は次期王の護衛だ」
「護衛ぃ!?」
「なんだその声は。俺が護衛では何か問題でも?」
アンナはヨミを凝視する。確かに鍛え上げた体と言い、身のこなしと言い、護衛であると言われれば納得もいく。しかし、アンナの勘は何かが違う、と感じているのも事実である。
護衛のはずのヨミの指先の美しさに感じる違和。体を使って働くことを知らない人の指だ、という印象が強烈に残っている。
(まあ……でも、この冥界の常識がまだ飲みこめてないしなあ)
オウミを善人である、と判断した己の勘をどこまで信じていいのかということもある。ここは納得しておくのが良いだろう。
アンナが黙ったのをよしとしたのであろう。ヨミは目線を細道の奥へと走らせた。
「今からお前を案内する場所は、次期王テラの御殿だ。テラの代わりとなっている間は、そこがお前の御殿となる」
「わかった」
そこまで言うと、ヨミはすっと目を細めた。
「お前はしばらく次期王テラとして過ごしてもらうことになるわけだが、この祭宮にいる者は事情を知っている者ばかりだ。しかし、それでも十分に気を付けてもらいたい」
「えっ」
「ナギ王のこともある。次期王テラ失踪の理由も分からぬ。警戒はしておいてほしいということだ」
そのまま踵を返し、ヨミは歩を進めてしまう。
不穏な言葉にアンナは眉を下げたものだ。
(そっか)
目の前を歩く男の広い背中をながめながら、アンナは考えた。
(王族と、仕える人しか入れない場所で、ナギ王は死んだんだもんね。ってことは、つまり)
王を毒殺した何者かは、祭宮に入れる者であるということだ。
「めちゃくちゃ危険な場所じゃん……!」
思わず声に出してしまったアンナである。
「だから、そう言ってるだろう」
対するヨミは涼し気な声でさらりと答えた。こちらを振り返りもしない。
さくさくと歩を進めて連れていかれた御殿では、一人の官女が待ちかまえていた。
「お帰りなさいませ、ヨミさま」
「カノ、これが例の身代わりだ」
ヨミはそう言いながら後ろに控えていたアンナを顎でしゃくる。カノ、と呼ばれた官女は瞳に歓喜の色を滲ませながら、丁寧に手を組み、頭を垂れた。
「カノと申します。僭越ながら、ここにおわします間のあなたさまの身の回りのことなどを、お手伝い差しあげるようにと仰せつかまつりました。よろしくお願いします」
「あ、大森アンナです。こちらこそ」
思わず名乗りながら、アンナは目の前の官女を観察する。
年のころは恐らく二十歳よりも上。しかし三十路には至っていないであろう。長い髪を頭上で結い上げ、目元に慎ましやかにひかれた紅がよく似合う。楚々とした美人である。
「では、カノ、あとのことはよろしく頼む」
そのまま出て行ってしまったヨミの後姿を見送って、カノは腕まくりをしたものだ。
「では、アンナさま。早速始めましょう! ビシバシいかせていただきますので、しっかりついてきてくださいね!」
にっこりと笑ったカノの表情に、アンナは既視感を覚えた。自身に満ち溢れた、自らに与えられた任務に誇りとやりがいを感じている。こういった人たちを、アンナは生前よく知っていた。
(なんとなくだけど、私、この人と仲良くなれそうな気がする)
そして、その予感は的中するのである。
カノは確かに優秀な官女であった。その日のうちにアンナの衣には錘が足され、頭に冠を乗せられ、名前を封じられての生活が始まったのである。
「即位の儀までは一週間もございません。幸いなことに、口上のない儀礼でございますゆえ、お言葉やその話の内容まで作る必要はありません。しかしながら、このような衣や冠を着こなさねばならないのは事実でございます」
カノは凛としたまなざしでそう言ったものだ。
「辛抱なさいませ。これはあなたさまを思ってのことでございます」
厳しい口調に、アンナは思わず口元を綻ばせた。
(嬉しい)
思わず胸に手を当てる。
生前、親の名前の偉大さに、いったい何人の大人たちがアンナに遠慮をしただろう。ちやほやされ、媚びを売られて、それで満足すると思われていたあの頃。
しかし、ここではそんなことは起こらない。アンナはアンナの実力でテラという人物を演じることができる。そして、身代わりを成功させたいと恐らくは願っているであろう目の前の官女は、アンナに厳しく指導をしてくれるのだ。
アンナは心の中にめらめらと炎が宿るのを感じていた。
「ねえ、カノ。カノ……と呼んでいいのよね?」
「勿論でございます」
「それじゃ、遠慮なく。この錘、もっと足せないかな?」
アンナは不敵に笑う。
カノは知らない。アンナは元来負けず嫌いである。
芝居の上では、普段から本番に近い服装を着て、あらゆる所作を行うことは常である。カノの行っている指導方法が自分の知っている演技指導と似通っていることも、アンナを燃え上がらせる要因のひとつである。
「冠も、本番はもっと重いんじゃないの? それなら最初から同じくらいの重量のものをつけていたいな」
カノは目を丸くし、アンナの顔を凝視している。その瞳に興奮が入り混じっていることにアンナは気づいた。
「時間がないんでしょ? それなら、できるだけ本番に近い恰好で過ごしておきたいの。靴はどう? できれば当日身につける物と同じ型を用意してほしいんだけど。裾の長さは? 腕の上がり具合も確かめておきたいな」
「アンナさま……!」
感極まったように叫ぶカノの口を、すっと人差し指で黙らせる。
「カノ。違うでしょう」
「……! 失礼いたしました、テラさま!」
カノの瞳がきらきらと輝く。アンナはその瞳に、自らと同じ炎を見た。
カノの熱意は、アンナの知る舞台の世界でよく見かける、プロのスタッフそのものであった。
彼、彼女らは、自らが携わった作品をいかに良くするかを常に考えて動いている。生半可な気持ちで勤めている役者は往々にしてその厳しさに涙し、愚痴を言い、文句を垂れると相場が決まっていた。
しかし、アンナは知っている。こういう人たちがいるからこそ、自分たちが輝ける。こういう人たちのおかげで本番を迎えることができるのだ。
そして、カノのような性質の者はこちらの本気度を測るのが巧い。自分が誠意をもって仕事に向き合っていると示せば、手を差し伸べることは惜しむまい。
「これからよろしくね、カノ」
この官女とはうまくやれそうであった。
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