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「ではテラさま。復習でございます」

 カノは囁くような声でアンナに告げる。

「これからテラさまには玉宮まで出向いていただきます。そこでまず行うことは?」

「玉座につく」

「玉座にはどのように?」

「左手側の階段から昇り、一度玉座の前で止まる。そのまま空の玉座に一礼し、振り返る。着席する前に三呼吸ほどの時間を開けて、そのままゆっくり座る」

 よどみなく答えるさまに、カノは喜色満面である。

「流石ですわ。テラさま。玉宮には神籍のものしか入れないことになっております。ゆえに不埒なことを考える者もおらぬと思いますが、気を引き締めて望んでくださいね」

 アンナは重々しくうなずいた。

(大丈夫)

 金の冠の位置を直しながら、アンナは密やかに息を吐いた。衣装合わせのときから危惧していたが、こういった装飾品の多い舞台は生前の経験がない。衣も長く、動きづらいのも難点である。

(シェークスピアとか、古典系の舞台にもっと出ておけばよかったなあ……)

 いくら練習しても、不安が残る。しかし、やるしかないのだ。

 いよいよ即位の儀――アンナの身代わりデビュー戦が始まろうとしていた。



 ***



 一歩踏みだすと、肌を刺すような緊張感のある空気がアンナを包み込んだ。即位の儀、ということで、歓声が上がったり、拍手に沸いたりなど、熱狂的な空間を想像していたアンナはやや拍子抜けする。

 だからと言って、冷めているわけではない。アンナの一挙手一投足に静かな熱を持った視線が集まっているのを感じていた。

(すごい数の人……これが全員神籍……?)

 ざっと見ただけでも千人はくだらない。広い玉宮の広場を埋め尽くすような人々は、皆一様に手を組み、玉座に頭を垂れていた。宮の壁沿いには揃いの衣を纏った武官たちがぞろりと並び、煌びやかな弓や槍が光を放っている。

 異様に静かな空間が宮全体を覆っていた。頭を垂れているはずの神籍たちから発せられる視線が痛い。ひそかに観察されているような視線を受け、アンナは心の中で首を傾げた。

(なんか、変……)

 王は、敬われるものではないのか。この視線はまるで、値踏みをされているようである。

(それに……)

 アンナの瞳は違和感を見逃さない。神籍の中に混じる異分子に、そっと眉を寄せた。

 玉座の後方右にはヨミが立ち、正面をじっと見据えている。片手に槍を携えた姿はいかにも護衛然としている。

 ヨミとは実に一週間ぶりの邂逅である。内心どう思っているかはさておき、いたって平静な顔で正面を向いているあたり、この男もなかなか肝が据わっているといえるであろう。

 考えていても仕方がない。アンナはそのまま、ゆっくりと歩を進めた。自らが歩くたびに、冠から垂れ下がった金の鎖がしゃらしゃらと音を奏でる。緋色の外套は長く、アンナの体に沿って滑るように落ち、床に広がり波紋を描いていた。金の衣の飾り紐をさらりと揺らし、すり足で床を歩く。

 裾を踏まないように気を付けながら、アンナは手順通り左手側から階段を登り切った。

 そっと一息つく。ここまでは上出来だ。カノとの特訓のおかげであろう。衣や冠を本番仕様にして大正解である。

 そして玉座の前で止まり、一礼をしようとした時であった。

 初めは、何か空気の塊が通り抜けたのだと感じた。頬にちりりとした痛みを感じ、アンナは思わず頬を押さえる。

(う、そ)

 血だ。頬を掠めた鏃が玉座に突き刺さっている。

 射られた。その事実にアンナは頭が真っ白になる。

「縄を持て!」

 ヨミの大音声が空気を切り裂き、武官たちは一斉に各々の武器を構えた。途端に場内は恐慌状態に陥った。

「賊だ!」

「紛れ込んでるぞ……!」

 人々の足が乱れる。巻きこまれたくないのか、それとも単に恐怖からか、この宮から逃げ出そうとしているのだ。矢を射たものを捕縛したいのであろう、武官たちが宮の入り口を封鎖にかかる。その流れに反するように、神籍の者たちが怒号を挙げていた。

 その光景を、玉座の前でアンナは呆然と眺めている。

 王がここにいる。これから即位するという、神聖な儀式の際中であるのに。

 この者たちの、無礼な振る舞い。

 これが本物の王ならどうする――?

「……鎮まれ!」

 腹の底からの大音声に、すべての者の動きが止まった。

 宮城を揺るがすかのような声が、玉座の前にたたずむ小柄な少女から発せられたことが信じられないのであろう。武官やヨミでさえもぴたりと動きを止め、何が起こったのかとアンナを注視する。

「ヨミ」

「はっ」

 切りつけるように呼ぶと、すかさずヨミが跪く。

「門の向かって右横。武官二人に挟まれている男がいるな。緑の衣の男だ。そやつが矢を射た。捕えろ」

「ひっ!」

 悲鳴と共に、対象の男が踵を返した。すかさずヨミが鋭く視線を走らせる。

 踵を返して逃げ出そうとした男が武官の槍に阻まれ、地に膝をつかされていた。

「ヨミさま、捕えました!」

「こやつ、小弓を隠し持っているぞ!」

 たっぷりとした衣の袖から弓を探り当て、武官が眦を釣り上げる。

「連れていけ!」

 ヨミの指示で、男は縄を打たれる。悔しそうな目でアンナを凝視し、そのまま引きずるように門から出されていった。

 広場はしんと静まり返っている。神籍の者は、茫然とアンナを見つめていた。その視線が十分に自分に集まったことを感じとり、アンナはさらに言葉を重ねる。

「……私は視ているぞ」

 瞬きをせずに、悠々と。一人ひとりの顔をじっくりと眺めるように広場の隅から隅へと視線を走らせる。

 その視線に屈したように、ひとりの神籍が膝を折った。それに倣うように、また一人、そして一斉にすべての者が膝を折り、頭を垂れ、手を組んだ。

 そこには、アンナが最初に感じた値踏みをされているような視線はない。

 畏れと動揺。そして崇拝。静かな熱が、広場にさざ波のように広がっていく。アンナは重々しく頷くと、満を持して玉座に腰を下ろした。

「……歳」

「テラ王、万歳……!」

 神籍の大歓声とともに、偽王アンナは無事即位した。



 ***



「あー! ほんと、疲れた!」

 御殿で冠を置き、衣を脱いだアンナは、湯の入った木桶に足先を沈めていた。身の奥に燻る興奮と疲労感が心地よく湯に溶けていく。

 御殿の湯殿は蒸し風呂だ。熱せられた岩に水をかけ、蒸気を浴びて、汗を流す。そのために作られている湯殿には、湯を溜められるような設備はなかった。しかし、アンナとて生前の風習は大切にしたい。これだけはわがままを言わせてもらい、特別に湯を溜める木桶を用意してもらったのである。

(本当はお風呂に入りたいんだけど、まあ、仕方ないよね……)

 足湯には痩身効果もあるというし、とアンナは自らを納得させる。

 岩にかける水には香油が垂らしてある。蒸気から漂うほのかな花の香りが心地よい。

(蒸し風呂って、つまりサウナよね)

 流れ出る汗を手で拭いながら、アンナは目の前でもうもうと煙を上げている岩をながめる。生前では利用したことがなかったが、意外と気持ちの良いものだ。体の芯から熱が回り、血が隅々まで行き渡っているような感覚を覚える。

(生き返ったら、サウナに行ってみよう)

 やりたいことがまた一つ増えた。ふふ、とアンナは笑みを零す。

 蒸気の籠もった湯殿から出ると、石畳の流し場だ。汗にまみれた身体を水で清めるための場所である。

「今日はお疲れさまでした、テラさま!」

 腕まくりをしたカノが喜色満面で出迎える。

「さ、そこへ腰かけて。ぴかぴかに磨いて差し上げます」

 アンナは大人しく石造りの椅子に腰かけた。カノは嬉々としながら手にした手巾で身体の垢をこすり落とし、水をかけていく。

 カノに裸を見られることにも随分と慣れた。初めは抵抗したものの、「王たるもの、身の回りの雑事は私のようなものに任せるものです!」と指導が下ったのである。

「ふふっ」

 何度目かの水を掛けながら、カノが笑みを零した。

「テラさま。ご活躍だったんでしょう?」

「えっ」

 耳が早い。アンナは純粋に驚いた。

「宮はテラさまのご活躍でもちきりですわ。新しい王は背中にも目をお持ちであるって! もっぱらの噂になっているんですよ」

「そうなんだ……」

 カノに香油を塗り込められながら、アンナはぼんやりと今日の出来事を思い出す。

 我ながらよく乗り切った、という興奮が落ち着くにつれて、頬を掠めていった鏃の鋭さへ思いが移る。あの鏃は、アンナを狙ったものに違いない。下手したら生き返りを果たす前に、冥界での死を迎えるところだったのかもしれないのだ。

 今更ながら、言いようのない恐ろしさがこみ上げてくる。

 稀人として冥界に入ったときの扱いもしかり。最初に足を踏み出したときの神籍の人々の視線の意味。鏃で王が狙われるという事実。

(私は、まだこの冥界の常識が分からない……)

 花の香りに抱きすくめられながら、アンナは目を閉じた。


 生前――といってもまだアンナは死を了承していないが――巨匠と呼ばれる演出家の下で演技をしたことがある。アンナはほんの端役であったが、自分の役についてレポートせよというお題を課せられた。

「舞台には舞台の背景がある。その背景の常識があって、お前たちにはそこで生きてきた歴史がある。ちょい役だからと言って適当に演じるやつは、即刻降ろすから覚悟しろ」

 アンナはこの言葉に感銘を受けたものだ。

(私がテラをちゃんと演じるには、この冥界の常識をもっと身につけないと)

 命の危険があるような現場である。知識は多いにこしたことはない。そしてきっと、知識が自分の身を守る術にもなるであろう。

 夜着に腕を通して洗い場を出ると、既に夜が深まっていた。格子の嵌った丸窓からは薄青い光がうっすらと差し込み、板張りの床を染めている。

 まだ少し気が高ぶっていた。本番の後はいつもそうだ。カノに茶でも淹れてもらい、その間に日課のトレーニングでもしようか。アンナがそんなことを考えていた時である。

 ふと、柱の影が動いた。アンナは目を瞬かせる。……人だ。瞬時に警戒するも、その必要はないのだと力を抜く。

「……ヨミ?」

「今日はご苦労だったな、アンナ」

 夜の闇に溶け込むような漆黒の衣をなびかせて、ヨミが唇を引き上げて笑っていた。





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