20年前の思いと、目の前の幸せ

春風秋雄

それは突然の訃報から始まった

生まれ故郷の三重県熊野市へ帰るのは、何年ぶりだろう。もう12年ぶりになるのだろうか。俺の実家はすでにない。両親は俺と兄が県外で就職して、もう熊野に帰ってくることもないと悟ると、兄貴の説得に応じて、実家を売り払って、兄貴のいる大阪へ引っ越した。それ以来、俺は故郷の熊野へ帰ることはなかった。同窓会の案内も何回か来たが、大学卒業後は浜松に住んでいるので、実家がなくなってからは一切出席していない。でもまさか、こんなことで帰ることになるとは思わなかった。突然届いた訃報。まさかあいつが、こんなに早く逝くとは。まだ38歳ではないか。早すぎる。早すぎるじゃないか、智弘。


高校時代の同級生から電話があり、智弘の訃報を聞いてから、俺は年賀状を引っ張り出した。智弘の子供はまだ10歳だ。生命保険には入っていただろうから、当面の生活はなんとかなるとしても、それからどうするのだろうか。確か智弘の実家でご両親と同居していたはずだ。奥さんの沙奈枝は智弘がいなくなった後も、智弘の実家でご両親と暮らしていくのだろうか。俺はそんなことを考えながら、喪服が入ったスーツケースを抱えて新幹線に飛び乗った。


俺の名前は大川紀之(のりゆき)。現在38歳の独身だ。名古屋にある大学を卒業した後、電力会社に就職し、浜松の事業所に配属となった。それ以来、ずっと浜松で暮らしている。

中西智弘と、沙奈枝の夫妻とは高校時代の同級生だ。そして、沙奈枝は、俺の元カノだった。俺と沙奈枝は同じバスケット部だった。バスケット部は同じ体育館で練習していたが男女の練習は別々だ。だから、同じバスケット部だからといって、クラスが同じでなければ話す機会はほとんどない。俺は、沙奈枝のことが気になっていたが、遠くから練習する姿を眺めているだけだった。ところが、3年の春に偶然にも帰りのバスが一緒になり、しかも先に俺が座った席の隣に沙奈枝が座ってきた。沙奈枝の方から「たしか大川君だったよね?」と話しかけてくれた。それをきっかけに、俺たちは仲良くなった。夏の大会前に俺から告白して、俺たちは付き合うようになった。それからたまに俺の親友だった智弘を呼んで3人で遊んだりした。智弘は地元の専門学校へ行って家業の機械工場を継ぐことになっており、沙奈枝も高校卒業後は地元で就職することになっていた。卒業式が終わって、俺が地元を離れるとき、俺は沙奈枝に言った。

「大学を卒業して、就職が決まったら、必ず迎えにくるから」

沙奈枝は目を潤ませて、頷いた。

しかし、大学へ行ってしまうと、俺はなかなか地元に帰ってこられなかった。熊野に帰るのに片道3時間かかる。都会での暮らしは楽しく、友達と遊んでいると、熊野へ帰るのが億劫になってきた。1年ほどして、沙奈枝から「別れようか」と言ってきた。俺は素直に聞き入れた。

就職して1年くらい経った頃に智弘から電話があった。

「沙奈枝と付き合おうと思っているけど、いいかな?」

という電話だった。いいも悪いもない、俺と沙奈枝は別れて4年になるのだから、俺に断る必要はないと答えた。しかし、俺の心の中はかなりざわついていた。それから1年ほどして智弘から結婚することになったけど、式に出てくれるかと聞いてきた。結婚式に元カレが出てはダメだろうと言って、やんわりと断った。本心は、沙奈枝が他の男と結婚する姿を見たくなかったのだと思う。そうこうするうちに実家がなくなることになり、最後の荷物整理で熊野に帰った際、智弘と少し会ったのが最後で、俺はそれ以来、智弘とは会っていなかった。


葬儀には高校時代の旧友がたくさん来ていた。久しぶりに見る沙奈枝は、あの頃の美しさが、今も衰えていなかった。しかし、幼い娘さんと並んで座っている姿は、悲嘆に暮れたであろうことは想像に容易く、俺は思わず胸の奥が熱くなるのを感じた。沙奈枝は俺の顔を見て、軽く会釈しただけだったが、智弘のお母さんは、読経が終わってから、俺のところまで来て挨拶してくれた。智弘とは小学校からの付き合いで、母親同士も親しくしていたので、俺が浜松にいることも知っている。

「紀之君、遠くからありがとうね。智弘も喜んでいるよ」

そういうお母さんに、俺は何と声をかけてあげれば良いのかわからなかった。

その日は熊野にホテルをとっていた。俺が熊野を出てすぐに、熊野古道が世界文化遺産になったことから、ホテルは盛況のようで、前日予約だったので、なかなか空きがなく、何件かあたってようやく確保できた。

葬儀のあと、旧友たちと夕食を共にした。俺が熊野を離れてからの街の様子などを色々話してくれた。智弘との思い出話も色々出た。智弘は車の単独事故だったようだ。夜中に電信柱に衝突したらしい。仕事が忙しかったようで、多分居眠り運転だったのだろうということだった。

ホテルに入って、しばらくすると、沙奈枝から電話があった。俺のスマホには沙奈枝の番号を消せずに残していたが、別れてから、沙奈枝と直接話をするのは初めてだった。

「今日は遠くからありがとう」

「智弘は残念だったね。気を落とすなと言っても無理だろうけど、お子さんもいることだし、頑張らないとダメだよ」

「うん、わかってる」

「これからどうするの?智弘の家にずっといるの?」

「まだどうするか、何も考えていない」

「そうか、俺に出来ることがあれば遠慮なく言ってくれ。智弘と沙奈枝のためなら、力になりたいから」

「ありがとう。何かあったら連絡する」


智弘の葬儀が終わってから半年くらい経った頃に、大阪のお袋から電話があった。

「あんた、中西さんとこの息子さんの葬儀に出たんだって?」

「ああ、智弘は残念だったよ」

「何で教えてくれなかったのよ。知っていれば弔電と香典くらいは出したのに」

「ああ、悪かった。お袋まで知らせなくてもいいかと思って。でも、何で知っているんだよ?」

「昨日中西さんの奥さんから電話をもらったの」

智弘のお母さんが?二人はいまだに連絡取り合っているのか?

「紀之は独身なのか、結婚の予定はないのか、今決まった相手はいないのかって、しきりに聞いていたよ」

どういうことだ?

「あんた、中西さんの息子さんの奥さんと、昔付き合っていたんだって?」

いきなり言われて俺はすぐには返事が出来なかった。

「中西さんは、残された奥さんとお子さんのことを気にされていてね。孫は可愛いけど、奥さんはまだ若いのに、このまま家に縛り付けておくわけにはいかないしって、悩んでいたよ。あんた、まだその奥さんのこと好きなのかい?」

「俺の気持ちがどうこうではなく、向こうにその気がないだろう。だいいち、智弘の葬儀が終わってまだ半年くらいしか経ってないんだから、沙奈枝さんも再婚なんかまだ考えられないだろう」

「なるほどね。その口ぶりだと紀之は、まだ、まんざらではないということか」

「母さん、俺そんなこと言ってないだろ!」

「私はねえ、あんたがその年まで独り身でいるのが心配なんだよ。バツイチだろうが、子持ちだろうが、あんたが身を固めてくれるなら、私は大賛成だよ」

「母さん、さっきも言ったように、俺の気持ちがどうであれ、相手にその気持ちがなければ無理だし、せめて智弘の三回忌が終わるくらいは時間をあげないと、向こうさんはそんなこと考えられないだろう?」

「紀之、大人の2年は大した時間ではないけど、10歳やそこらの子供の2年は大きいよ。その間、その子は父親のいない暮らしを強いられるんだからね」

そう言われて、俺は何も言えなかった。しかし、それは沙奈枝が考えることで、俺からアクションを起こすべきことではないと、その時は思った。


智弘の一周忌は、気にはなったが仕事が忙しく、熊野まで行くことはできなかった。沙奈枝のことは心配していたが、こちらからアクションを起こすことではないと思い、そのまま放置していた。

そんな頃、お袋から電話がきた。智弘のお母さんが浜松に行くらしいから駅まで迎えに行ってやってくれと言う。俺はあわててお袋から聞いた電話番号に電話した。

「おばさん、お袋から聞きましたけど、浜松に来るんですか?」

「紀之君、悪いねえ。今度の土曜日に行くから、駅まで迎えに来てくれるかい?」

「それは大丈夫ですけど、浜松に何か用事があるんですか?」

「それは会ってから話すよ」

おばさんはそう言って、新幹線の到着時刻を教えてくれた。


新幹線は定刻通りに到着したようで、改札口で待っていると、ほどなくおばさんは出てきた。

「いやあ、遠いね。4時間以上もかかるんだね」

「遠くからご苦労様でした。今日はホテルを取っているのですか?」

「今日は名古屋にいる妹のところに泊めてもらうから、用事がすんだら名古屋へ行くよ」

そういえば、俺が名古屋の大学に行くと言った時、智弘が名古屋には叔母さんがいると言っていた。

「そうですか。それで用事があるのはどこですか?そこまで送って行きますよ」

おばさんはキョトンとした顔をして言った。

「私は紀之君に話があって来たんだよ。どこかゆっくり話せるところはないかい?」

俺に話がある?何だろう?とりあえず、俺はおばさんをホテルのラウンジに連れて行った。

「紀之君、あなた、沙奈枝さんをもらってやってくれないか?」

突然の話で俺は驚いた。

「あなたのお母さんに話したら、紀之君さえよければ歓迎するということだったよ」

「ちょっと待ってください。このことを沙奈枝さんは承知なのですか?」

「沙奈枝さんは、私たちに遠慮しているのか、ずっとここにいますの一点張りでね」

「だったら、僕がもらうとかそういう次元の話じゃないじゃないですか」

「沙奈枝さんはねえ、うちを出たら行くところがないんだよ。実家はお兄さんの家族がいるから、居場所はないし、仕事もいまはうちの仕事を手伝ってくれているけど、自立できるほどの給料は払えないしね。だからうちに留まるしかないと思っているんだよ」

「それだけでなく、おばさんたちの老後のことも考えてくれているんじゃないですか?」

「私たちの老後のことなんか、どうにでもなるさ。近くに次男の智次もいるし。智次も沙奈枝さんに両親の老後は俺が見るから、自分の幸せを考えてねと言っているんだから」

状況がわかってきた。智弘の家族は、べつに沙奈枝さんを縛り付けているわけではなく、沙奈枝さんが出るに出られないという状況なのだ。

「別に私たちは、沙奈枝さんを追い出そうとしているわけじゃないんだよ。孫の仁美は可愛いし、出来たらうちにいて欲しいと思っているよ。でもそれじゃあ、沙奈枝さんがあまりにも不憫じゃない。まだ39歳だというのに、このまま旦那もいないのに、血も繋がっていない老人の面倒をみるためだけに年老いていくなんて」

「沙奈枝さんは、智弘への気持ちは吹っ切れていないんじゃないですか?」

「そうだろうね。まだ1年ちょっとしか経ってないからね。でもね、このままうちにいたんじゃあ、新しい出会いはないじゃない。毎日毎日、うちの仕事をして、家に帰ったら家事をして寝る。こんな生活じゃあ、出会いなんかないでしょ?沙奈枝さんの場合は、誰か生活力のある男の人があの家から連れ出してあげないと、沙奈枝さんはあの家を出るに出られないんだよ。でも、今のままじゃあ、そんな男性は現れないじゃない」

確かにそうだろう。誰かが沙奈枝の手を引っ張って、連れ出さない限り、沙奈枝はあの家を出ることはできない。

「だから、紀之君にそれをお願いしたいの」

「でも、僕なんかじゃあ、沙奈枝さんから見れば役不足ではないですか?」

「そんなことないよ。ちゃんとした会社で働いて、生活力もあるんだから」

「そうではなくて、沙奈枝さんの気持ちです。僕が連れ出そうとしても断わられるのではないですか?」

おばさんはジッと俺の顔を見た。

「紀之君にはその気はあるんだね?」

そう聞かれると、俺は自信がなかった。

「ごめんなさい。その気があるのかどうか、自分でもよくわかりません。智弘のために、何とかしてあげたいという気持はあるのですが、純粋に沙奈枝さんと結婚したいという気持があるのかどうか、まだ自分でもよくわからないんです」

「だったら、一度沙奈枝さんと話してみてはどう?」

俺も、一度沙奈枝と話してみたいとは思っていた。

「わかりました。僕としては、どういう展開になるかわかりませんが、沙奈枝さんと一度話してみたいと思います」

「じゃあ、わたしがお節介やいて、セッティングしてみるわ」

おばさんに押し切られる形で、沙奈枝と話す機会を設けることになったが、さて、どうなるのか。


その後、中西のおばさんから一度連絡があったが、

「ごめん紀之君、沙奈枝さんがなかなかウンと言わないのよ。もう少し待って」

ということだった。

しかし、それから中西のおばさんからは、なかなか連絡がなかった。俺から催促するのも変なので、そのまま放置していたら、1年近く経った。もう連絡はないだろうと思っていた頃に、中西のおばさんから電話があった。

「紀之君、なかなか連絡できずにごめんね」

「いや、ぜんぜん気にしていないですから」

「それでね、沙奈枝さんはいまだにウンとは言わないんだけど、智弘の三回忌に来てくれない?日程は土日にするから」

「一周忌に行けなかったので、三回忌には行こうかなと思っていましたので、大丈夫ですよ」

「それで、その時に、沙奈枝さんに話があると言って、じっくり二人で話してみてよ」

「それはいいですけど、いまだに良い返事をしないのであれば、おばさんの期待通りにはならないと思いますよ」

「それならそれでいいの。私は沙奈枝さんの本心が知りたいの。沙奈枝さんが生涯連れ添うのは智弘だけだと決めて、もう再婚の意思がないというのであれば、それはそれで有難いことだと思っている。でも様々な事情で再婚を諦めているのであれば、何とかしてあげたいの」

「わかりました。誘いに応じてくれるかどうかわかりませんが、三回忌の時に話があると誘ってみます」


三回忌の法要が終わって、場所を変え、ちょっとした料亭でのお斎(とき)にも付き合い、皆が解散したあとに、俺は沙奈枝にちょっと話したいと言って誘った。沙奈枝は1時間後に神社でと、昔学校帰りによく立ち寄った神社を指定した。

1時間後に神社へ行き、待っていると、ほどなく沙奈枝がやってきた。

「ここ、懐かしいね」

「あの頃、よく来たよね」

「いつも沙奈枝ばかりがしゃべってた」

「そうだったかなぁ?それより、お義母さんが、変なこと頼んでごめんなさいね」

「別に変なことではないよ。おばさんは沙奈枝のことを心配しているんだよ」

「それはよくわかっている。でもそれで紀之君に迷惑かけたのだから、申し訳ない」

「別に迷惑だとは思ってないよ。俺は沙奈枝の力になりたいと思っている」

沙奈枝はジッと俺の顔を見た。そして、ふと視線を外して聞いた。

「どうして結婚式にきてくれなかったの?」

「元カレが結婚式に出たらおかしいだろ?」

「誰もそんなこと思わないよ。ましてや、当の本人が来てと言っているんだから」

俺は沙奈枝の顔を見ずに言った。

「本当は、花嫁衣裳を着た沙奈枝が他の男の隣にいるのを見たくなかった」

沙奈枝が俺を見た。

「だって、私のことなんか、もう何とも思ってなかったんでしょ?智弘が電話で聞いたときも、俺のことは気にしなくていいって言ったんでしょ?」

「あいつ、律儀だよな。俺たちは4年も前に別れているのに、俺にお伺いを立ててからじゃないと沙奈枝と付き合わないなんて。もし俺がダメだって言ったらどうしたんだろう」

「その時は付き合わなかったと思う。あの人はそういう人だった」

「そうか、そうだよな。あいつはそういうやつだったよな。多分あの時、俺もそう思ったんだ。だから、俺のこと気にするなって言ったんだ」

「そっかあ、そういうことだったんだ」

「でも、智弘のこと、好きだったんだろ?」

「好きだったよ。いい人だし。優しいし。この人と結婚すれば幸せになれるんだろうなと思った」

「そうか」

「でも紀之君と付き合っていた頃の感覚とは違ってたかな」

「どういうふうに?」

「10代の頃って、先のことは考えないじゃない?今、この人が好きって思ったら、先のことなんかどうでも良くて、ひたすらに目の前のその人を好きになればいいわけじゃない。紀之君の時は、そういう感覚だった。でも、少しずつ大人になってくると、先のことを考えるようになるの。5年後の自分はどうなっているのだろう、10年後の自分はどうなっているんだろうってね。紀之君が熊野を出て、1年くらい経ったとき、ものすごく不安になったの」

「それで、俺とは別れて、違う道を行こうとしたんだ?」

「あの時は、紀之君を試したの。私が別れようかって言って、紀之君が別れない、約束通りに就職が決まったら迎えに行くって言ってくれたら信じよう。そうでなければ別れようと思っていたの。でも紀之君はすんなり別れようって言った」

「そうだったのか?俺はてっきり沙奈枝が別れたがっているんだと思った」

「私は別れてとは言っていないよ。別れようか?って言ったの。紀之君がそう思ったのは、おそらく紀之君が私と付き合っていくのが面倒になっていたんじゃないのかな」

確かにそうかもしれない。あの頃俺は、遠距離恋愛はしんどいと思い始めていた。

「とにかく、私はあの時に、紀之君のことはキッパリ諦めたの」

「そうか・・・」

「女はね、目の前の幸せに飛びつく生き物なの。同じ女でも人それぞれかもしれないけど、私の場合は、幸せになれるかどうかわからない不確かな恋より、幸せになれると信じられる、自分を愛してくれる人を選ぶの」

「なるほどね。じゃあ、やっぱり俺がいくら望んでも、おばさんの期待通りにはなりそうにないね」

「紀之君は、私との結婚を望んでいるの?」

「最初話をもらった時は、自分がどうしたいのかわからなかったけど、色々考えていたら、できたら結婚したいと思ってきたところだったけどね」

「それはどうして?」

「まだ沙奈枝のことが好きなんだよ」

沙奈枝は「ふーん」と言ったきり、それ以上何も言わなかった。


それから1か月ほど経った土曜日の夜のことだった。いきなり沙奈枝から電話があった。

「ねえ、今浜松の駅なんだけど、紀之君の家はここから遠いの?」

「今浜松にいるの?どうして?」

「あれから考えていて、だんだん腹が立ってきて、どうしても紀之君に言わないと気が済まないという気持ちになって、来ちゃった」

どういうことだ?俺は何か沙奈枝を怒らすことを言ったか?

とりあえず、俺はうちの近所の目印になる場所を告げて、タクシーに乗って、そこまで来るように言った。

待っていると、沙奈枝が乗ったタクシーが来た。

「今日は仁美ちゃんは大丈夫なの?」

「もう小さい子供じゃないから。お義母さんに任せてきた」

とりあえず、俺の部屋に案内した。

「意外と片付いているじゃない」

「夕飯は食べた?」

「電車の中で駅弁を食べたから大丈夫」

「じゃあ、コーヒーでも淹れるよ」

ダイニングテーブルにコーヒーを置き、向き合った。

「それで、俺は何か怒らせること言ったのかな?」

「紀之君はね、どうして自分がこうしたいということをはっきり言わないのよ」

「えーと、どういうこと?」

「この前言っていた別れ話の時のことだってそう。本当は別れたくなかったんでしょ?」

「まあ、そうだね」

「だったら、どうして別れたくないと言わなかったのよ」

「だって、それは沙奈枝が別れたがっているって思ったから」

「私の気持ちより、自分はこうしたいんだってことをはっきり言って、その後で私の気持ちを聞くのが本当でしょ?」

「まあ、そうだね。でもいまさら何年も前のことを言われても」

「じゃあ、最近のことを言うわ。あなたは私と結婚したいって思っていると言ったでしょ?だったらどうして結婚してと言わないのよ」

「でも、沙奈枝にはその気がないようだから、言っても仕方ないと思って」

「いつ私が、その気がないって言ったのよ?」

「いや、話の流れから、そうじゃないかなと思って」

「ちゃんと結婚して下さいと言われれば、私だって考えるわよ」

「そうなの?」

「言ったでしょ。女は目の前の幸せに飛びつく生き物だって。特に私は、幸せになれると信じられる、自分を愛してくれる人を選ぶって」

「じゃあ、結婚してくれるということ?」

「私と、仁美をちゃんと幸せにできる?」

「もちろん。天国の智弘にも誓うよ。二人を幸せにするって。だから、結婚してください」

「わかった。じゃあ結婚してあげる。ちゃんと仁美の学校とか調べておいてね。言いたかったのはそれだけ。じゃあ、私は帰るから」

沙奈枝はそう言って帰ろうとした。

「帰るって、今から?電車ないだろ?どこかホテル取ろうか?」

沙奈枝はキッと振り向いた。

「どうして、そこで、今日はここに泊まれと言わないのよ!」

「ごめん、今日はここに泊まって下さい」

沙奈枝はゆっくりと俺に抱きついてきた。そして俺の腕の中で言った。

「これからは、自分がこうしたいということは、はっきりと口に出して言ってね」

「わかった。じゃあ、キスしてもいい?」

「そういうのは口に出さずに、すぐに行動してほしいな」

沙奈枝はそう言って、静かに目をつむった。

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