姉という人

事件発生から、五日。

秋保警部補の葬儀が終了し、秋保巡査長が出勤してきたと連絡を受けた。

会議室の一つを準備してもらい、加納と二人で話を聞くことにする。

加納も私も、犯罪被害者だ。

甘いかもしれない。狡いかもしれない。

でも、二人で行くのが一番良いと判断した。

会議室へ到着すると、開かれた扉の奥に窓の外を見つめる青年が立っていた。

二人で中に入り扉を閉めると、彼がこちらを向いた。

青年の目には、生気が感じられなかった。

捜査に参加したくても参加できない。捜査状況を聞きたくても聞けない。

生殺しに近い状態かもしれない。

自分が経験したことを、彼も経験していると考えると胸が重い。

お互いに一礼をした後は、俯きがちにパイプ椅子へ座った。

目の前の青年は、頭を垂れ深く俯いている。

重々しい空気の中、自分の覚悟を決める。

「辛い時に申し訳ない。お姉さんの事を聞かせてもらえないか。」

ゆっくりと、やっと見えた顔。

短髪の髪、綺麗な大きな瞳。

全体的に小さな輪郭の顔に、ぽってりとした唇が乗っている。

姉の秋保警部補は人懐っこく可愛らしい印象だったが、弟の方は独特の色気を

感じる。

血の繋がりは確かに感じられないが、二人とも実年齢よりも若く見えるところは

共通していた。

きっと、笑ったら余計に若く見えるだろうが、今は瞳が充血し、頬はこけて

顎には無精ひげが生えている。

見るのも、痛々しい。

充血した瞳に力が戻ったと思ったら、弟の口から想像通りの言葉が出てきた。

「俺を、捜査に参加させて貰えませんか。」

「それは出来ない。身内の捜査に参加は許されない。

 それに、今の君は犯人を憎んでいる。」

「当たり前です。姉を殺したやつですよ!?」

「だからこそだよ。君は刑事だ。犯人を捕まえるのが、君の使命だ。

 憎んで、犯人に制裁を加えかねない人間に警察官は務まらない。

 分かるね?」

自分の言葉を聞いた秋保巡査長の目から、また力が抜けてしまった。

俯いた顔の下から、ぶつぶつと呟く声。

「大切な人を殺された側の気持ちなんて、分かる訳ないですよね。」

「分かるよ。分かるからこそ、参加させられない。」

「分かる訳ない! 分かるなんていうな!

 姉ちゃんの体、顔以外は傷だらけで。包帯を、体中にぐるぐる巻かれて。

 あんた達に、分かる訳ないだろ!」

「分かるよ。自分の妻も、殺されたから。」

「私も分かります。私も、姉を殺されました。」

自分と加納の言葉を聞いて、秋保巡査長は目を見開いている。

頭が追い付かないという顔で、座り込み黙ってしまった。

「ここに居る加納の姉は、自分の妻で警察官だった。

 白バイ隊員でね、事故処理の途中で怪我人を庇って轢き逃げされたんだ。

 その時は、今の君と同じ気持ちだったよ。

 犯人を自分の手で捕まえたかったし、殺してやりたいとも思った。

 けれど、それをしてしまったら妻はどう思うだろうと。

 警察官として生きてきた彼女は、そんなことをして喜ぶだろうかと。

 君のお姉さんも、そうじゃないのかな。

 警察官である君に、犯人を殺してくれなんて願うかな。

 どうして、君はお姉さんと同じ警察官になったの?」

俯く青年からの返事はない。

ぎゅっと握られていく拳が、震えている。

暫くして、小鳥の鳴き声が聞こえた。

秋保巡査長が、ゆっくりと語りだす。

「俺、一時期グレてたんです。

 家に帰りたくなくて、友達の家や所謂、溜まり場に居たことがありました。

 ある時、喧嘩相手に拉致られて。

 姉ちゃんはそんな俺を、たった一人で救い出してくれたんです。」

 

あの時の事を、忘れられる訳がない。

一気に情景が浮かび上がる。


*****************


瞼を上げる。視界がぼやけて、今何を見ているのかわからない。

俺、椅子に座ってる?

口の中で、鉄の味がして気分が悪い。

あ、縛られてる? 腕と手、足も動かない。

折りたたみ椅子が、ガタガタ音を立てた。

視界がはっきりしてくる。

薄暗くて埃っぽい割と広い空間。

埃にやられたのか、急に咳が出る。

ついでに血の味の唾を吐きだす。

「起きたのか。情けねぇなあ。カッコつけの孤独なオオカミくん。」

少し離れたところから、ゲラゲラと笑う声が聞こえる。

あぁ、そうか。思い出した。

ここ二・三日家にも帰らず友達と街をうろついていたら、最近しつこくしてくる

奴らが来てやりあったんだっけ。

あいつら、逃げられたんだな。

と、思うのと同時に見捨てられたと思い知る。

俺が目立つのを嫌う陰険な奴らの攻撃に、日々いやいや付き合っていた。

俺はイライラしていた。

だから、発散するにはちょうど良かった。

でも、今回ばかりは相手の数が多いのと、変な大人が混じっていて

やられてしまった。

なんで大人が混じっている? 

ハングレかヤクザか?

「ふぅん? 可愛い顔をしているなぁ。」

顎をくいと上げられると、明らかにやばそうな奴と目が合った。

この目は、本当にヤバイ。

直感で分かった。なんかされる。

頬に息がかかる。温かくて、ざわざわする。

掌が頬に添えられて、思わず顔をそらした。

「「うっ…。」」「ぐぅっ。」

ドサッ、ドサッ、と倒れる音がする。

頬から、嫌な感触が離れていく。

「弟に手を出す? いい度胸してる。ほんと…。汚い手で触るな。」

音がした方を見ると、大人たちが三人ほど倒れていた。

その真ん中に、パンプスを履いた足が見える。

その足が、倒れた一人の股間に容赦なく蹴りを入れる。

隣に立っている男が、狂気の声を上げて走っていく。

ベルトに隠していたナイフが見えた。

やばい。と思ったけど、そうだ。

やられるのは、そいつと決まっている。

男に向き直ったと思いきや、後ろに隠していた警棒を綺麗な動作で伸ばして構える。

その人の事知らないだろ、空手の世界では無冠なのに強いんだぞ。

なんで試合に出ないのかって聞いたけど、私の為に習っていることだからって

訳わかんねぇ。

「誰かを守るため。じゃ、だめかな?」

昔、話してくれた言葉を思い出す。

表彰されなきゃ、意味ねえんだって。

俺の方が賞取って認められているのに、姉ちゃん、全然認められないじゃん。

なのに、姉ちゃんはいつも正しくて。

ナイフを持った男は、あっという間にのされて腹を蹴り上げられている。

「ぐえっ」と言って白目を剝いて気を失い仰向けに倒れた。

姉ちゃんは、そいつの股間に蹴りをいれた。

本当に怒った姉ちゃんは、容赦がない。

顔は見えないが、本気で怒っている。

「おい、そこの坊やたち。やりすぎだ。わかっているの?」

怒りに満ちた横顔が見つめる先は、俺を痛めつけた奴ら。

足早に、そいつらの方へ向かっていく。

「な…なんだよ…ババア。」

リーダー格の奴が気圧されて、地面によろよろと崩れ落ちた。

殺気立っているというのは、こういう事なんだろう。

体の周りに電気でも放っているみたい。

「君、痛みを知らないんだろうね。我儘に育てられて過ぎて。

 だから、痛みを教えてあげる。」

無表情の姉ちゃんが、怖い。

手には警棒がまだ握られている。

くるくると曲芸の道具みたいに器用に扱いながら、近づいていく。

じりじり追い詰めた奴の顎に警棒が当てられて、顔を上に向けられている。

「やめてくださいよ。俺、未成年ですよ。」

「馬鹿だねぇ。やめないよ。お前のやって来た事、全部知ってるよ。

 藤紋の女子高の女の子。」

一気に見開かれた眼。

姉ちゃんが言う言葉が、何故か全部あいつに突き刺さった。

でも、姉ちゃんは許さなかった。

あいつの腹に容赦なく蹴りを入れた。

「げはっ、げっほ、げふ…げぇ」

苦しむ奴の前にしゃがみこみ、

「あんたの事は絶対に許さないから。私、警察官なの。

 ねぇ、知ってる? 

 彼女はね、今でも怖くて眠れないの。

 あんたが振られて襲わせた女の子は、今もベッドの下から出られないの。

 でもね、最近私に話してくれた。自分を襲った奴らの事を。

 震えながら、小さい声で話してくれた。

 今、ここに倒れている奴らと風貌がそっくりだ。こいつらを、まず逮捕。

 それから、君もだよ。変態坊ちゃま。

 自分からは手を出さないくせに、金でこいつらにやらせた。

 自分だけ救われると思うなよ。」

その言葉を聞いて、白目になり倒れていく。

姉ちゃんは、呆然として立ったままでいる他の奴らにスマホを向けると連射した。

「自分らは逃げられると思うなよ。顔も制服も写っているからね?」

顔を引きつらせて、バタバタと逃げていく。

姉ちゃんは、金で雇われていたという大人たちの顔もスマホに収めていく。

そして、俺に向き直った。

落ちていたナイフを拾って後ろにまわる。

縛られていた体が解放される。

「帰ろう、利人。ひどい顔。母さん、倒れちゃうよ。」

姉ちゃんが、いつもの優しい口調で言う。俺は、首を横に振った。

「俺は、姉ちゃんと居たくない。」

やっと口にできた言葉が、こんな言葉か。

俺自身、間違っているとわかっている。

助けてくれたのに、それでも別の感情がそれに勝った

「なんで?家に帰ろうよ。一緒に帰って、ご飯食べ…」

「俺なんて、いない方がいいんだよ。

 あんたが、嫌いだ。母さんも父さんも。

 大嫌いだ。もう顔も見たくない。」

一呼吸で、吐き出した。

まさに嘘ばかりの言葉を並べていく。

「もう、俺の事はほっとけよ。

 成績も、人格も何もかも追いつかねぇ。

 お前がいるから、比較される。勉強も、何もかも。

 俺のすべてが否定される。」

「母さんは、利人の事を愛している。厳しすぎたって、反省しているよ。」

俺の頬を掌で包み込んで、俺をじっと見つめてゆっくり語り掛けてくる。

やめてくれ、その行為が俺を狂わせる。

疚しい感情を、抱かせる。

その手を払いのけ、

「母さんは、今の生活を維持することしか考えてない。

 俺が、邪魔なんだ。だから、俺がいなくなればいい。

 もうほっとけよ。

 俺がいなくなりゃ、あんたも万々歳だろ。」

姉ちゃんの目が、俺を睨んだ。

「馬鹿か、あんたは。

 利人と母さんがいなかったら、私の家族が二人も居なくなる。」

「うるせぇ! だから、俺なんて死んだ方が…」

『パアン』と乾いた音が響き、じわりと左の頬が熱を帯びひりついていく。

気が付いたら、引っ叩かれていた。

きれいな平手打ち。

母親から否定されて、蔑まれて。

でも、姉ちゃんだけは俺を真っ直ぐに見てくれた。

今、その姉から叩かれた。

この世で一番、大好きな人から。

「くそっ! 殺してやる。それで全部終わらせてやる。」

頭に血液が逆流しているみたいに、かっと熱くなる。

もう、後には引けない。

全部を終わらせたくて、勢いで首を絞めた。

「か…はぁ…」

苦しそうにしている。

やめなきゃ、このままじゃ。

目にしている光景に、急に冷静になる。

でも、手が硬直して動かない。

どんどん姉ちゃんの顔が赤くなっていく。

苦しそうなのに、手を緩められない。

ヤバイ、どうしよう。

でも、手が動かない。

「…この、ばか…」

姉ちゃんは、俺の腹に向けて一撃を食らわせた。みぞおちを捻り上げられる。

「げほ……うえ…。げほ…げほ。」

息が苦しくて、涙がでる。

見上げると、荒い呼吸を繰り返す姉ちゃんの喉元に赤い首輪がくっきり付いていた。

「そんなに私の事が、嫌いか。ごめん、気が付かなくて。」

姉ちゃんは、真正面から俺に伝えた。

でも、もう、俺の事は見ていない。

あの時と、同じだ。駄目だ。

「利人が居たから、今の私がいる。

 だけど私は、あんたを悲しませるだけの存在だった。

 分かったよ。

 最初から居ない様にするから、あんたは家に帰りなさい。

 利人は、最初から一人っ子。

 煩わしい姉なんて、最初から存在しない。

 秋保家には、一人っ子の息子がいる。

 それだけ。」

そう言って、姉ちゃんは俺に背を向けた。

足首が痛いのか引きずっている。

違うよ、姉ちゃん。

急に、くるりと振り返り俺に近づく。

「一日だけ、時間頂戴。全部消し去るから。これ、使いなさい。

 父さんと母さんには、説明しておくから。」

姉ちゃんは、財布から抜いた三万円を俺の制服のポケットに差しこんだ。

「ちゃんと、ご飯食べるんだよ。

そして、ちゃんと家に帰るんだよ。」

再び俺に背を向ける。

足を引きずっていたが、やがて姿勢を正してゆっくりと歩いていく。

違う、ちがうよ。

姉ちゃんは悪くない。

「…ねえちゃん、まって、待って。ねえちゃん」


今と、同じ光景を思い出す。

幼稚園の時、姉ちゃんを初めて泣かせた。

その当時は、再婚してできた初めての優しい家族を『姉ちゃん』と呼べなくて

ママのお友達とか知らない人とか呼んでいた気がする。

父さんと母さんはかなり年が離れていて、父さんの財産目当てだなんて

言われていた。

それを気にした母さんは、俺をかなり厳しく躾けるようになっていた。

それでも、嫌なこと言う親戚とか嫌な奴らから姉ちゃんが守ってくれていた。

ある時、親戚一同で集まっていたら例の如くコソコソ話が始まった。

すると、姉ちゃんは母さんと俺の事を陰で悪く言っていた親戚たちの元へ

スタスタと歩いていくと、

「利人は、誰が何を言おうと私の弟です。

 母さんと利人の事を悪く言う人は私が許しません。」

当時姉ちゃんは小学生、周りの大人達も気まずくなる位の清よ清よしい笑顔で

言ってのけた。

そんな風に言ってくれる人は今までいなかった、小さいながらも分かっていた。

けれど、あの日はイライラして幼稚園に迎えに来てくれても返事もせず、

帰りたくないとぎゃんぎゃん泣いて暴れた。

姉ちゃんが、自分以外の事で悩んでいる気がした。

嫌だった。

『ぼくだけを、みて』

その思いだけがあったあの日。

困り顔で宥める姉ちゃんの顔を、

「来ないで。嫌い!」

勢いでバチンと叩いてしまった。

やってしまったと思った。

ごめんなさい、と言わないと。

「そうか、そんなに嫌か。ごめんね、お母さんに連絡するね。」

悲しげに立ち上がって、幼稚園の先生に事情を説明しに行く。

何度も何度も頭を下げて、門へ歩いていこうとする背中に俺は。

「ねぇちゃん待って、ねえちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい。」

初めて、姉ちゃんと呼んだ。

姉ちゃんと叫んで、俺は足に縋りついた。

姉ちゃんは、抱きしめてくれた。

頭を撫でてくれるその時間が、何よりもずっと愛おしかった。

それからも、共働きで忙しい両親に代わって姉ちゃんが俺の世話をしてくれた。


一時期。

姉ちゃんは、笑わなかった。

ご飯は作るのに、自分は食べなかった。

俺は、ずっと姉ちゃんに抱き付いた。

それでも姉ちゃんは、俺の前では変わらずにいてくれた。

側にいて、ご飯を食べて、勉強を教わって。

やっと笑ってくれる様になり、この時間が続くようにと願ったけれど、

姉ちゃんが大学を卒業して警察学校に入ると、途端に愛おしい時間は消えた。

姉ちゃんが居ない現実が受け入れがたくて、何より特別な感情に

気づいてしまった。

でも姉ちゃんは、姉ちゃんだ。


「姉ちゃん。お願い、行かないで。」

離れたくない。だから、言わなきゃ。

「姉ちゃん。ごめん。」

歩みが止まった。

「利人の姉ちゃんで、居ていいの?」

背を向けたまま、掠れた声で語り掛けてくる。

「ごめん。姉ちゃん、俺帰りたいよ。」

振り向いた顔に、涙の後が何本も付けられていく。

俺の顔にも、自然と涙が溢れて落ちていく。

ゆっくりと俺の前まで戻ってきた姉ちゃんは、俺にすっと右手を差し出した。

ぎゅっと右手を握ったら、涙が止まらなくなって子供みたいに泣きじゃくった。

姉ちゃんは、しゃがんで俺を抱きしめた。

「ばか、心配かけて。

 あんたの友達が、『利人が捕まってる』って連絡くれて、ここに来られた。

 後でお礼言わないとね。」

泣き続ける俺の頭を、左手で撫で続ける。

求め続けた優しい手。

やっと落ち着いた俺の顔に降りてきて、涙をぬぐってくれる。

右手をぐっと掴んで立ち上がると、見上げる存在だった姉ちゃんは、

いつの間にか見下ろす存在に変化していた。

「帰ろう、利人。」

手を繋ぎ直して、歩き出す。

遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、あっという間に騒がしくなった。

いつの間にか、応援を呼んでいたらしい。

俺を捕まえていた奴らが、パトカーに乗せられていく。

俺にも事情聴取したいと話していた警官に、『明日必ず連れていきますので』

と頭を下げる姉ちゃん。

その間も、ずっと手をつないだままだ。

今日は帰ることを許されて、二人で歩く。

しばらく歩くと、

『ぐうぅぅぅ…』

二人の腹の虫が、豪快に鳴いた。

お互いの顔を見合わせて、吹き出す。

「帰る前に何か食べて帰ろうか。父さんたちに、連絡入れておこう。」

そう言って、姉ちゃんはさっき突っ込んだ三万円をポケットから抜き取った。

「何、食べたい?」

「…、姉ちゃんのカレーが食べたい。」

「えぇ? 私のおなかがもたない。」

「じゃあ、姉ちゃんの味噌汁が飲みたい。

 明日の朝。だめ?」

ある日から、姉ちゃんが作ったものを食べられなくかった。

母さんは、料理が苦手。

俺の母親の味は、姉ちゃんの味なのだ。

ずっと、欲していた。

「わかった、今日は家に泊まるよ。

 明日の朝、朝食一緒に食べて警察署に行こう。」

「うん。」

「さて、何食べようか。

 あ、久々に来来軒のラーメン食べに行こうか。ライスと餃子もおまけだ。」

「マジ? やった! すげえ久しぶり。」

どちらともなく笑顔がこぼれて、繋いだ手を大振りしながら店へと向かった。


ああ、そうだった。その時、姉ちゃんに付いていこうと決めたんだった。


『利人、思い出して。』


どこかから、姉ちゃんの声が聞こえた気がする。

姉ちゃんを、裏切るところだった。

でも、姉ちゃん。

やっぱり、犯人が憎いよ。

姉ちゃんがされたことを、し返してやりたい。

『警察官でいてね。頼んだよ、利人。』

もう一度聞こえてきた声に、涙が溢れる。

分かったよ。姉ちゃん、頑張ってみる。

驚く二人をようやく思い出して、慌てて顔を拭った。


*****************


突然涙を流した秋保巡査長に、自分も加納も驚いて固まっていた。

慌てて顔を拭う秋保巡査長は、掠れた声で話を続ける。

「急にすみません。

 あの時、姉が救い出してくれなかったら、俺はどうなっていたか。

 俺を拉致した奴ら。他にも女子高生を襲わせたり、色々していたみたいで。

 当時は結構な大事になって、お叱りを受けたらしいです。

 それを聞いて、俺も警察官になろうと決めたんです。」

自分が『何故?』という顔をしてしまったんだろう。

秋保巡査長が軽く微笑む。

「姉を、支えられる警察官になろうって。

 だから、高校卒業と同時に採用試験を受けました。」

加納が、少し驚いた様な顔をしている。

「事件の事とかは、守秘義務がありますから話せませんけど。

 同じ警察官になれば、苦労を分け合えると思ったんです。

 姉と同じ道を進めば、姉と似たような苦労も自分もするでしょうから。

 悩んだ時に、誰か一人でも理解できる人が居るのは心強いだろうって。

 姉は、一人で全部背負い込んでしまうから。

 警察官になる動機としては、不純だと言われても仕方ありません。

 あくまでも、これは俺がやりたいこと。

 俺が、姉についていきたかった。

 ほら、願ったら同じ署で勤務出来ました。」

目の前には、ボロボロの容姿に似つかわしくない柔らかな笑顔。

なるほど、『シスコン利人』。

これは、筋金入りの姉大好き人間だ。

ここまでくると一種の尊敬の念さえ抱いてしまうから不思議だ。

隣で加納が何とも言えない表情で黙り込んでいる。

だが、秋保巡査長への視線は外さない。

「俺にとって、姉は唯一無二の大切な人です。

 なのに、俺、最後に気づいてあげられなかった。

 違和感は、感じていたのに。

 その姉を殺した犯人を、自分を、俺は許せません。

 だからこそ、俺は、警察官でいます。

 姉ちゃんの思いを、俺が引き継ぎます。」

先程とは表情が違う。憑物が落ちた様だ。

その瞳は、澄んでいて綺麗だと思った。

「君なら、できるよ。」

「ありがとうございます。」

と、頭を下げる秋保巡査長に素直に、そう伝えた。

奪われたものは大きいが、意思を継ぐ者たちが多ければ多いほど

悲しみを乗り越える強い力になりえるはず。

また一人、強い意志を持った者が生まれた。

壁一面に取り付けられた大きな窓から入る太陽の光が、部屋の中を

明るく照らしていく。

それはまるで、弟を見守る姉の喜びが部屋に広がっていく様だった。

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