秋保警部補の部屋

秋保警部補の部屋は、署から徒歩十五分ほどの所にあった。

左右に連なるタワーマンションの一室。

大勢で押しかけるのもどうかということになり、加納と二人で向かうことにした。

正面玄関の自動ドアが開くと、エントランスが広がり左右のタワー用にそれぞれ

自動ドアが設置されていた。

左の自動ドアの前で、中年の男女が待っている。

白髪で恰幅のいい男性と、華奢で小柄な女性が寄り添い、悲痛な表情で立つ様は

見ていて心が痛む。

二人の元へ歩み寄ると、二人に挨拶をして自分と加納の自己紹介を済ませ、

秋保警部補の両親にお悔やみの言葉を伝える。

両親は一様に俯いており、当然のごとく未だに信じられないといった表情でいる。

父親から最初に出た言葉は、

「本当に、うちの娘なんでしょうか。」

だった。

「残念ながら、秋保警部補でした。自分も、ご遺体を確認しております。」

母親の方から嗚咽が聞こえてくる。

「幸さん。」

と呟きながら、ハンカチで涙を拭っている。

一瞬、不思議に思った。

実の娘に『さん』付けするだろうか?

そういえば、父親の方は秋保警部補と目元が似ているなど面影を感じるが、

母親の方からはあまり感じない。

「うん?」

突然、隣で加納が変な声を出して辺りを伺っている。そわそわと

落ち着かない様子。

「加納? どうした?」

「あ。すみません。

 お部屋の方、拝見させて頂いても宜しいでしょうか?」

加納が話しかけると、父親が母親の背中を支えながらエレベーターホールへ

歩き出す。

エレベーターに乗り込むまで、加納は辺りを警戒するような素振りをしていた。


エレベーターを降り、右へ道なりに廊下を進んでいく。

角を一つ曲がってすぐに部屋はあった。

両親がまず先に中に入り、許可を得て玄関へ入る。リビングへ進むと、

南向きの窓から夕暮れに向け太陽が少し傾いた様が見える。

バルコニー付の1LDKの部屋は、白と黒を基調にコーディネートされていて

何となく落ち着く雰囲気が漂う。

隣のベッドルームの扉が開けっ放しになっていて、そちらは木目の綺麗な家具や

机が置かれ奥に整えられたベッドが見える。

母親の方がダイニングテーブルに置かれた椅子に崩れ落ち、両手で顔を覆った。

その肩を、父親がさすり続ける。

私物なども一通り見させて貰って良いかと確認をとり、ベッドルームに入る。

ベッドの上には畳まれたスエットの上下と下着類が置かれていた。男性物の様だ。

机にはペン立てと電卓などが一角に整理されている。横にある本棚には、

犯罪学や児童心理学、性犯罪被害者支援など多岐にわたるジャンルの本が

収まっている。

パソコンの類はない。独自に調査していたというが、データ類などの整理は

どうしていたのだろうか?

この部屋からは、事件の参考になるようなものは見つからないと判断し、

両親に話を聞こうと加納に合図した。

リビングへ戻り、話を聞いてよいかと父親の方に話しかけると、

頷いて向かい側に座るよう促される。

母親の方が『お茶を』と立ち上がろうとするのを、加納が慌てて

『お気になさらず』と引き留めた。

「お辛いときに、申し訳ありませんが。

 いくつか質問しても、よろしいですか。」

父親が、ゆっくりと顔を上げた。

「…どうぞ」

「今回の件、改めてお悔やみ申し上げます。私たちは、秋保警部補のことを

 あまり存じ上げておりません。

 娘さんについて、聞かせて頂けませんか。」

しばらくの沈黙の後、父親の方が重い口を開いた。

「幸は、贔屓目に見てもよくできた娘でした。

 何もできない前の妻に代わりあの子が、自営業で忙しい私に代わって、

 家事全般をこなしてくれました。

 十歳の時に離婚して、私が再婚してからも、妻が私の仕事を手伝っているので、

 弟の面倒は全てといっていいほど見てくれました。

 利人は、幸に育てられたようなものです。文句も言わずに、いつも笑顔で

 いてくれて。

 勉強も、仕事も真面目にこなして。

 なのに、どうして、こんなことに。」

「失礼ですが、利人君は再婚後にできたお子さんで?」

「いえ、連れ子同士で再婚したので、幸と利人に血は繋がっていません。」

「そうでしたか。署内でも、お二人の仲の良さは皆の知るところだったようです。

 口を揃えて話していました。」

「幸さんには、利人のことで本当に色々してくれて感謝しかありません。

 至らない母親だった私の代わりに、本当に良くしてくれて。

 何もかも、甘えてしまって。

 これから、自分の人生を生きていくはずだったのに。」

義理の母が、俯いて泣くのを夫が背中をさすり続けている。

秋保警部補は、なかなかの苦労人なのかもしれない。

「娘さんに、お付き合いされていた方はいらっしゃいましたか?

 男性物の衣類がベッドにありましたが。」

「さあ? いたとしたら、初耳です。

『私は警察と結婚したの』が口癖でしたから、お付き合いしている人は

 いなかったかと。

 結婚する気はないといって、この部屋を購入したくらいですから。」

「あのお…」

加納が、申し訳なさそうに割って入って来る。

「秋保警部補はかなり仕事熱心な印象を受けるんですが、随分と少年犯罪に

 力を入れていたようで…。

 そのきっかけって、何かあったのでしょうか?」

「きっかけがあるとすれば、幸が小学生の時に起きた事件だと思います。」

「ちなみに、どの様な事件だったかお聞きしてもよろしいですか?」

「それこそ、再婚した直後の頃でした。

 幸の同級生の男の子。その子がその…イタズラ…性的暴行を受けた挙句に

 殺されてしまったんです。

 それも、かなり酷い姿のまま道に投げ出された状態で発見されて。

 犯人は直ぐに捕まりました。

 三十代の男で、最低最悪の人間でした。

『子供なら、男でも女でも何でも良かった』なんて言うような。」

「そんな事件が…」

自分も加納も、顔を顰める。

「その男の子とは、家が近くて登下校はたまに一緒だった様です。

 男の子が襲われた日は、帰りに見かけたと。

 幸と別れた直ぐ後に連れ去られた様で、事件を知った後の幸の様子は

 見ていられなくなる位の落ち込み様でした。

 実は、その日途中からいつもと違う道で帰ったと。

『私が、あそこで曲がらなければ』と、暫くの間、自分を責めて泣いていました。

 丁度、性教育の授業が始まったりして知識も入って来ていたのでしょう。

 ニュースなどから、酷い事の内容が分かってしまった。

 昔から、真面目で正義感が強い子でしたから。

 子供が悩むことじゃないと慰めてもダメでした。

 暫く、放心状態でかなり心配しましたが、それでも勉強と家事をこなす中で

 少しずつ笑顔を取り戻していきました。

 我が娘ながら、尊敬しきりです。

 そのうちに、私に空手を習いたいと言い出したんです。

 仕事の忙しさにかまけて、構ってやれない罪悪感と何か夢中になれるものに

 触れて気分転換になるならと空手の道場に通わせることにしました。

 ある時、何故空手なのかと聞いたことがありました。」

そこで、言葉が途切れた。

俯き、目に涙を溜めながら、娘の思い出をなかなか口に出来ずにいる。

数分経った頃、深呼吸を一つして顔が上がる。

「申し訳ありません。幸は言ったんです。

『空手を習って、強くなって警察官になりたい』と。

 それから、空手も勉強も家事も全てに手を抜きませんでした。

 あの事件で、幸の人生は決まってしまったんです。

 警察官になって、性犯罪から子供たちを引き離すと。

 警察官としての人生に、全てを捧げると決めてしまったんです。

 そうして、本当に人生を捧げてしまった。

 あんなに、真面目でいい人間を。

 どうして、娘がこんな目に…」

俯いてすすり泣き始める姿を見て、腹の奥がぐつぐつと沸き返る。

犯人が、この姿を見ることはない。

どんな理由があろうとも、命を奪う事は許されない。

どんな、理不尽な状況でも。

一気に虚しさに襲われる。

犯人が憎いのに、されたことを同じ様にし返すことは出来ない。

『罪を憎んで、人を憎まず。』

誰かの声で、この言葉が聞こえた。

そうか、やっぱり自分は警察官なのか。

警察官でいなくては、いけないのか。

拳をぎゅっと握りしめ、一礼して玄関へ向かう。

加納も黙って、後をついてきた。

玄関で靴を履いていると、二人の号泣が聞こえてきた。

家族の死を悼む声。

扉を開けると夕焼けに空が赤く染まる。

時計を見ると十六時。

まだまだ、一日を終えるには早すぎる。

一先ず、加納と署へ戻ることにした。


警察官を目指すきっかけは、人それぞれ。

秋保警部補が目指した道は、あまりに過酷。

けれど、警察官として分からなくもない。

腹の中の熱が、抑えきれない。

大股で廊下を歩き、エントランスを抜ける。

冷たく乾いた風が流れていくのを感じて、少しだけ冷静さを取り戻した

気がした。

ふと、後ろを見ると加納が振り向いて立ち止まっている。

「どうした加納?」

「あ、すみません。」

振り向いて歩き出すが、小首を傾げて難しい顔をしている。

「来た時から変だぞ。何かあるなら話してくれないか。」

「あぁ、ええと。こちらに来た時もそうだったんですけど、誰かに

 見られている様な感じがして。今もずっと。

 只、見ているんじゃなくて…。

 こちらを、探っているみたいな。」

「探っている?」

エントランス内を見渡しても、誰も居ない。

が、右のタワー用自動ドアの向こう側に一瞬だけ人影が見えた気がした。

自動ドアを抜けるには、部屋の鍵が必要だから後を追う事は出来ない。

ここにもう一度来るような気がする。

「行こう」と加納に声を掛け、正面玄関を出た。


署へ戻り、父親から聞いた事件を調べてみた。

今から二十年くらい前の事件。

データベースの中からその事件を見つけた。

確かに、犯人の男は最低最悪だった。

殺害された子以外にも、被害を受けた子供たちが男女ともに複数人居たのだ。

中には、保育園児の男の子まで。

殺害されたのは、同級生の男の子一人だけの様だ。

小学生だった秋保警部補の胸の内はどのようなものだったのだろう。

想像したところで分かる訳もない。

ため息をつき、データベースの画面を閉じた。

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