第三章 牢獄の異形《昇威過去編》

 闇が深い。空には白々と光輝く月が浮かんでいるというのに、その光さえも届かない闇がそこには広がっている。

 走っても走っても先が見えない。抗えない存在と剥き出しの感情を捨て去りたいが一心に、力を振り絞って昇威は全速力で畦道を走った。

 畦道を抜けたところで、昇威は力尽きたように膝を落として崩れた。空を振り仰ぎ、息を切らしながら夜空に浮かぶ月に手を伸ばす。

 手を伸ばしても届くことのない月の存在。拳を強く握った昇威は悲壮な表情を浮かべ、翳したその拳を一気に地面に叩きつける。何度も何度も叩きつけた拳は真っ赤に染まり、昇威は喉が嗄れるまで叫び続けた。

 花音に笑顔を見せて悟られないようにと強がって見せてはいたが、本当は内心は傷だらけで苦しくて苦しくてたまらなかった。

『ウマソウナ闇ダ……』

 昇威が地面に突っ伏していると、耳元で囁く不気味な声が聞こえた。

 昇威はハッとして顔を上げて辺りを見渡すが誰もいない。しかし、その声は左耳からも右耳からも交互に入ってくる。

『深イ闇……喰ラウ。喰ラウ。喰ラウ。』

 昇威は顔を歪めて脅えるように耳を塞いだ。だが、その両手はすぐに引き剥がされる。

 昇威は恐る恐るその視線を天に投げると、そこには地獄の門が広がっていた。地獄の門の中は牢獄のような鉄の棒の仕切りがあり、そこから赤黒い鬼のような大きな貌をした異形が両手をぬっと伸ばして昇威の両手を掴んでいる。その後ろでは黒い液状の異形が鉄の棒の間からポタポタと抜け出し、昇威の周りを取り囲んだ。

 昇威は赤黒い鬼の異形と目が合った。すると異形はニタリと嗤う。

『出セ……ココカラ出セ』

 昇威はその圧倒的な恐怖に慄いた。その瞬間、昇威の周りを取り囲んでいた黒い液状の異形が一斉に飛び掛かる。昇威は鬼に両腕を捕まれて動けない。

 あっという間に黒い液状の異形がわなわなと身体に張り付き、息が出来なくなった昇威は苦悶の表情を浮かべた。

 一気に闇が押し寄せた。過去の怒りや恐怖、寂しさ、苛立ち、憎悪といったすべての負の感情が蘇り、どんどん自分の中で膨らんでいく。

『オ前ハ蔑マレタ、コノ血ガ憎イカ……』

 鬼の異形が囁く。

『ソレトモ、オ前ヲ蔑ム者ガ憎イカ……』

 一斉に脳裏に流れる過去の記憶。西洋の血が混ざっているというだけで、昇威は幼い頃から蔑まれてきた。壮絶な虐め、疎外、その見た目から化け物と呼ばれる毎日。昇威は何度も自ら命を断とうとした。

『憎イカ……、憎イナラ、殺セバイイ』

 鬼はニタリと嗤った。

「嫌だ……。俺はーー」

 昇威は深い闇の海の底へと沈んでいく。これは走馬灯だろうか……。昇威は死を覚悟したが、流れる記憶の中に一筋の光を見つけた。

「花音……?」

 薄れゆく意識の中で幼い頃の花音の凛とした声が耳元で響いている。正体に気づいた昇威は、助けを求めるように記憶の光の中へと飛び込んだ。


 

「初めまして、鈴鳴花音だ」

 振り返って自己紹介をした少女の顔には、左目が無かった。

 驚いて尻餅をついた昇威は、怯えた様子で叫びながら診察室の扉から飛び出した。

「すまないね、花音ちゃん。診察室には来ないようにと普段から厳しく言いつけていたんだけど……。さっきも紹介した通り、あれが僕の息子の昇威だ。君と同い年で十歳だよ。よかったら仲良くしてやってくれないか?」

 昇威の父親は双眸を狭めて穏やかに笑う。その髪は黄金色で瞳は綺麗な蒼色だ。

「はい、アンディー技師。もちろんです」

「見ての通りなんだけど、昇威は毎日傷だらけで帰ってくるんだ。私の妻は日本人だが、昇威はどうやら私の血を濃く受け継いでしまってね、あの外見が原因でよく虐められているらしいんだ」

 昇威の父親のアンディーは苦々しく笑った。

「そうなんですね。では私が昇威くんの友達になります! こう見えて私は強いんだ。虐める奴らを皆やっつけてやります!」

 花音は自信満々に握り拳を掲げた。

「それは頼もしい。花音ちゃん、今から義眼をちょっとだけ調整するから、昇威と遊んで待っていてくれないか?」

 アンディー技師は花音に眼帯を付けたあと、ガラス製の義眼をじっくりと眺めている。

「分かりました。よろしくお願いします」

 花音は礼儀正しく一礼をして診察室を出た。

 鈴鳴神社から四十分ほど歩いた場所にある大きなお屋敷が宮瀬邸だ。迷路のような廊下を歩いていると前方から泣きべそをかきながら包帯を巻いている昇威がやってくる。花音と目が合った途端、昇威は怯えた表情で踵を返し、全速力で逃げていく。

「待ってくれ!」

 花音は昇威の背中を全速力で追いかけた。あっという間に追いついてしまった花音は、昇威の着物の後ろの襟を力強く掴んで引っ張る。昇威は悲鳴を上げて後方に倒れ込み、後頭部を強打してその場に踞った。

「すまない。昇威くんが逃げるからつい」

 花音は反省した様子で頭を掻いた。

「許してください! ……虐めないで」

 昇威は廊下で踞りながら、涙を流して懇願している。

「大丈夫だ! 私は私は昇威くんを虐めたりしない。むしろ助けに来たんだ」

 花音の凛とした声に、昇威は恐る恐る様子を伺うようにして半身を起こした。

「助けに……?」

「そうだ。先程は驚かせてしまってすまなかったな。改めて自己紹介をする。私の名前は鈴鳴花音。君と同い年だ。よろしく!」

 膝を抱えて座った昇威の目線に合わせ、花音も床にぺたんと座った。昇威の腕に粗雑に中途半端に巻かれていた包帯に気づいた花音は、それを綺麗に結び直してあげると、昇威の後頭部を心配そうに優しく撫でた後、昇威の顔を見て優しく微笑んだ。

 どうしてこの少女は左目を失っているというのに、こんなにも屈託のない笑顔ができるのだろうか。何故背筋を伸ばしてこんなにも堂々と心を強くしていられるのだろうか。昇威はそんなことを心に秘めながら、眼帯をしている花音の右目をじっと見つめていた。

 父親が義眼技師ともなれば、多くの瞳を失った患者がこの場所を訪ねてくる。見慣れている光景ではあるが、自分と同い年の少女が瞳を失っている姿を見るのは今日が初めてだ。昇威はそれに衝撃を受け、怖くなって思わず逃げ出してしまったが、目の前の少女からは敵意は感じられない。

「俺を助けてくれるってほんと?」

 昇威は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら花音にすがった。

「本当だ。虐めてくる奴らから昇威くんを守ってみせる。約束だ!」

 花音は昇威の顔を見て小さく笑って、着物の袖で昇威の涙と鼻水を拭った。そして昇威に向かって小指をつき出す。

 それを見た昇威の顔に笑顔が咲いた。花音の小指に昇威も小指を絡ませて上下に揺らす。指を放した瞬間、花音は立ち上がって昇威の手首を掴んで引っ張り上げた。

「一緒に外で遊ぼう」

「うん!」

 昇威は花音の手に引かれて、長い廊下を軽やかに駆けていく。

 屋敷の広い庭に出た二人は、鬼ごっこをしたり竹馬をしたりして遊んだ。同年代の友達がいなかった昇威はそれが楽しくて堪らなかった。だが、そんな時間も一瞬の出来事によって恐怖へと変わってしまう。

「痛いっ!!」

 昇威は小石をぶつけられ、苦悶の表情を浮かべて頭を押さえた。

「おい、昇威が女の子と遊んでるぞ!」

 小石が飛んできた方向をふと見上げると屋敷の塀の上から五人の少年たちが覗き込んでいる。

 少年たちはげらげらと笑って次々に昇威に向かって小石を投げつけた。

「お前たち、何をしている!」

 その光景を見た花音は激怒して声を荒げるが、少年たちは一向にやめる気配がない。

 石を投げつけられて縮こまる昇威を、花音は庇うようにして抱き締めた。

「女の子に庇ってもらうなんて情けねぇ奴! 金髪蒼眼の化け物~!」

 少年たちは鼻で笑う。ようやく気が済んだのが、少年たちは塀から降りて帰ろうとするが、それを花音が引き止める。

「お前たち! そこで待っていろ!」

 大声を放った後、花音は怯える昇威の背中を優しく擦って「大丈夫か?」と声を掛けた。

「この髪のせいだ」

 昇威は泣きながら自身の黄金色の髪を強引にむしる。花音はそれを止めるように昇威の手首を掴んだ。

「こんな蒼色の目も大嫌いだ! こんな目なんて潰れてしまえばいい」

 勢いでそんな事を口にしてしまった昇威だったが、先程の左目のない花音の顔が過り、その言葉を口にしたことをすぐ後悔した。

「世の中には目の見えない人がたくさんいるんだ。そんなことを滅多に口にしてはいけない」

「……ごめんなさい」

 真剣な眼差しの花音に、昇威は反省するように肩を落とした。

「そんなにその髪が気に入らないなら、後で私が坊主にしてやる」

 花音はそう吐き捨てると、先程まで遊んでいた竹馬を一本だけ持って助走をつけて突然走り出した。

「えっ、花音ちゃん!?」

 花音は竹馬を上手く利用して軽々と塀を飛び越えていく。昇威は驚いたように目を丸くした。

「待って、花音ちゃん!」

 昇威も花音の後に続くように竹馬を駆使して登ろうとするが、転んでしまい、自分には無理だと直ぐに諦めがついて、少し遠回りだが本来の出入り口から外に出て、様子をそっと窺うことにした。

「おい、待て!」

 塀から降りて地面に着地した花音は、少年たちの背中に向かって呼び掛ける。しかし少年たちは花音の言葉を無視して談笑しながら歩いている。

 花音は考えるように顎に手を添えて目を細めた。

「痛い!」

 少年の一人が急に頭を抱えて踞る。

 すると隣にいた少年も同じように叫び声を挙げて、その場に踞った。何事かと残りの三人は後ろを振り返ったが、振り返ったと同時に次々と顔面に小石がぶつけられた。

「石をぶつけられるのは痛いだろう? 昇威くんにも同じことをした自覚はあるのか?」

 花音は勝ち誇ったような笑みを含んで、掌に小石を何個も握りしめる。

「なにするんだよ!!」

 少年たちは敵意を剥き出しにして、花音に飛びかかる。再び花音は瞬時に小石を投げつけるが、少年たちはそれを上手く避けて左右に分かれて同時に拳を振り上げた。

「聞く耳を持たない連中だな……」

 花音は大仰にため息をついて、少年たちの全員の攻撃を見極める。手首を掴み、動きを止めて手刀で頚中、こめかみ、膝でみぞおちを蹴り上げ、顎を跳び蹴りして、最後は一番体格の良い少年を軽々と背負い投げした。あっという間に少年たちは地面に突っ伏していく。

「薙刀や式神を出すまでもないな」

 花音はしゃがんで膝の上で頬杖をつくと、突っ伏している少年の身体を地面に落ちていた小枝でつついた。

「ちょっとやり過ぎてしまったか」

 少年たちが気絶していると気づいて、花音は頬をぽりぽりと掻いた。

「かっ……かっこいい!!!」

 一部始終を見ていた昇威は花音の元に駆け寄った。

「今のどうやったの? 花音ちゃんはなんでそんなに強いんだ?」

 目を輝かせている昇威を見て、花音は自慢気に鼻を鳴らした。

「知り合いから教えてもらった護身術だ。私はこの世界を守るために日々修行をしているからな」

「せ……世界を守るため!? すごい!!」

 昇威は感嘆のため息を溢した。

「あと、さっき花音ちゃんが言っていた『式神』って何?」

 興味深々の様子の昇威に、花音は小さく笑って、人差し指を唇に押し当てた。

「よし、昇威くんにだけ特別に教えてやろう。こっちについてきてくれ」

 花音は昇威の手を引いて、人気のない竹林の奥へと連れていく。少し開けた場所に辿り着いた二人は周囲を見渡して人がいないことを確認する。

「今から式神の騰蛇を召還する」

 花音は式札を掲げて術式を唱えた。投げ捨てた式札は炎を身に纏った人の貌に変化する。炎の翼をはためかせ飛んでいる鋭い目付きの少年が目の前に突如出現し、昇威は腰を抜かして地面に尻餅をついた。

「私の命令一つで、この世に蔓延る魑魅魍魎たちを一網打尽にすることができる。それが式神の力だ。式神使いの私が未熟だから、まだ少年の姿だが、私がもっと修行を積んで強くなれば、それに比例してこの騰蛇の姿形も変わると言われている」

「……これが式神。すごい! 僕も式神ほしい!」

 昇威は目の前の光景に目を輝かせ、花音に憧れの眼差しを向けている。

「きっと昇威くんも修行して強くなれば、式神使いになれるかもしれない」

「本当に? 俺、頑張って修行するよ! 強くなって俺も式神使いになる!」

 昇威は深く頷いた。

「でもその前にーー」

 花音は昇威の目線に合わせて屈んだ。その目付きは真剣そのものだ。

「まずは、誇れる自分になってほしい。自分自身を心から好きにならなければ、真の強さとは言えない」

 その言葉が胸に突き刺さり、昇威の表情が強張る。どうしても自分の容姿が好きにはなれなかった。死ぬまで付き纏う、それはまるで呪いのように。

「私は好きだぞ。その綺麗な髪色と綺麗な瞳の色。きっと皆、嫉妬しているんだ。あまりにも綺麗で……羨ましくて」

 花音は昇威の髪を優しく撫でながら、満面の笑顔を見せた。

 その時、呪いが解ける音がした。

 昇威の心に温かさが広がり、生きる希望の光が沸き上がる。闇を打ち消すように、すっと身体が軽くなっていく感覚――。

「好きになりたい。自分を」

 昇威は天を仰いで、震える声で泣き叫ぶ。

「大丈夫だ。昇威くんならきっと」

 凛とした声が響く。花音は昇威に手を差し出して、小さく頷いた。

 

 


 差し出された花音の小さな手を握り返した昇威は、自ら闇を打ち破った。

 希望の光が赤い鬼の異形の手を払いのけ、わなわなと群がる黒い液状の異形を吹き飛ばす。花音の小さな手に引っ張られ、深い闇の海の底から脱出した昇威は、今までいた場所が自分の心の片隅に封じ込めていた闇の中だったことを認識した。

「……また花音に助けられちまったな」

 周囲を見渡し、先ほどまでいた現実世界の場所に戻ってこれたことに昇威は安堵して、胸を撫で下ろした。

「そういえば、あの後、本当に坊主にさせられたっけな」

 昇威は記憶を巡らせ、思わず吹き出した。

「俺は、今の自分が好きだ。自分が誇らしい。胸を張って強くなったって言える」

 背筋を伸ばし、胸を叩いた昇威は八重歯を見せてニカッと笑うと、式札を周囲に飛ばし結界を張り巡らせた。

「天后、俺に力を貸してくれ!!」

 まだ異形との決着はついていない。

 昇威は式札を掲げ、呪文を唱えて鬼の異形に向かって投げる。式札は、瞬時に水の女神『天后』へと姿を変えた。

 天后は息もつかぬうちに、異形に向かって勢い良く水を吐き出す。すると牢獄にいた鬼は、天后の水を浴びて阿鼻叫喚し、どろどろに溶けていく。

「昇威様! 大丈夫ですか?」

 天后は心配そうに瞳を潤ませている。

「大丈夫だ。心配かけてすまねぇ。……異形につけ込まれちまうなんて、俺としたことが情けねぇ」

 昇威は天后の頭を撫でて、苦々しく笑った。しかし、天后の背後では異形の鬼が溶け出した液体が、牢獄の鉄の棒の隙間を抜けて、地に降りかかっている。

 昇威の様子に安心した天后は、ほっとして息をつく。天后は視線を戻し、地獄の門を見た。その中の異形は消え、地獄の門も闇の中に消えていく。

「天后! 油断するな!」

 昇威の張り上げる声に天后はぴくりと肩で反応する。その刹那、地に蠢いていた赤黒い液体が蛇の姿となって天后に飛び掛かった。一瞬の出来事に反応できない天后は咄嗟に目を瞑ってしまう。

「……昇威様!?」

 しかし、目を開けた時には昇威の背中がそこにあった。昇威は天后を守るように両手を広げて立ちはだかっている。悲鳴を上げた天后は昇威の身体を抱き締めた。しかし、昇威に反応はなく、辺りにはあの赤黒い蛇の姿も見当たらない。

「昇威様!!」

 震える唇で問いかける天后の声に、しばらく沈黙のあと、昇威が反応を示した。

「すまねぇ、大丈夫だ」

 昇威は崩れるように両手と両膝を地につけて、苦悶の表情で何度も咳をする。

「異形は?」

 天后は昇威に触れるのを躊躇ったが、心配のあまり昇威の背中を擦った。昇威の背中に冷たい水の感触が伝わる。

「力尽きて消えちまったみてぇだな」

 掠れ声の昇威は、天后の手を取ってゆっくりと立ち上がった。

「申し訳ありません。油断した挙げ句、昇威様に庇ってもらうなんて……この天后、式神として恥ずかしいですわ」

 天后は顔を両手で覆い被せて泣きじゃくった。そんな様子に昇威はくすりと小さく笑った。

「式神と式神使いは、二つに一つだろ? 俺が天后を守るのは当然だ」

 そう言って天后の両手に優しく触れた昇威に、静かに両腕をおろした天后は昇威の顔を見つめる。昇威は愛おしそうに天后に向かって笑顔を溢した。昇威は優しく天后の頬を撫でる。天后の身体を纏う水の衣は波紋を描き、その温もりは芯まで伝わった。

「昇威様、私の身体は聖水を纏っています。異形に少しくらい呑まれても平気ですわ」

「そんなの分からねぇだろ。聖水の効かない異形だっているかもしれねぇんだ。天后になにかあったらと思ったら、勝手に身体が動いちまったんだ」

 昇威は頬を掻いたあと、天后を引き寄せてその身体を抱き締めた。

「昇威様。そんなことをしたらお身体が濡れてしまいます」

 天后の身体は水の衣を纏っており、触れれば水の表面を撫でるように濡れてしまう。案の定、昇威の着物は見る見る湿っていく。

「ごめんな、天后。俺さ、本当の気持ちに気づいたんだ。……ずっと憧れて追いかけるのに必死だった。……でも今の俺は、胸を張って肩を並べてあいつの隣を歩いていける自信がついた。……あいつは俺を救ってくれたから、今度は俺があいつを救いたい。俺にとって大切な存在だから……」

 昇威が紡ぐ一つ一つの言葉に、天后は少し寂しそうな表情を見せて、そっと目を伏せた。

 天后の両腕が優しく昇威の背中に触れる。

「ようやく気がついたのですね。知っていますわ。この天后、ずっと昇威様のことを見てきたんですもの」

 天后は寂しい気持ちを胸に秘めつつも、主の真っ直ぐな言葉と新たな一歩に、幸せそうな笑顔を見せていた。



 湿り気を帯びた冷たい風が月夜に吹き抜ける。刹那、その風に混じって闇の匂いがした。その風は一瞬で分かってしまうほどの邪悪な気を含んでいる。

 通常は闇の匂いなど感じとることが出来ないのだが、膨大にまで育ってしまった闇は稀に感じ取ることが出来る。

 昇威と天后はすぐさま風が吹いたほうに視線を預けた。

「……昇威様」

 天后と昇威は目を見合わせて頷いた。

「もうすぐ、朽喰が始まる」

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