第四章 朽喰
「本当に玄関で寝ることになるなんて……」
戸口の小さな隙間から吹きつける冷たい風に、紅冥は身体を震わせた。毛布を貰うことができなかった紅冥は鼻を啜って玄関の端っこで小さくうずくまるように膝を抱えた。足も冷えるので草履さえ脱ぐことができない。風通しの良い着物姿の紅冥は本気で元の温かいマント姿に戻りたいと願った。
数時間前までは部屋で花音と満月と一緒におはじきで遊んでいたのだが、満月が疲れて眠ってしまってからは「若い男女が一緒の部屋で寝るなんて言語道断だ」と怒りを露にした柳ニに追い払われてしまった。もちろん柳二も迷惑を掛けないようにと眠ってしまった満月を抱え、亡くなった妻の仏壇がある空き部屋に移動した。
「花音様が恋しいです」
紅冥は嘆きを溢して目を伏せた。
柳二は亡き妻『夏帆子』の仏壇に手を合わせている。居住まいを正して微動だにしない柳ニは数十分間もこの状態のままだ。一日の最後に夏帆子の仏壇の前で一日の出来事を報告するのが柳二の日課になっている。その後ろでは身体に温かい毛布を被せられ、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている満月の姿があった。
「夏帆子、今日は花音ちゃんが来てくれたんだ。あの子は本当にいい子だよ。お前が逝った後も家に来てくれて、いろいろと世話をしてくれるんだ」
柳ニは俯き、絞り出すような声で夏帆子の仏壇に話し掛ける。
「昔の俺は、お前が俺の世話を焼いてくれるのが当たり前だと思っていた。鍛冶屋の仕事ばかりして、お前や満月を構ってやれなかった。けど、お前が逝ってからは、ようやくお前のありがたみが分かったよ。お前がいなけりゃあ家事もろくにできやしねぇ。花音ちゃんが来てくれるからなんとかなってるが……満月の面倒だって……」
柳ニは悲壮な面持ちで拳を強く握りしめた。
「俺は、満月の育て方も分からねぇんだ」
柳二は行き場のない感情をぶつけるように、その拳を畳に打ち付けた。
「夏帆子、どうして俺と満月を残して逝っちまったんだ」
夏帆子は流行り病に罹って半年前に失くなった。その病は西洋から持ち込まれた食品が感染源とされ、治療法や特効薬がなく、この国の医師では手に覆ない難病だった。柳二の必死の看病も虚しく、夏帆子は衰弱しきって命を落としてしまった。
「今日は、またあの『昇威』とかいう小僧が来たよ。西洋人は昔から好かねぇが、お前が西洋の病に罹って、逝ってしまってからは、あの小僧の顔を見るのもおぞましくなった」
柳ニは怒りに身を震わせて、目を伏せる。
「何もかも西洋人のせいだ。お前が死んだのも、この鍛冶屋が廃っていくのも……何故俺たちばかりがこんな辛い目に会わなきゃいけねぇんだ。満月だって可哀想だ。金もねぇ、飯もねぇ、おまけにろくでもない俺なんかが父親で……」
『可哀想ダ。イッソ殺シテシマエバ楽ニナル』
柳二は頭の中に響く不気味な声に頭を抱えた。酷い耳鳴りと頭痛が柳二を襲う。
「やめろ! やめてくれ!」
それは一週間ほど前から毎晩のように聞こえる悪魔の囁きだ。その声を聞く度に憎悪が膨らみ柳二の中の闇が増大していく。
『殺シテシマエバ……』
見開かれた血走る柳二の眼は、爛々と輝いていた。
「お父ちゃん?」
柳二の苦痛な叫びに、傍らで寝ていた満月が眠い目を擦りながら起き上がった。しかし、目の前にいる柳二は、満月の知っている優しい父親ではない。
『イッソ殺シテシマエバ楽ニナレル……』
満月は押し迫る恐怖に震え上がり、その頬に涙が伝い流れていく。
「やめて……お父ちゃん」
柳二は目の前で脅える満月の姿を見てニタリと嗤うと、満月の細い首を片手で力いっぱいに絞め上げる。満月の足の裏が畳から離され、宙に浮く。満月は息ができずに顔面を歪め、その苦しさから手足をばたつかせている。
だんだんと視界がぼやけ、手足にも力が入らなくなった満月は、意識が遠退いていくのを感じ、なす術もなく力無く項垂れた。
花音は一人、畳の上に敷かれた布団に寝転がっていた。目を瞑るが、なかなか眠りにつくことが出来ない。いろいろな考えが脳裏を駆け巡り、花音は小さく息を吐く。
柳二が借金に悩んでいること。鍛冶屋としての今後の経営の難しさ。満月の青い痣。西洋人の血が流れている昇威に対する柳二の態度と、それに悩む昇威の傷ついた心。亀裂の入った大薙刀の修理。おまけに式月華に新たに加入した紅冥の存在。左目の痛み。全てのことが気にかかることばかりで、おちおち眠ってはいられない。
花音はゆっくりと上半身を起こして、頭をくしゃくしゃと掻き毟った。
しんと静まり返っていた部屋だが、突然大きな音が響く。その音が聞こえたのは、柳二と満月がいる部屋の方向だ。
驚いた花音はすぐさま立ち上がり、近くにあった手燭に蝋燭を立てて、素早く火をつけ、それを持って音のした方角へ向かう。
何か嫌な予感がした。花音は邪悪な気配を感じとり、眉根を寄せる。
「……朽喰か、まずいな」
花音の足がぴたりと止まった。普段なら迷わず現場に直行するのだが、今は武器がない。
俊巡した花音は、音がした方ではなく別のところに足を向かわせた。
「花音様、今の音聞こえましたか?」
「丁度良いところに来てくれた! 先に様子を見に行ってくれ!」
途中、花音と同じように大きな音を聞いて駆けつけた紅冥と遭遇し、花音はその肩を叩いた。
「花音様は?」
紅冥の問いには答えず、花音は先を急ぐ。
花音は鍛冶屋の作業場へ行き、あるものを必死に探した。
「あった」
刀身に亀裂の入った大薙刀を手に、花音は再び音のした方へ向かう。
音がしたのは柳二と満月がいる部屋だった。急いでやってきた花音は、すでに部屋の前に立っている紅冥の姿を見つけた。
紅冥は部屋の襖を開け、拳銃を構えて中の様子を窺っている。
「何があった?」
今までになく真剣な眼差しの紅冥の様子に、花音は眉根を寄せて、強引に割り込むようにして襖の奥を覗き見る。
「花音様、危険です。さがってください」
紅冥は花音を制止する。
「満月!?」
そこにはぐったりとした様子で倒れ込んでいる満月の姿があった。
花音は目を見開いて叫んで、紅冥の制止を払いのけて満月の元に駆け寄る。しかし、寸前で柳二が満月の首根っこを掴んでその身体を壁に叩きつけた。
「柳二さん! やめろ!」
必死の形相で花音が柳二を止めに掛かる。紅冥も花音の後を追って、柳二の背後にまわり、羽交い締めにする。
「ここは僕に任せて、花音様は満月さんを!」
紅冥の呼び掛けに花音は頷いて、畳の上でぐったりと横になっている満月の元に駆け寄った。奇跡的に満月にはまだ息がある。だがその首には絞められた手の痕跡がくっきりと形を残していた。何度も叩きつけられたのか、肩も真っ赤に腫れ上がっている。
「骨が折れているかもしれないな」
花音は着ていた着物の裾を歯で引き裂いて、満月の身体に巻き、応急処置を施した。
「花音……お姉ちゃん」
気絶していた満月が目蓋をゆっくりと開けて花音に呼び掛ける。
「満月、しゃべるな。じっとしているんだ」
満月は小さく首を振り、少しだけ状態を起こして花音の腕を掴む。その力は弱々しいものだった。
「お父ちゃん……最近、変なんだ。満月のことぶったりするの。……花音お姉ちゃん、お父ちゃんのこと助けて」
満月の悲痛な叫びに、花音は唇を噛んで拳を強く握りしめた。
「分かった。だから満月は安心して待っていろ」
花音は満月の頭を優しく撫でる。満月は花音の返事を聞いて安心したのか、微かに笑って再び眠りに落ちた。
花音は急いだ様子で懐から掌くらいの大きさの人形の紙を取り出し「本部へ緊急連絡。救護班と応援部隊を呼ぶよう頼む」と息を吹き掛け、窓の外へ飛ばした。人形の紙は帝都の本部の方角へ飛んでいく。それを確認した花音は、今度は式札を取り出し鍛冶屋の周囲に結界を張り巡らす。
「柳二さんだったんだな。満月を傷つけていたのは……」
花音の胸の中で沸々と怒りが沸き上がった。それは満月を傷つけた柳二に対してではない。傍にいながら満月の悲鳴にも気づけず、守ってやれなかった自責の念と、柳二の闇がこんなにも深いものだとは知らず、今の状況に至らしめてしまった自分自身に憤りを覚える。
部屋は濃い闇の瘴気に包まれていた。花音はここまで膨れ上がった人間の闇を見たことがない。
「人の闇につけ込んで身体を乗っ取る異形だな」
花音は戦慄いた。通常の人間には見ることができない濃い闇に柳二は包まれている。
「どういうことですか?」
柳二の腕力は人間とは思えないほどに強く、その両腕を掴んで必死に食い止める紅冥は、顔を顰めながら花音に尋ねた。
「異形の中には高い知能を持つ者がいるとされている。人間の言葉を理解し、人間の闇を見つけるとその者の身体に入り込んで支配し、操るんだ。異形はより深い闇を食すため、取り憑いた者に邪悪な言葉を吹き込み、その闇を増大させるように仕組む。やがて膨らんだ闇を異形は喰すんだ」
紅冥は目を見張った。柳二の手足の血管や筋肉は、異常なほどに隆起している。それに対し、柳二の頬は痩け、目も段々と虚ろになっていた。
「この状況から見て、すでに朽喰が始まっているようだ。朽喰は名の通り、人間が朽ち果てるまで生気ごと闇を喰らい尽くすこと……。喰われた者は命を奪われる」
花音の大薙刀を持つ手に力が入った。
「助ける方法はあるんですか?」
柳二の両腕を掴み、懸命に踏ん張る紅冥だが、そろそろ限界のようだ。
「私はこの状態から元に戻った人間を見たことがない。こうなってしまったからには、朽喰が終わるのを待って、異形が柳二さんの身体から出ていったところを仕留めるしか……」
花音は俯き、唇を噛み締めた。その表情は絶望を宿している。
「あるいは、柳二さんごと異形を殺すしか……。この方法が一番柳二さんを苦しませない方法だ。異形が出てくるのを待つ方法は、痩せて最後は骨になっていくところを見ていなければならない。柳二さんの苦しむ姿を見るのは私にも酷だ。……どのみち柳二さんはもう――」
花音の唇が震えた。覚悟を決めなければいけないと分かっているが、柳二に薙刀を向けるのを躊躇してしまう。
「……そんな弱気な花音様は、花音様らしくありません。きっと何か他の方法があるはずです。少しの可能性だっていい。助けたいと思う意志が大事なんです。僕も一緒になって考えます!」
弱気な花音の様子を見ていた紅冥は、懸命に柳二の両腕を押さえ込んだ状態で、息を乱しながら花音を叱咤する。
紅冥の言葉に花音は瞠目した。
ふと脳裏に柳二の温かい笑顔が甦る。
柳二が端正込めて作った、この薙刀を柳二に向けていいはずがない。そして、満月との約束も、あの小さな叫びも無下にすることなんてできない。
花音の表情に微かな希望が灯る。大事なことを忘れていた――。
強い意志こそが闇を打ち破れる唯一の存在だというのに。それを自分が見失いかけていた。紅冥の言葉に気づかされ、花音は一筋の可能性を見出だす。
「紅冥! その腕、絶対に離すな」
凛とした花音の声が部屋に響いた。
「死んでも離しませんよ――って、えっ!? 花音様の口から『紅冥』って、僕の名前が出てくるなんて……!」
感動した様子で目を潤ませた紅冥だったが、柳二を押さえんでいた腕の力が緩んだのか、柳二は肩を揺らして紅冥の身体ごと振り回そうとしている。
「言ったそばから気を抜くな! ……私は本当にこの男と組まなければいけないのか」
花音は落胆したように頭を抱えた。
「えっ! 花音様、僕と本当に組んでくださるんですか!?」
紅冥は俄然やる気が出てきたのか、先程よりも強い力で柳二の身体を押さえ込んだ。一方の柳二は、自我を失くし、獣のような唸り声を発している。
「今の状況では仕方ないだろう。お前が役に立たなければ、私は即刻お前を式月華から追い出すからな」
「分かりました。必ずお役に立ってみせます。ところで花音様、何か思い付いた様子でしたが、この状態からどうやって柳二さんを正気に戻すんですか?」
紅冥が尋ねると、花音は柳二の正面に立ち、鋭い眼差しで柳二を見据えた。
「柳二さん……」
花音は力一杯に柳二の左頬を引っ叩く。すると柳二の顔が大きく傾いた。後ろで柳二の腕を掴んでいた紅冥は、花音の行動に唖然としている。
「正気に戻れ! 私の顔を見ろ!!」
さらに花音は柳二の顔を元に戻し、今度は右頬を力強く叩いた。
「目を覚ませ!!」
花音はそれを何度も繰り返す。紅冥は口をぽかんと開けて花音に尋ねる。
「花音様、本当にそれで元に戻るんですか?」
「柳二さんの中にまだ光があるのならば、可能性はある。柳二さんは心の強い人だ。こんな闇には呑まれない。打ち破れるはずなんだ」
息を乱して、手を真っ赤にしながら懸命に柳二に呼び掛ける花音の姿を見た紅冥は小さく笑った。
「そうですね。柳ニさん! 聞こえますか? 闇になんて負けないでください!」
紅冥もその表情に希望を宿して、花音と同じように大声で呼び掛けた。
柳二は苦しそうな呻きを上げるも、花音と紅冥の言葉は届いていないようだ。
「お父ちゃん……。お父、ちゃん」
その刹那、消え失いそうな微かな声だが、確かに耳の中に入り込む声があった。それは柳二から痛め付けられ、ぐったりと横になって意識を失っていた満月から発せられた声だ。
その小さな声に、柳二の身体がピクリと反応を示す。それに気づいた花音はさらに声を張り上げて呼び掛ける。
「柳二さん! 夏帆子さんが亡くなったあと、私は満月に『お母さんがいなくなって寂しくはないか?』と尋ねたことがあった。それに満月はなんて答えたと思う? 満月は『お母ちゃんがいないのはすごく寂しいけど、満月には優しくて大好きなお父ちゃんがいるから平気だよ』と……、そう答えたんだ!」
花音の右頬に透明な雫が伝い流れた。
「満月は柳二さんに、どんなに乱暴にされても柳二さんを憎んだり恨んだりはしなかった。ボロボロになりながらも、私に『お父ちゃんのこと助けて』と言ってきたんだ! 満月の父親は柳二さんしかいないんだ! 柳二さんが死んだら満月はどうなる? 鍛冶屋が失くなるより、お金が失くなるより、満月にとってはそれが一番怖いことなんだ! 満月を一人にさせないでくれ! お願いだ柳二さん……」
『ミ……ツキ。ミツキ……』
柳二の双眸から涙が零れた。その瞳には光が宿っている。
『俺の……大事な……娘』
柳ニの心に確かな温かさが広がった。それは生きたいという強い意志だ。その心は深い闇を打ち砕き、柳二に希望をもたらしてくれる。
柳二の妻『夏帆子』が亡くなったあと、柳二は『これから満月を守ってやれるのは俺しかいない』と、焦りを覚え、懸命に働いた。しかし、鍛冶屋の経営は上手くいかず、客足も遠退き、柳二はそれを全て西洋文化のせいにすることで誤魔化していた。
育ち盛りの幼い満月は、そんなことなどつゆ知らず、やんちゃばかりをして困らせる。柳二はそんな満月に苛立ちを覚え、一度だけ満月の頬を叩いてしまったことがあった。今まで満月を叩いたことなどなかった柳二は絶望し、母親のいない今の状況に危機感を覚え、本当に満月を育てていくことが出来るのだろうかと日々不安が募っていった。
そこから生まれた『闇』は、柳二の中で次第に大きくなってしまう。そこへ異形はつけ込み、柳二にさらなる闇を吹き込んだ。
毎晩のように満月を叩いたり殴ったり蹴ったりと暴力を振るうようになってしまい、柳二は自分自身が怖くなってしまった。だが、その感情さえも異形は『闇』へと変えてしまう。濃さを増し大きく膨れ上がった闇を止めることが出来なくなってしまった。
「俺は不安だったんだ。どうすればいいか分からなくなった。それが原因で、一番大切にしていたものを傷つけることになるなんてな。……だけど今は違う。俺はどうすべきなのか分かったんだ」
柳二は強い意志を光に変えて、心の中から闇を追い払った。
柳二に取り憑いていた異形は強い光を浴びて悲鳴を上げ、柳二の中から飛び出し、部屋の中で逃げ惑っている。
紅冥はその場で力なく崩れた柳二の身体を支えた。柳二は闇を追い払ったとはいえ、その身体は前のように元に戻ることはなく、頬は痩せ、身体も肉を削ぎ落とされたように痩せ細ってしまっている。
「柳二さん! 大丈夫ですか?」
「俺は……大丈夫だ。満月のためにも絶対に死ねない。満月の笑顔がまた見たいんだ……」
紅冥の呼び掛けに、柳二は穏やかな笑顔を溢した。
「紅冥、柳二さんを満月のところまで運んでやってくれ」
花音の言葉に紅冥は頷いて、柳二を背負って歩いた。満月の隣に寝かされた柳二は、満月の頬をそっと撫でる。
「すまなかった、満月。これからは父親としてちゃんとお前を守っていくからな」
柳二の言葉に満月は薄っすら目を開けると、にっこりと微笑みを湛えた。
一気に安心してしまったのか、柳二と満月は寄り添うように眠りに落ちた。
花音は部屋の中で逃げ惑う、黒い塊の異形に御神水を振り撒く。
だが、異形の動きが速く、なかなか捉えることができない。
「どうすれば奴を……」
花音は舌を鳴らして、異形を目で追った。大薙刀があっても、こうも動きが速いとそれは無意味だ。頼れるものは竹筒に入っている御神水だけだった。
頭の中でどうするか考えているうちに、黒い塊の異形は素早い動きで畳の上に無造作に置いてあった手燭の蝋燭の火の前を通り抜け、その衝撃で火を消してしまった。
一瞬で部屋の中は暗闇に包まれる。
花音は闇の中で異形の姿を探すが、見えるはずもなく、静寂だけが続く。
式月華で様々な訓練を受けてきた花音でも、暗闇に目を慣らすまでは少々時間が掛かってしまう。ましてや、相手が素早い黒い異形ともなれば見つけ出すのは容易ではない。
「花音様、僕に任せてください」
暗闇の中で紅冥の声がした。紅冥は花音の、肩をぽんと叩く。この暗闇の中でも紅冥は花音の位置を把握しているようだ。
「この格好では動きにくいですが、やるしかないみたいですね」
紅冥は着物の懐に隠してあった拳銃をそっと取り出し、辺りを見渡しながら身構えた。
花音は視界がまだ慣れない分、聴覚を研ぎ澄ませる。着物の擦れる音。紅冥の微かな足音。弾倉の装填音。
紅冥は天井に向かって跳躍した。瞬時に花音の瞳に真紅色の光が映り込む。その光はまんまるく、天井に浮き上がると今度は右のほうへ移動する。光は素早く動いているせいで線を描いているように見えた。真紅色の光に合わせて壁を蹴る足音が聞こえ、花音は眉根を寄せる。やがて目が暗闇に慣れてきた花音は、さらに目を凝らした。
すると紅冥が、部屋中をあちこち移動し、異形を捉えるタイミングを窺っているのが分かる。その左目こそが真紅色の眼光だった。
その瞳の色には見覚えがある。花音は頭の中で記憶を巡らせ、正体を突き止める。
「あの真紅の瞳は――」
花音が、ある記憶にたどり着いた時、部屋中に拳銃の発砲音が鳴り響いた。紅冥は銃弾を異形に命中させ、目を細めて笑って、着物の袂を波打立たせて畳の上へと着地した。
「僕の拳銃の銃弾には、聖水が入っているんです」
紅冥の言葉通り、聖水の入った銃弾が命中したと同時に、聖水が飛び散って、異形は悲鳴を上げて黒い砂となって床に散らばった。
「お役に立てたでしょうか?」
紅冥はその顔に笑顔を灯し、花音の元に駆けてくる。だが、花音は俯いてずっと黙ったままだ。
「どうしましたか?」
紅冥は花音の様子に首を傾げる。
「……お前、人間ではないな」
花音は顔を上げ、紅冥に鋭い視線をぶつけた。その鋭い視線に紅冥は数歩退く。花音は逃さないと言わんばかりに、紅冥に大薙刀の刀身の切っ先を向けた。
「……また僕に刃を向けるんですね」
紅冥は、花音に悲しげな笑顔を見せる。
「お前は何者だ? 一年前も同じ質問をしているはずだ。なのにお前はあの時逃げた」
紅冥は困惑したような表情で、何か言いたげに花音を見るも、すぐその目を逸らしてしまう。
「花音! 紅冥! 大丈夫か!?」
そこへ大声を張り上げてやってきたのは、昇威と天后だった。鍛冶屋の戸を無理矢理こじ開け入ってきた昇威と天后はすでに臨戦態勢で、天后はその手に水の渦を作っている。
「――って、あれ? なんだこの状況」
邪悪な気配を感じ取って、そこへ駆けつけた昇威だったが、目の前で花音が紅冥に大薙刀の切っ先を向けているので、困惑の表情を見せている。天后も同じように戸惑っていた。
「昇威! お前は知っていたのか? こいつが人間ではないことを」
花音の怒気が飛ぶ。その言葉を聞いた昇威は、何故花音が紅冥に刃を向けているのかすぐに理解した。
「天后、すまねぇけど、そこにいる満月と親父さんの容態が心配だ。見てやってくれねぇか?」
昇威には、何故満月と柳二が怪我を負っているのか、経緯が分からなかったが柳二の痩せ細った身体を見て『朽喰』と何らかの関係があるのだと瞬時に判断し、天后に様子を見るように命じた。
天后はすぐさま満月と柳二の元に行き、怪我の具合を確かめる。その場に二人横になっている柳二と満月は、気を失っているようだ。二人とも息はしっかりあり、天后は胸を撫で下ろした。
「本部にはすでに連絡してある。救護班がもうすぐ到着するはずだ。」
花音は薙刀の切っ先を紅冥に向けたままの状態で昇威を一瞥した。
「すまん、花音。全部話してやるから、その薙刀下ろせよ」
昇威は焦りの表情を浮かべ、花音を宥めるも、紅冥を睨み付けたままの花音は、薙刀を下ろそうとはしない。
「昇威さん。……僕から花音様にお話しします」
紅冥は意を決したように、花音の顔を真っ直ぐ見た。
「僕には『人間』と『妖怪』の血が混ざっています」
突然の紅冥の言葉に、花音は目を見開いて驚愕する。
紅冥は自分に向けられていた大薙刀の刀身を、素手でぐっと握った。紅冥の指の筋肉が急激に隆起する。
「離せ!」
花音は驚いて大薙刀を上下に揺らした。
すると紅冥の手から不思議な色をした血が流れる。その血の色に花音は戦慄き、大薙刀を持つ手を緩めた。
動揺している花音の表情を見た紅冥は、それを宥めるかのように屈託のない笑顔を見せた。安心させるような優しい笑顔に、先程まで緊迫していた雰囲気が一掃される。
花音は呆然と大薙刀を下ろして、紅冥から視線を昇威に移した。すると昇威は頷いて八重歯を見せて笑う。
「俺さ、昨日の晩、紅冥と一戦交えたんだ。だってこいつ生意気だろ?」
昇威は紅冥の肩に腕を回し、大胆に笑った。
「そん時に、紅冥の赤い左目を見たんだ。正体を吐かせようと思って、けっこう激しく戦って、本部のシャンデリアまで壊しちまってさ、そのあと上官に見つかって、かなりどやされちまったよ」
昇威は自分の頬を掻いて、少しだけ舌を出す。
「あのシャンデリアをか? お前たち阿呆だな」
花音はやれやれと肩を落とし、紅冥と昇威の顔を交互に見た。
「こんな騒ぎを起こすなら……と言うことで、上官は昇威さんに僕の正体を教えたんです。隠していてもいずれ分かってしまうことですし、僕も承知しました」
紅冥は苦々しく笑う。そして続けざまに本題の『式月華に入隊した経緯』を話し始めた。
「僕は一年前に異形と遭遇し、花音様に助けられました。戦いに見惚れて、あの時から花音様は僕の憧れになったんです。そこから式神や式神使いの事を調べて『式月華』の存在を知り、ここまで辿り着きました。そして隊員に志願した。勿論、式神が使えない僕は入隊する資格はなく、最初は受け入れてはもらえませんでした。どうしても入隊したかった僕は一か八かで『半妖』であることを告げて、式月華の力になれないかと上官を説得しました。見た目は人間に近いですが、それでも僕には妖怪の血が混ざっているのは事実で……本来ならば排除される対象だと言われ、やはり受け入れてはもらえませんでした」
普段は手袋をして、人に見せることのない青白い手。左目の瞳の色を隠すための長い前髪と帽子、西洋のマントも妖怪の血が流れていることがばれないための不安から、身に纏うようになった事を、紅冥は悲しげな表情で語った。
「ですが、突然に上層部は僕を受け入れました。声が掛かったのは、つい最近のことです。どうやら上層部は花音様が式神契約を拒んでいることに危機感を覚え、僕を花音様の新たな『式神』として迎え入れたようです」
紅冥の言葉に、花音は怪しむように眉を吊り上げた。
「式神として? どういうことだ? 詳しく説明しろ」
「上層部は、お前がいつまでたっても新たな式神契約をしないから痺れを切らして、紅冥を式神にしてでも、式月華に引き留めたかったってことだよ」
昇威が突然に口を挟む。その言葉に花音は納得がいかないといった表情で首を捻る。
「上層部にとって花音様は、式月華には欠かせない唯一の存在なんです。過去の花音様は『最強の式神使い』として名を轟かせていました。ただでさえ、最近の帝都には異形の数が増えてきています。今、花音様を解雇することは上層部にとっては、相当な痛手で得策ではないと判断されたようです。それで妖怪の血が流れる僕にまで声がかかった」
紅冥は淡々とした口調で話す。しかし、それを聞いた花音は、頭の中で次々と疑問が生まれ、納得していない表情を浮かべている。
「確かに、妖怪も契約さえ結べば人間の使役にはなるが……。それは半妖も可能なのか? それに、私はどのみち新たな式神と契約するつもりはなかった。何故上層部はわざわざ紅冥を式神として迎え入れたんだ?」
異形を倒すことを目的としている式月華に、半妖の紅冥を式神採用するリスクを侵してまでの価値が自分にはあるのだろうかと、花音の中で疑問が生まれ、その顔がどんどんと険しくなる。
「半妖でも契約は可能です。契約後も僕は通常の式神と違い、常に本体を維持できます。上層部は『式神契約を拒否する鈴鳴花音を説得し、烏丸紅冥を新たな式神として契約させる』ことを条件に、僕を式月華に迎え入れました。おそらく上層部は、花音様の新たな式神の存在となる最後の賭けとして、僕を式月華の隊員として受け入れたのだと思います……。なので、花音様の式神ではない今の僕の現状は、仮の入隊の状態ですね」
紅冥は小さく笑った。
「だから、上官はお前と組むようにと言ってきたんだな。何故それを早く私に伝えなかった」
まだ疑っている様子の花音は鋭い眼光を飛ばした。その様子に紅冥と昇威は互いの顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
「僕の身体には妖怪と人間の血が混ざっている、なんて言ったら花音様は余計に僕と組んでくださらないと思ったので……一年前もそうです。僕は人間ではないと思われて花音様に刃を向けられてしまいました。そしてそれが怖くなった僕は、逃げるしかなかった。僕は花音様に真実を伝えるのが恐かった……。昇威さんにもそのことを話して、僕の正体については黙ってくださるように頼んだんです」
花音は肩を竦める紅冥の姿を見て溜め息を吐いた。
「それで、お前は何故紅冥に味方したんだ? 同情か?」
花音は視線を昇威のほうに滑らせて睨む。花音と目が合った昇威は、ぎくりと肩を飛び上がらせた。焦って慌てて目を逸らした昇威は頭を掻き毟っている。
「昇威さんは、花音様の為に僕に協力してくれたんです」
「おい、馬鹿か!? お前!」
昇威は必至な形相で、紅冥の口を掌で抑え込んだ。
「どういうことだ?」
花音の眉がピクリと吊り上がった。
「いや、お前が解雇されたら式月華の隊員が一人減っちまうだろ? そんなことになったら、異形を倒す数も増えるとこになって、皆にも迷惑が掛かっちまう! だから勘違いするなよ? 俺はお前の為にじゃなく、花音と組めるように紅冥に協力してやったんだ」
昇威は花音の顔を見ようとせず、視線を泳がせている。
しかし、そんな昇威の言葉を聞いて、花音は少しだけ悲しさを滲ませて笑った。
「そうだな……。すまない」
花音の言葉に昇威は胸を撫で下ろして、紅冥の口を塞いでいた手を下ろす。
「昇威さん、いいんですか? 僕との式神契約が失敗した場合、今度こそ花音様が式月華を解雇されるって上官から聞かされたんですよね? 花音様が式月華を解雇されたら、鈴鳴神社が潰れてしまうからって僕に協力したんでしょ? 友達だからそれが当たり前とか、花音様には借りがある、とも言っていたし、思いっきり花音様の為にじゃないですか」
紅冥は昇威の耳元で囁いた。しかし昇威は大きな溜め息をつく。
「本人目の前にして『友達だから』なんて言えるかよ。こっぱずかしい」
昇威は髪をくしゃくしゃになるまで、掻き毟っている。
「だからと言って、あの言い方は酷すぎますよ。花音様、落ち込んでるじゃないですか」
しゅんと肩を落としている花音の様子を見ていた紅冥は、昇威に詰め寄った。
「悪いとは思ってるけど、咄嗟に出ちまったんだよ。本心じゃねぇよ」
昇威と紅冥が小声で言い合いをしていると、花音は人の気配に気づいて、鍛冶屋の外に飛び出した。まだまだ疑問に思うことが山ほどあり、紅冥の疑いが晴れたわけではないが、今はそれよりも優先しなければいけないことがある。
「鈴鳴先輩! 式月華、救護班の卯月一誠。只今参上しました! 怪我人はどちらにいるっすか?」
全速力で駆けてきた少年は、花音の顔を見るなり敬礼をして、急いだ様子で鍛冶屋の中に入る。年齢は十四歳ほどで、おかっぱの黒髪が印象的だ。少年の後ろに続いて数人の救護班が担架を持って入っていく。
「一誠、二人の容態は?」
柳二と満月のいる部屋へ案内した花音は、神妙な面持ちで、式月華の救護班隊長『卯月一誠』に尋ねた。
「お子様は骨も折れていないようですし大丈夫なのですが、強い打撲箇所が多く、治るのには時間がかかりそうっすね。こちらの旦那は随分と生気を抜かれて衰弱してるっす。命に別状はなさそうっすけど、二人ともしっかりとした治療が必要っす」
一誠は着物の懐から式札を取り出し術式を唱える。緑色の光と共に姿を現したのは、十二天将の『六合』だった。六合の見た目は一誠と瓜二つで双子と言われても納得してしまうほどだ。六合は柳二と満月に手を翳す。すると二人を取り囲むように地面から草木が生え、緑色の光を放つ。光は膜となって柳二と満月の身体を包み込んだ。
「とりあえず、草木の生命の力を借りて蘇生術を施したのでこれで様子を見てみるっす」
一誠は花音の顔を見て穏やかに微笑む。
「一誠、来てくれてありがとう。助かった」
花音は安心するように胸を撫で下ろした。
「大変です! 外に地獄の門が開かれて、異形の大群がっ……!」
安堵したのも束の間、救護班の一人が息を切らして花音の元に駆け寄ってくる。
「今……っ、煌龍さんと霧雨さんが……、戦ってくれています」
顔が青ざめ、必死な形相の救護班の肩を優しく叩いて「大丈夫だ」と宥めて落ち着かせた花音は、その視線を昇威と紅冥へと滑らせた。
「おそらく、朽蝕が原因だ。私たちも加勢しよう」
「はい!」
「おう!」
暫くの間、小競り合いをしていた昇威と紅冥だったが、花音の言葉を聞いた途端、真剣な顔つきに変わる。
「一誠。二人の治療、よろしく頼む」
一誠は花音の言葉に静かに頷いた。
朽蝕が起きると、その闇の瘴気を嗅ぎ付け、地獄の門が開かれて異形たちが集まることがある。それを想定して応援部隊を呼んだ花音だったが、外の光景に絶句する。
「は? なんだ……この大量の異形は」
昇威も未だ曾てない異形の数に戦々恐々としている。
「貴様ら! やっと来たか! さすがの私たちでもこの量の異形は、対処するのに時間が掛かる……」
「煌龍さん、霧雨さん! もしかして、応援に来たのって二人だけっすか!?」
「見ればわかるだろう? 私と霧雨さんだけだ」
異形の攻撃を軽やかに紙一重のところで避け続けている軍服を纏った短髪の青年は、掛けていた眼鏡をくいっと指先で上げ、昇威の問いに答える。
青年の名前は『煌龍雷雅』年齢は十八歳。式月華所属の十二天将の勾陣を操る式神使いだ。
「霧雨さん、大丈夫ですか? 他の隊員は?」
花音は異形を大薙刀で切り捨てながら、腰まで伸びた長髪の青年の元に駆け寄った。それを補佐するように紅冥は後方から異形を拳銃で撃ち抜いている。
「やぁ、子猫ちゃん。僕の心配をしてくれているのかい? ありがとう。今日は別件で全員出払っているんだ。僕たちだけでは不足かな?」
雷雅と同じく軍服を纏った長髪の青年の名前は『霧雨砂凪』雷雅の二歳年上で、式月華所属の十二天将の天空を操る式神使いだ。
砂凪は異形に囲まれているというのに、近づいてきた花音の頬を撫でて、優しく微笑んでいる。
「相変わらずですね、あなたは。心配した私が馬鹿でした」
「人手不足だけど、雷雅さんと霧雨さんがいれば最強だな! めちゃくちゃ頼もしい助っ人だぜ」
昇威の言葉に、雷雅は当然だと言わんばかりに鼻を鳴らした。その表情には少しだけ笑みを滲ませている。
雷雅は術式を唱え終え、十二天将『勾陣』を召喚する。バチバチと稲妻を身に纏った黄金色の大きな龍が異形の群れを食いちぎって粉砕する。
「誰が多く異形を倒せるか競争しましょうか」
「霧雨さん! それ乗った! 一番多く倒せたらご褒美くださいよ」
先ほどまで、異形の数に恐々としていた昇威だったが、砂凪の提案を聞いて、いつもの調子を取り戻したのが、天后と共に異形を次々と浄化させていく。
「昇威、遊びではないぞ。私の薙刀も長くはもたない。早く終わらせよう」
「花音様。援護は僕に任せてください!」
花音は刀身に亀裂の入った大薙刀を手に、異形の弱点を見極め、どんどんと斬り倒していく。あっという間に、周囲には異形の残骸が散らばった。
紅冥は花音の動きを予測しながら散らばった異形に銃弾を撃ち込む。花音に襲い掛かる異形にも素早く察知して、身のこなし軽やかに対処している。
「お前ら息ぴったりじゃねぇか!」
昇威は、花音と紅冥の息の合った連携に驚いた表情を見せている。
「早いとこ紅冥と式神契約しちまえばいいのになぁ」
その日の四人は、朝日が昇るまで異形との戦闘を繰り広げた。
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